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<ネタバレ>映画がはじまってまもなく、信望厚い「偉大な王」が、息子である王子に刺される。王子は魔法で鍛えられたという剣を奪い、そのまま逃走してしまう。その後、王が死んだのかどうかは分からない。けれど、父王を刺した王子の年齢が、「17歳」であることを観客は知らされる・・・。
この、「父親殺し」と「17歳」という設定にこそ、監督・脚本の宮崎吾朗はおのれの“すべて”を賭けたのだな、と思う。誰からも尊敬される父親を持つ17歳の少年が、その父親を殺す。そして彼は、彼自身の心の闇から現れる「もうひとりの自分」の“影”におびえ、逃げ続けるという展開がたとえ原作にあったとしても(ちなみに、ぼくは未読です)、それは、この映画の作り手にとってはるかに切実な意味を持っているに違いない。もちろんそこに、宮崎駿という「偉大な父」を、その息子である吾朗監督が「殺す」というエディプス的な〈家族の物語〉を見出すことは簡単だろう。彼ら父子がいったいどういう「関係」だの「葛藤」を抱えてきたのか、それがこの作品にどういう“影”を落としているのかを推察するのも、興味深いのかもしれない。
が、この映画が本当にめざそうとしたのは、なぜ「17歳」の少年が「父親」を殺したか、なぜ「17歳」の少年は自分の“影”におびえ逃げ続けるのか、なぜ「17歳」の少年は命の価値を省みないのか・・・を、自らに問い、懸命に答えようとすることだったんじゃないだろうか。少なくとも吾朗監督は、その“自問自答”を、それだけをただ繰り返す。物語よりも、展開の妙よりも、「面白さ」よりも、その問いかけこそがこの映画の「すべて」なのだ、と言わんばかりに。
そこに、とりあえずの「答え」は可能でも、本質的な「答え」は不可能だろう。それは作り手たちにも自覚されていたはずだ。だから、“とりあえず”のかたちでしか終わり得なかった本作は、明らかに破綻しているし、「失敗」している。しかし、その“問い”の真摯さは、間違いなく本作の主人公の、そしてたぶん「宮崎吾朗」という作り手の抱える“心の闇”を共有する「17歳」たち(もちろんそれは、実際に17歳であるかどうかということでなく)の、心の最も深い場所に届くものだ・・・とぼくは信じる。その意味でこそ、ぼくはこの映画を断固支持したく思うのだ。
・・・そう、「面白い」以上に大事なことが、映画にも、人生にも、きっとある。[良:13票]