<ネタバレ>映画の中で、人々が「記念写真」を撮る場面は、どうしていつも感 .. >(続きを読む)[良:4票]
<ネタバレ>映画の中で、人々が「記念写真」を撮る場面は、どうしていつも感動的なのか。それは、たぶん人物の写真を撮ったり撮られたりすることが、まもなく彼や彼女たちに訪れる“別れ”を暗示し、予告するものだからだ。・・・小津の『麦秋』や侯孝賢の『悲情城市』における家族写真、『少年時代』の主人公と村のガキ大将が撮った2人だけの写真、等々。『二十四の瞳』でも、大石先生と子どもたちが撮った写真は、いくつもの別離のたびにその悲しみを深めるものだった。
この『BALLAD』にも、「記念写真」の場面が登場する。それは武将・又兵衛とその配下の武士たちが、明朝に敵陣を強襲する前に、未来から来た少年・真一の父親が「写真を撮りましょう」と提案する場面だ。初めての写真に、緊張する又兵衛たち。だが、思い思いのポーズをとったりふざけあいながら、彼らは、楽しげに撮影に臨む。そして又兵衛は、「これで、この世に生きたというあかしを残せた」と感謝するだろう。
この場面は、こよなく美しい。それは、死地へとおもむく者たちを描くための、ただの感傷的な設定に過ぎないのかもしれない。だが、監督・脚本の山崎貴の意図がどこにあったにしろ、わざわざ真一の父親の職業を「(売れない)カメラマン」にしてまで盛り込んだ、この、原作アニメにもなかった場面があるからこそ、ぼくにとって『BALLAD』は忘れがたい作品となったのだった。山崎監督は、映画において「愛する人々の写真を撮る」ことの悲劇性を、ここできっちりと見据えている。タイムスリップを題材とした荒唐無稽な時代劇が、先に挙げた小津や侯孝賢作品をはじめとするひとつの「映画(史)的記憶」に満ち満ちたものとしてあることへの驚き・・・。
もちろん、そういった小賢しい贅言を弄さずとも、その美しさは、『非情城市』や『麦秋』がそうだったように、誰の胸をも打つものだとぼくは信じる。確かに、少年の成長物語としても、姫と武将の悲恋ものとしても、この映画はただただナイーブにすぎて、「オトナ」である貴方は嘲笑するばかりかもしれない。しかし、そういった作品が一方で、驚くほど豊かな「感情[エモーション]」と「表現」を実現していること。その事実をぼくたち観客も、見る、あるいは感じ取る“責任(!)”があるとつくづく思う。
というワケで、満点献上でも良いのだけれど、やはりここは原作アニメに敬意を表して・・・[良:4票]