なんとなく違和感を感じながら見ていると、この作品の舞台となる .. >(続きを読む)
なんとなく違和感を感じながら見ていると、この作品の舞台となる結核療養所へと画面が変わり、そこに映し出された窪塚洋介に対する「がんばれよ」とそれに応える「よーしきた」の日常会話から遠く離れたトーンの掛け合いが違和感をより加速させる。その後何度も出てくるこの掛け合いが端から日常会話なんかではなく一種の号令みたいなものだとわかると、違和感は一時薄れはするものの、川上未映子の登場で違和感が再び顔を出す。その聞き慣れたはずの大阪弁の不自然さに不思議な感覚を覚えたのだが、その不自然さの正体、違和感の正体はおそらくオールアフレコからきたものと思われる。昔の映画なら当たり前の、またけして音と映像がずれているわけでもないこのアフレコが独特の違和感を生んでいる。セリフを交えたナレーションにまるでミュージッククリップのようにイメージ画像をはめ込んだような感じ。「言葉自体の軽薄さ」を表す方法としてのアフレコという【ザ・すぺるま】さん のレビューに目から鱗ですが、そこに気付かなくともなんとなく映画に感じた違和感そのものが魅力となっているような気がします。とは言うものの仲里依紗の布団部屋の声は違和感が突出しすぎてもはや違和感ではなくなり異様にすぎる。「いやらしい」と「いじわる」の連発はその言葉が発せられるたびに個人的な記憶の角をつつかれているようなこそばさがあってけっこう好きなんだけど、その言葉に対する主人公の解説はべつにいらないかと。