大映というだけでこうまで変わってしまうのか。それとも宮川一夫 .. >(続きを読む)[笑:1票]
大映というだけでこうまで変わってしまうのか。それとも宮川一夫の影響か。いや、脚本の時点でいつもの小津映画ではない。それはこの作品が大映であるからであり、大映であるからには宮川になるからということなのかもしれない。映画冒頭の灯台を映した画。それだけならいつもの風景から始まる小津映画だ。しかしその灯台を構図とアングルを変えて何カットも見せてゆくとなると話は違う。意味はわからないがそこからしていつもの小津ではなく、ゆえにそれはいつもの小津映画ではないことのノロシとしてあるのだと思う。男女が罵倒しあう様を小津独特の切り替えしで見せるとどうしてもどこかコミカルになるところを中村鴈治郎と京マチ子と激しい雨が泥沼のような感情の暴露にしてしまう。キスシーンはアップで撮っちゃうし、若尾文子は感激して大袈裟に涙を流しちゃうし、いちいちドラマドラマしている小津らしからぬ躍動ぶりに驚かされる。釣りをする親子の後姿や杉村春子の合いの手のような会話はいつもの小津調であり安心感がある。するとこの安心感を提供する世界の崩壊はまさに小津がよく描く家族崩壊なんだけど、その崩壊の担い手として大映的抑揚のドラマを持ち出したのだろうかなどと勘ぐってみたりするのもまた楽しい。[笑:1票]