<ネタバレ>冒頭から、どこの国の音楽かわからないがそれとなくキャッチーで .. >(続きを読む)
<ネタバレ>冒頭から、どこの国の音楽かわからないがそれとなくキャッチーで若干ダサイ匂いのする音楽が多用され、雲行きに若干の不安を抱きましたがそれを一転させる静けさにグッと集中力が高まり緊張感が全身を包みました。音のON / OFFによる意識的な聴覚への刺激が生む、視覚の集中。冒頭でこの作品の、あるいは監督のやらんとしていることが明解で「ON / OFF」の切り替えによる効力を存分に発揮させた作りになっており、監督の作家性とすごくマッチしていたように想います。また、主人公の過去どころか名前すら明かされないこの物語が何を観客に投げかけているかと言えば、観客の想像力を信じているということです。大まかな人物像を描き、その他は説明はしないことによって観客は無意識に彼のバックグラウンドをおのおので想像するのです。このライアン・ゴズリング氏、序盤のポーカーフェイスはようするに理性、冷静さの作られた彼の表情であってそれがアイリーンを愛してしまった事で強固であった筈の理性が徐々に崩壊し出します。壊れかけの彼の心情は「説明」ではなく「画」の中の行為、それを象徴させる「何か」で表現されているのがラジエターを直すシーン。手元だけを照らす照明、顔は暗部。後ろに流れる音楽がその手元を狂わす。壊れているのは彼の心であり、車の心臓部ともいえるラジエター。正常に戻す為、また走り出す為、あるいは理性をそこに維持する為。メタファーが心を抉るようにその切ない心理がヒリヒリと胸に滲みる。そして狂い出したラジエター。理性とは。今日の文明社会ではやっていいこと、だめなことが山ほどあってそれをモラルとか道徳観とか法律とかマナーとか、そういった社会の一人として波風立てず生活する為に“破壊の本能”を押さえる自己制御の意識。その意識の強かったのは、本能が人一番強い彼がいたからだろう。彼自身が最も彼をわかっている、それが観れば観るほどよくわかるからこそ、その崩壊のカタルシスとアンビバレントに押し寄せる切なさに胸が苦しくなる。相手を求めれば求めるほどに比例して、喪失を予感させ、その一連が終わった瞬間、このシーンの全てが暴力であり、愛である事を強く感じました。ラストシーンも同じで、生きているかも知れないし、すぐに死ぬかもしれないが、その先を観客が想像した時、映画がその人の中で真に動き出す瞬間なのだとぼくは思います。