<ネタバレ>心に残る映画。僕は「なかなかよかったぞー」と叫びたくなる。 .. >(続きを読む)
<ネタバレ>心に残る映画。僕は「なかなかよかったぞー」と叫びたくなる。
原作小説は、以前、大澤真幸の評論で紹介されていたことをきっかけにして読んだ。現代人は、自らの人生を回収し安心できるような既成の物語を失っており、伝統的な精神分析で解釈し癒すことができない、つまり物語によって内面化され得ない「新しい傷」を負っている。大澤はそう言う。『八日目の蝉』の登場人物達はそのような「新しい傷」を負った人々である。希和子が薫に注ぐ愛情には母性という根拠(物語)が最初から失われている。そして、希和子に育てられた薫は、その無根拠の愛情故に、始めから根拠が失われた世界を生きざるを得なかったのである。
「根拠が失われた社会の中で、人はどのような生きる正しい道筋を辿ることができるのか?」 これは、村上春樹の小説のモチーフにもなっていたように、80年代以降の文学的核心だったのだと僕は思う。(意識的にも無意識的にも僕らはそこにこそ共感したのだ) そんな現状認識を踏まえなければ、『八日目の蝉』の「物語を失った人々の新しい物語」という本来的な意義を理解することはできないだろう。『八日目の蝉』は母性愛を問うた物語ではなく、そういった幻想(母性というのは近代社会の生んだ物語でもある)が剥ぎ取られたところにどのような物語が可能なのかという、物語自身の可能性を問うた物語なのである。(『トウキョウソナタ』と同じモチーフ)
さて、映画は、希和子や薫の淡々としたモノローグで構成される小説世界をうまく映像化していたと思う。そもそもこの題材は、小説よりも映画向きである。解釈の仕方は鑑賞者次第だけど、改めていろいろと感じさせるものが僕にはあった。小説で印象深かったラストシーンの希和子の言葉にまた涙した。そして、新しい関係性を掴む薫の決意にも改めて感動した。