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<ネタバレ>是枝裕和の『怪物』は3部構成。ひとつのプロットを3つの視点により描いている。
1つ目の母親の視点では、保利がとことん歪んでいる。
2つ目の保利の視点では、湊が歪む。
3つ目の湊の視点で、歪むのは誰か?
羅生門形式。そもそも、映画とは他者の視線から見られた世界の風景。世界を捉えようと思ったら、その世界なるものを多くの視点で囲んでいくしかない。それは視線の「反復性」と呼ばれる。
視点によって人物像が違っているのは、主観による視点であるから。それが怪物を生む。湊の視点は不安定で、「それ」が歪んで見えかけるのだけど、自分がどうしようもなくなり、それを受け入れる。そのキッカケが校長のいるところ。結局、怪物を断つ回路は、言葉(世界)ではないところ「非言語性」にあったのだなと。
すべての物語は本来、謎解きである。でもそれは容易には解かれない。だから謎は宙吊りとなり、観ている人の身体の中に「内面化」され、その人のものになる。
「反復性」「非言語性」「内面化」
『怪物』を傑作たらしめているターム。私ならこの3つを挙げる。
「なぜ性的マイノリティを描きながら不可視化したのか?」
それは、映画がその「気付き」こそを描きたかったから。ある人は、最後に二人が死んで違う世界で生き返ったとし、現世の死を以て、制裁が再生産されたと言う。これを「君と世界の戦い」(カフカの『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』)として単純化すれば、ある人は、「君が世界となるべきだ」と見做し、映画は「君は君であるべきだ」として映す。
私は、映画が文芸であるとすれば、映画は「君は君であるべきだ」ということこそ捨ててはいけないと思う。それが優先されなければ、君が世界になる、その世界を描くことだけに過ぎなくなるから。監督は、性的マイノリティーの世界ではなく、「君」を描きたかった。その決意を『怪物』から強く感じる。
彼ら二人は何処に生き返ったのか?ビッグクランチは時間の逆行。実は死んだのは飽和した世界の方だった、というのが私の解釈である。