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<ネタバレ>中村錦之助の一心太助シリーズ現代編。一心太助から二十三代目の魚屋兼サラリーマン石井太助を演じるのは錦之助ではなく、弟の中村賀津雄。賀津雄は前作『家光と彦左と一心太助』で徳川忠長を演じ、錦之助の太助/徳川家光と共演していて、これがなかなか良かったのだが、今作ではサラリーマン太助だけではなく、ご先祖様として現れる本家の一心太助も演じている。一心太助は中村錦之助の役と姿も声もそっくりで、ほとんど見分けがつかないのだが、そこはかとない小物感、そっくりさん感があって、そこに拭いがたいB級性が漂う。
大久保彦左衛門の子孫、大久保彦造を演じるのは前作『家光と彦左と一心太助』に続いて進藤栄太郎。ここも月形龍之介でないところがB級的。徳川家光の子孫、徳川の末裔かどうか分からないけど、葵食品三代目社長を演じるのは、なんと渥美清。一心太助の伴侶たる、お仲、中原ひとみが渥美清の奥方役。サラリーマン太助のマドンナは三田佳子。この辺りの入れ替え感も本家との違いを強調するのだけど、結局、この作品の位置付けを一心太助のパロディと考えれば上記の入れ替え感、B級感はとてもしっくりくるのである。実にいい感じで。
本家の一心太助と言えば、とにかくコミカルで、ズッコケが過ぎているけど、それでいて精悍で、威勢のよい啖呵がもの凄く格好いい。一方で、サラリーマン石井太助はズッコケだけで精悍さが全くない。お得意の正義感や厚い人情、仲間思いの行動力も決意も全くない。最後の最後までダメ人間で、ご先祖に憑依されて何とか持ちこたえる始末。これまでの一心太助の勧善懲悪ストーリーとは違うのでその点は期待外れかもしれないけど、そもそも江戸初期と戦後高度成長期の時代性、人間性の違い、このストーリーに込めた風刺や警鐘の表現として、その規格違い、期待外れ感は、意図された入れ替え感と併せて必然とすら感じて、私は逆に現代版の一心太助にかなり好感を持っている。実際、観ていて妙に感心し、そして大いに笑った。若き三代目葵社長の渥美清の存在感、彼特有の喜劇口調が最初から最後まで素晴らしく、そこに曲者の田中春夫や千秋実が絡んでくるのだから堪らない。そのやり取りを観ているだけですごく楽しい。
一心太助恒例のエキストラ総出のお祭り騒ぎや盛大な立ち回りは、ここでも健在。都心?の道路を封鎖して、多数の車やトラック、大人数の大衆が入り乱れる。葵食品による誤情報によって大損害を与えられた人々、大勢の激高した大衆に追いかけられ、もみくちゃにされる太助と葵社長。ここは画面に迫力があって、圧巻のシーン。結局、太助は、機械、コンピュータの誤情報に振り回され、社会を混乱させ、大衆に吊し上げられて、逮捕までされてしまうのだけど、それも最後には突然なかったことになる。夢か幻かって訳ではないが、それらの失敗も単なる教訓として捉えられ、水爆システムの故障による誤爆でなくて良かったなどと演説されて、会社として、個人として、再出発して普通に終わる。そのあっけなさ、能天気さはあまりにも手のひら返しすぎで唐突すぎるけど、実は大戦前後の日本の大衆そのもの(主体性の無さ、お上意識、故の唐突な転向)を風刺しているようにも感じた。実は、その唐突さを本当に善きこととして見ていない、本来あるべき自主的でボトムアップなルールの訂正と更新を未来に託し、現代の主体性の無さを物語として風刺していると観れば、全く笑顔のない太助のラストカットの意味も納得するのである。
この映画で騒動の中心となる電子計算機は、今で言う「人工知能による(ビッグ)データのアルゴリズム解析」のことだろう。そこを少し読みかえれば、SFコメディとしてもそれなりに楽しめる、かな。