この映画は、TVメディア批評のみならず、主要登場人物の一人が .. >(続きを読む)
この映画は、TVメディア批評のみならず、主要登場人物の一人が映画監督気取りであることからもわかるように、映画というメディアの批評でもあろうとしているようだ。このように考えると、他の多くの映画と同じようにいかにも頭の悪い悪役が登場するにもかかわらず、悪事が一定程度まで達成されてしまうこと、さらにはこの映画自体のパロディのような場面が登場することも、批評性の現れではないかという読みも可能である。前者はアクション・ヒーロー映画へのアンチ・テーゼと解釈できるし、後者に関していえば、パロディは対象への批評の上で成り立つ表現である。そして、TVや映画などといったメディアを通して社会を観察する「大衆の視線」にもかなり意識的だ。メディア・スターのナルシシズムは随所に描かれるし、今やその視線により善悪の基準となった大衆は、この映画では悪役に加担する共犯である。こうした批評性を内包しつつも、デ・ニーロ主演のクライム・アクションというエンタテインメントの衣をかぶせることによって、社会批評的メッセージを広く伝達しようとした意欲作といえるだろう。しかし、「みんなのシネマレビュー」での評価の低さを見れば、このメッセージの伝達には失敗したという他はない(ついでに言えば、エンタテインメントとしては当然失敗である)。私にとっては結構興味深い映画であったけれども。ちなみに、既に誰かが指摘していることだとは思うが、タイトルは、“in the future everybody will be famous for 15 minutes”(将来、誰もが15分間だけは有名になることができる時代が来るであろう)というアンディ・ウォーホルのそれ自体メディア批評的な箴言に由来している。