余命2年。そのあまりに残酷な“運命”を突きつけられ、“彼”は .. >(続きを読む)
余命2年。そのあまりに残酷な“運命”を突きつけられ、“彼”は己の人生から逃避するように“彼女”の元を去ろうとする。
それでも、彼女は背筋をピンと伸ばして、彼の後を付いていく。
そして、眼鏡の汚れを拭き取り、キスをする。
その瞬間、彼は、彼女によって、その先の人生を生きる意味を与えられたのだと思う。
生かした者と、生かされた者。
両者は時の流れとともに、くるくると回転するように、入れ替わり、立ち代わる。
この映画は、現代が誇る“天才物理学者”の功績を描くものではない。
スティーブンとジェーン。この男女が共に過ごした「時間」を、ありのままに切り取ったような映画だった。
それぞれの人間の強さも弱さも平等に描いたこの物語は、必ずしも綺麗事ばかりではない。
過酷な人生の中で、当然起こり得る人間の感情の機微を、決して臆すること無く誠実に描き出したこの映画は、とても勇敢で、辛辣で、だからこそ“人間”に対する慈愛に溢れていると思えた。
スティーブン・ホーキングという物理学者が専門とする「量子宇宙論」なるものを正確に理解することなんて、僕には出来やしない。
けれど、それが「宇宙」と「時間」という絶対的な概念に対する果てしない探求であることは分かる。
この映画が、二人の男女の心模様を通じて描きつけたものは、まさにその「時間」の残酷さと慈しみだった。
“2年”という時間の限界を越えて生き続けた男と、彼を生かした女。
誰よりも明晰な頭脳を持ちながら、その考えを伝えるためには、誰よりも膨大な時間が必要となってしまった男。
時に奇跡的に、時に過酷に、「時間」は彼らを生かした。
ラスト、博士と彼女は並び、「見てごらん、僕らが築き上げたものを」と視界を共にする。
その瞬間、かつて彼が提唱した理論をなぞるように“彼らの時間”が巻き戻っていく。
彼らが辿った道程とその行く末が、幸福だったのか、不幸だったのか、それは他人には分からないし分かる必要もない。
それは彼らだけが、判別すればいいことだ。
ただ僕は、二人が歩んだ「時間」そのものが放つ光に涙が止まらなかった。
たぶん、この2、3年ほどの間でいちばん泣いた。
喜びも、悲しみも、全部ひっくるめて泣いた。
それは、「宇宙」と「時間」の真理を追求する天才物理学者を描いたこの映画において、とても相応しいことだったと思う。