バスター・キートン、チャールズ・チャップリンの時代から、アジ .. >(続きを読む)
バスター・キートン、チャールズ・チャップリンの時代から、アジアではジャッキー・チェン、そしてトム・クルーズに至るまで、「映画」とは“アクション”の歴史だ。映画の撮影時に「アクション!」という号令と共に撮影が開始されることからも、それは明白だろう。
そして、その映画製作の系譜において、銀幕に大映しになるスター俳優と同等以上に実は重要な存在が、“スタントマン”であり、彼らの存在と研鑽がなければ、映画という娯楽は成熟しなかったと言っても過言ではないだろう。
この映画のすべては、溢れ出る“スタントマンリスペクト”と、映画製作そのものにおける“アクション愛”。
あらゆるアクション映画を観続けてきた世界中の映画ファンにとって、愛すべき娯楽映画だったと思う。
鑑賞前は、もっと単純なアクション描写に振り切ったコメディ映画だと思っていた。もちろんその側面も確実にあるのだが、この映画の面白さは、その“多層性”だろう。
表面的には主人公であるスタントマンが、自身が生業とするアクション映画さながらに大活躍するエンターテイメント。だがそれと同時に、彼が現在進行形で関わる映画製作の現場や、もっとマクロ的な映画界の性質自体が、入れ子構造となり、ユニークでエキサイティングなストーリーテリングを生み出している。
想像以上に色濃く描かれるラブコメ要素や、類型的な悪役像も、そのストーリー構造を踏まえた“狙い”によるもので、映画ファンであれば必ず感じる「既視感」が、本作のメタ的要素を引き立て、その上でプラスαの娯楽を生み出していたのだと思う。
同様に、あえて大仰に、大雑把に見えるアクションシーンの意図も明確だ。
ライアン・ゴズリング演じるスタントマンの男が、この映画の中で繰り広げるアクションシーンのすべては、“スタントマンの仕事”そのものであり、普通の映画であれば大味で不自然に見えるアクションの数々が、それを際立たせていた。
当然ながら、本作でもライアン・ゴズリングの代わりに危険で高度なアクションを担うスタントマンが存在しているわけで、そのことをあえて観客に感じさせる数々の描写が、この映画の本質を突いていたと思える。
スタントマンリスペクトを掲げる一方で、主人公をはじめとするキャラクターは魅力的に描き出され、ライアン・ゴズリング、エミリー・ブラントらスター俳優の魅力も存分に引き出している点も、本作の愛すべき要素だろう。
ライアン・ゴズリングは独特の存在感と人間味で、主人公のスタントマンを違和感なく好演していた。溢れ出るスター性を醸し出しながらも、どこか人間的な脆さや滑稽さを感じさせるこの俳優にとって、本作の役どころはまさにはまり役だったと思う。
主人公の元恋人&アクション映画監督役を演じるエミリー・ブラントも素晴らしかった。どちらかと言うと硬派な女性像を演じることが多く、元々の大好きな女優の一人だったけれど、本作ではその元来の性質を活かしつつも、とてもキュートで魅力的な女性像を体現していて、益々好きになった。クライマックスで突如としてそのアクション性を開眼させる描写も最高だった。
アクション、コメディ、ロマンスが入り混じり、時に特異な強度でいろいろな要素が飛び出てくるびっくり箱のような映画だ。
自身がスタントマン出身であり、スタントコーディネーターを経て、今やアクション映画監督のトップランナーであるデヴィット・リーチだからこそ描くに相応しい、いや描かずにはいられなかった映画世界に対して、力強く“サムズアップ”を示したい。