<ネタバレ>恐らく押井監督はこの作品において、「人形」と「人間」を区別せ .. >(続きを読む)[良:1票]
<ネタバレ>恐らく押井監督はこの作品において、「人形」と「人間」を区別せず、そして(人間自身を含んだ)「動物」に対する愛と「人形」に対する愛をも区別しないという姿勢を取り、そこから見えてくるものをこの作品で表現しようとしたのではないかと思います。
個人的に印象に残っているセリフで、「鏡は瞥見するものであり熟視するものではない」というものがあるのですが、これに関しては、作中に出てくるような精巧な「人形」が登場するようになれば、人間と人形との境界が曖昧になっていくばかりであり、そのような状況であえて人間と人形の区別を問うことは、それこそ人間の存在基盤を曖昧にしてしまう恐れがある、従って我々はあえてこのような問いを発するべきではない、すなわち「鏡を熟視」すべきではない・・・こういう意味があるのではと思っています。
僕はこういう主張に対しては、ある程度共感すると共に、「ちょっとそれは考えすぎではないのか」という気がしないでもありません(もし上に書いたような主張が本当にこの作品に込められているのだとすればですが)。例えば作中での「子育て=人造人間製造の欲望」という考えに関しては、実感としてピンと来ない上に、このような考え方が余りにも論理的であり、人間の「人間臭い」面を軽視しているのではないかと思えてなりません。
もっとも、この点に関しても、押井監督は監督なりに回答を用意しているのかもしれませんが。そしてその回答が、ラストにおける少佐とバトーとの再会シーンに込められているのかもしれません。個人的に異論もあるとは言え、結局この点数にしたのは、このラストの展開がやたらに感動的だったからです。
<追記>久しぶりに見返してみて、その時もラストに至ってやたらに感動してしまいました。そしてその時になって、その原因が作品の構造にあるのではないかということに思い当たりました。
この映画は、物語が進むにつれて、人間の人間たる基盤みたいなものを揺るがしていく(もっともこれは押井監督の意地悪ではなくて、あくまでご本人の問題意識の表れなのでしょうが)という構造を持っていますが、ラストに至って少佐が「登場」し、そこでようやく徹底的に揺るがされた「人間性」に訴えかける事により、見る者(と言うかこの場合僕自身ですが)に何とも言えない、虚無的な寂寥感を伴う感動を与えるのではないか・・・こんなことを思いました。[良:1票]