まず、丘の上の散骨は、誰がどうみても『ビッグリボウスキ』を思 .. >(続きを読む)[良:2票]
まず、丘の上の散骨は、誰がどうみても『ビッグリボウスキ』を思い出すがそれはいいとして。
その時に婚約者の目の前で昔好きだった女の子の肉声テープを聴くことが出来る、大沢のデリカシーの無さが理解できない。逆に、そんな婚約者を見つめる女としての気持ちが見えてこない。誰を好きになるのは自由ですが、柴咲はびっこ引いた演技は余計だ、必要がない、せつめいくさい。
「未練からの解放」がこの映画のテーマだと思ったが、愛する人を失ったら、その子との思い出の肉声テープをなんのためらいもなしにイヤホンで聞くことが出来るのか?その無神経さが全く理解できない。話を進めるためにテープを聞いて回想っていう構成は映画にしやすいだろうが、そうやすやすと聞けないって!あんな愛らしい声を聴いてしまったらさ、懐かしさと、悔しさと、何もしてやれなかったことへの痛さ、若干のえろい思い出などが開闢し、精神が破綻してしまうよ。それでも聞くというならば、大沢はものすごいM野郎だ。マゾ!。とくに体育館での懐古シーンでは、Mならではのマスターベーションとしか思えない。相当快感だったでしょう。その様子を柴咲が目撃しているのもどーしょーもないね。肝心の長澤は、主人公ではないはずだが、テープの声としてナレーションぽくしゃべるじゃん。なんか話を進めているのが長澤みたいで不自然。朔太郎の「未練からの解放」の映画のはずが、長澤の死への同情お涙頂戴映画に変貌する有様は、嘆かわしい。その締めがビッグリボウスキだからもう笑ってしまうよ。[良:2票]