黒澤映画にはいつもどっしりした「核」のようなものがあって、そ .. >(続きを読む)
黒澤映画にはいつもどっしりした「核」のようなものがあって、それを中心にさまざまな粒子がうずまいたり反発しあったりするのが魅力なのだが、この作品についてはそれに該当するものは「内田百閒」そのものと思われるが、それ自身の主体性というものがほとんど見て取れない。少年時代を思い出すことと、そこまで2時間で見せたエピソードが必然性を持って結びついているとは思えない。故人を偲ぶ、ゆかりの人間達のインタビュー映画のようだ。しかも、ドキュメンタリーならまだしも、演じている周りの俳優が、黒澤組の中でもへたくそ、または手垢にまみれた人ばかりがチョイスされているために、とてもウソ臭い。寺尾明、油井昌由樹、井川比佐志が、根津甚八など別の俳優だったら、もっと違う百閒のあぶり出しかたも出来たのではなかろうか。周りがこれだから所ジョージも個性を出すには荷が重く、周りに同調した面白みのないキャラになってしまった。「オイチニの薬」のとても地味なスペクタクルシーンに、映画人としての意地を感じたのでプラス1点。