荒唐無稽な物語を殊更に正当化しようとせず、当然の事のように語 .. >(続きを読む)
荒唐無稽な物語を殊更に正当化しようとせず、当然の事のように語りきること。
その設定を、安易な説明ではなくまず具体の行動の積み重ねにおいて描写していくこと。
有体に云えば、ここでのストーリーや世界観やSF的設定などは、タイムリミットと逃避行(つまり時間と運動)のアクションを乗せて運ぶためだけに必要とされるに過ぎない。
その「時間と運動」のイメージこそ映画の要であり、荒唐無稽に徹する事こそ映画の知性だ。
静的な腕同士のバトルやカードゲームではなく、ただ「時間内に」走ることの動態によって主題論が体現されていく。
相対、並行、逆走、落下、その無軌道と乱脈の疾走の勢いによって画面は活性化し続け、その男女の走りと画面の疾駆とクレイグ・アームストロングのスコアとの一体化がラストの抱擁のエモーションに結実する。
役者陣の顔の素晴らしさに加え、二つのゾーンの格差を、それぞれの人々の行動習性とスタイル、そして抑制的ながら個性を持つデザインスケープによって視覚的に際立たせていく等の手際もいい。
「シルヴィア」と「限られた時間を生きる男女」の映画史からラングの『暗黒街の弾痕』を想起された「映画研究塾」は絶対的に正しく、『俺たちに明日はない』の結末の記憶と共に、死を孕んだ映画のサスペンスを最後まで維持している。