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舞台劇との差別化として「顔面」の映画が狙いであるのはよく判るし、
そのクロースアップに関するキネマ旬報の篠儀道子氏の
好意的な解釈も理解できるが、やはり長丁場での顔面づくしは
構図取り放棄の印象が強い。
アン・ハサウェイのソロの表情は、
確かに『裁かるゝジャンヌ』のように力強いものの、
その後は、それなりの美術を背景に人物の顔さえ配置して歌わせれば
どう撮っても話は繋がる、とでも言うような安易な画面が続いて正直苦痛である。
あらすじを絵解きする以上の余裕がみられない。
エディ・レッドメインとアマンダ・セイフライドの柵越しのデュエットは
まるで別撮りしたかのような単調な切り返し。
ラッセル・クロウの屋上シーンもまた暑苦しく単調な構図を幾度も反復する。
孤独な者たちがそれぞれ孤独を歌い上げるなら、
ただただ寄りすぎるカメラは映画話法的に逆効果となりはしないか。
大半の後景はソフトフォーカスで判然とさせず、
観客はこの顔面・この部分だけを見、この歌だけを聴けと強要される。
蜂起前の若者たちの合唱も一部の主要人物の顔面偏重で、
背景の「その他大勢」の顔などはまるでどうでも良い
というようにぼかされている。
映画はその謳い上げるお題目とは裏腹に非民主的で、
観客に後景の美術やコスチュームや脇役の表情を楽しむ「自由」はまるで無い。