画面が物語の単なる絵解きなら、そこに溢れるTwitterのキ .. >(続きを読む)
画面が物語の単なる絵解きなら、そこに溢れるTwitterのキャプションも単なる文字説明。しかもご丁寧なことに音読つきだ。
肉声の伴わない無機質な活字の匿名性と威力にこそ、ネットの恐ろしさがあるのでは
ないのか。
文字情報を羅列し、それをそのまま「読み聞かせ」て良しとする。
それを延々と繰り返すのだから芸がない。観客は赤ん坊か。
そして安直な絵解き画面はラストで極まる。
画面左手に向かって灯をかざす貫地谷しほりのショットに続くのは
同じく画面左手に向かって視線を送る井上真央。
灯を交わし合う彼女らの切り返しはイマジナリーラインすら無視され、
その位置関係を意味上は把握出来ても、
二人は映画感覚としてまるで繋がり合っていない。
折角、言葉によらない交流のシーンを段取りながら、
最も肝心なところでこの繋ぎはないだろう。