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<ネタバレ>オダギリと主人公の復讐代行業。想像力が欠如した人間に対する制裁。奴らはクソ。だから糞詰まりの便所で復讐の依頼を受ける。主人公が集めた事件記事の切り抜き「スクラップ」がそのエスカレートぶりを物語ります。“悪ふざけ”から一線を越えた拳銃窃盗。さらに栗山の依頼「世界全部への復讐」が事態を加速させます。栗山の絶望にオダギリの絶望が共鳴した。オダギリは同時多発テロを引き起こすことで、栗山は自家製爆薬を量産することで“世界全部の終わり”を目指した。そうとも取れます。でも多分違う。両者の「絶望」の中身と目指すところは違う気がしました。栗山の絶望は世界そのものに対するもの。自身の障害に対する周りの無理解(不要な哀れみ)への絶望です。ただ世界を消し去りたい。発想はネガティブで、破壊のベクトルは“外”です。一方オダギリの絶望は、無力感に起因します。彼が目指したのは再生。人に想像力を取り戻させ、あるべき人間、社会を再生しようというもの。栗山と違いポジティブです。バスジャックでの“死”が彼を変えた。(タイトルは、『スクラップ=再生可能な廃棄物=欠如した人間』の『ヘブン=理想とする世界』の構築を意味するのでは。)しかしオダギリは父の死で、自らの行為に限界を感じます。再生は不可能であると。心を病んだ父。ポテチを食べる父に再生への希望を感じた矢先の自殺…。無力であると思った彼が、同時多発テロで世界を終わらせる(正しくは世界の再生)などと考えるはずがありません。単なる“あがき”でしかないことは承知。彼が選んだ「世界の終わり」は自殺でした。破壊のベクトルは“内”。そんな2人に引き寄せられた主人公。仕事に不満を抱え、不眠に悩まされ、保身に走る男。彼こそ「現代人」の典型です。彼もまた、想像力が欠如した人間=”スクラップ”。それは柄本刑事からも強烈に指摘されます。オダギリと同じ結末を選んだ主人公。しかしその願いは叶いません。そして哀しく自嘲します。そんなに簡単に行かせないよ。お前達スクラップの天国は「ここ」なんだ。そんなメッセージを感じ取りました。それを前向きに受け取るか、後ろ向きに受け取るかは観客次第です。