ぼくは、伊丹さんを尊敬し、同時に嫌う。尊敬する点は、その才能 .. >(続きを読む)
ぼくは、伊丹さんを尊敬し、同時に嫌う。尊敬する点は、その才能と彼の嗜好ね!そのむかしから一般的に、”リアリズム俳優”(アクターズスタジオで有名)伊丹をよくみていたし、CM出演、TVタレント作家(というかマサに西洋嗜好の知識人であり博学者ね)ほんまにマルチなひとね。最近、死後に出版された彼に関する多くの書籍を見るまでも無く、むかしから(映画を撮る前から)、一般的にも私的にも、彼はすごいひとなのでありました。キライな点は、うーん!それはあれですよ、この作品の、葬式のエッチとか、食事、そして、慣習、文化に関する、深い知識に関することですよ。ぼくの考えでは、すべてのひとというものが基本、自分は生きているあいだにこれだけのいい思いをしたすごい人間なんですよ(SEX、頭脳、体力、人気、前人未踏のあらゆる体験などなど、、、)ということをできるだけ大勢の人間に知らしめたい生き物だと思うんです。(例外なくね!)そして、彼のすべての創造物(映画を代表とする)にはそういった、人間の持つイヤらしさに、満ち満ちているんです!それが、観ていて、寒い!というか、痛い!というか、非常にコっぱずかしい!彼が、ほんとはどう思っていたかわからんが、天下の森田の”家族ゲーム”のすぐ後の作品というのが、なんか非常に、イヤなんだよなあ。家族ゲーム出演がなかったら、”こういう種”の作品つくってたかなあ?とオモってしまう。でもねえ、これは、”東京圏”に長く住んでいると思うんだけど、世の中には階級(身分)ってあるんだよなあ。まあ、貴族や皇族とか、日本だと”天皇家”とか。(旧財閥はあまり関係ないか)そういう人種の”存在”を思う時、伊丹さんや、俺みたいなニンゲンたちは、間違っても、かなわないんだよなあ。 いくら、有名になったとしても。彼の早すぎた”自死”は(暗殺でなければ)彼がマッタク持ち合わせていなかった”シュールな表現”の能力に絶望し切っていたと想像する。以外にも、亡くなって解ったことだが、彼は、”あの種”(この種)の作品しか撮れなかったのだ。彼はそれに絶望していた。