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<ネタバレ>原作椎名麟三のドストエフスキー的なるものは、つまり邦画の庶民の世界として親しんでいたものと同じだったんだ。何気ない日常の会話が、不意に深淵に迫ってくる。ささいな言葉のやり取りが、実は人生についての深刻な論争であったりする。それをまたうまく人情コメディにまとめ上げる技術のたくみさ。旦那が自殺しかけているときに逃げてきちゃった関千恵子と赤ん坊を捨てた母親が、明るい土手を歩いていくあの晴れ晴れしさに感動した。人を悪と善で割り切らない・あるいは割り切れないものとして遇する態度、これって明るいドストエフスキーじゃないか(と感心したら、あの関千恵子は原作にはないんだそう)。邦画は1940年代、前半は国威発揚・後半は民主主義啓蒙と、「大きな話」が占めていた。しかしここではそういう大局論や評論家的な態度が退けられる。虫歯や子作りレベルの身近な話から大きなものを見通そうとする。それが黄金の50年代なのだ。芥川比呂志の「正義」も、上原謙のパチンコで茶化される。そして「大きな言葉」が去った後の、新しい在りようをみんなで襖越しに模索している。「庶民」を描くことに徹しながら、「人民」までを見通そうとしている。時代の息吹を感じた。部屋の中にやたら影を導く(窓の桟から庭木の枝振りまで)。しかしそれが暗さにはつながっていない。といって光の存在の強調でもない。何か外部が変わりつつある予兆、とまでは言えないかも知れないが、風通しのよさが感じられてくる。