黒澤が最後にまた師弟関係を描いた。そしてそれは成功したのかと .. >(続きを読む)
黒澤が最後にまた師弟関係を描いた。そしてそれは成功したのかというと、その判断は下しづらい。私はいままで黒澤映画を観てきて驚くほど世代の違いを感じなかった。優れた古典が同時代性を持つ証明として観ていられた。それが今回初めて、明治生まれの人の映画を感じたのだ。正直に言うと、ここで描かれる師弟関係があんまり麗しく感じられないのだ。先生が何か言うごとに「こりゃまいったなあ」とか「先生にはかなわないや」などと言うのが、お世辞や追従笑いにしか見えない。『椿三十郎』の三船敏郎と金魚の糞たちに一番近く見えてしまう。でも監督はそれを麗しいと示している。こちらは微笑ましさを強制されているようでたまらなかったし、摩阿陀会のはしゃぎぶりはほとんど恐怖であった。肯定とか否定とか言う以前の「わからない」というのが正直な私の反応である。純粋な先生を保護したくなる気持ちがポイントのようなのだけど、小さな集団の中に閉じてただ先生が上機嫌であるように動き回る人々、先生をお神輿のように担ぎ上げるのが敬愛ってもんじゃない、と思った。といってきっぱり否定も出来ないのだ。何かそれなりの倫理がありそうなのだが、実感として納得できない中途半端な気持ち。これは映画の出来不出来と言うことではなく、世代のギャップなのかもしれない。監督自身はこれに似た師を持つことが出来たのだろう。その麗しい関係をフィルムに残したかったのに違いない。しかしそれを麗しいと感じられる文化そのものが変質してしまった。監督がこういう師弟関係を麗しいと思っているその熱気だけは伝わってくるのだけれど、それは空回りを続け、ただ明治に生まれた人の遥けさだけが心に残ってくるのだ。黒澤は終戦直後の時代をリアルタイムで記録していってくれた。この時代を過去として描いたのは本作だけである。先生と弟子たちが野良猫を探し回っていたころ、町の反対側では志村喬と三船敏郎が、刑事の先輩後輩として野良犬を探し回っていた。時代の理想を探し回っていた。そして今その時代へ向けて逆の方向から、監督は明治の理想を振り返りに戻ってきた。そう思うと、この和気あいあいとした作品に、明治の人の伝達不可能になってしまった社会への幻滅が感じられなくもない。なぜか複数の鬼に対して一人でかくれんぼをしている少年の心象風景、友だちに発見される期待から目をそらし、夢の夕焼けに溶け込んでいく孤独な少年…。