固定カメラを通して時間を置いた風景の変化をしばしば描く。堂々 .. >(続きを読む)
固定カメラを通して時間を置いた風景の変化をしばしば描く。堂々とした感覚。遠景は自然描写というより地形描写。ときに墨絵のような美しさもある。近い光景では、窓や戸の四角い枠を据えて、そこに外側にいる主人公のタバコの煙や、下から起こる煙を捉える。遠景の霧と近景の煙。あるいはラストの牛の気配の高まり。牛は夜の戸外に不意に現われたりし、授業を受けられない牛飼いの子どもへの負い目へとつながっていたか。牛のイメージが近景と遠景をつないでいたようでもある。あの牛飼いの子どもと、字引を写すワン・フー君とが対比されて感じられた。貧しい環境下で自分なりの字引を作っていくワン君は、普通の物語の中でなら間違いなく「立派な少年」なのだが、この作品ではその外にさらに文字を学ぶ機会すら与えられていない少年を置き、さらに一段遠くから状況を眺めているよう。より多くの文字を覚え、手製の字引を厚くすることが学習だろうか、という疑問の提示? これは文革下の雰囲気を知ることができるいい映画だが、同時にその中にいた者たちの隠語に彩られていて、なかなかストレートには通じにくくなっている。仲間でハヤす「お寺の和尚がどんな話をした?」なんてのは、部外者には分からない。牛に小便を飲ませる話とどうも関係があるらしいのだが、先生が記した牛の下に水の字の意味は? 同じ体験をした者にとっては、深く沁み入ってくるのだろうが、あまりあからさまにはまだ語れない・語りたくない、といったためらいも感じられるのだ。その「もってまわった」ところに文革の傷の深さがある気がした。「上学(学校へ行く)」の作文のシーンがいい。教科書や字引を写すより、まず知ってる言葉で語っている伸びやかさ。けっきょく青年の敗北が描かれたのか、それとも彼の熱意がこれから野焼きの火のように広がっていくと言っているのか。言いたいことよりも、描かれた映像に圧倒される作品だ。『黄色い大地』と『大閲兵』は、まず中国映画差の一編として公開されたが、この作品からちゃんとロードショーされたと記憶している。