この人は求心力よりも遠心力の人だったけど、これはもう分解寸前 .. >(続きを読む)
この人は求心力よりも遠心力の人だったけど、これはもう分解寸前までいってる。前半の世界旅行は正直言ってほとんどノレなかった。部分で言えばリスボンの路面電車なんかは悪くないんだけど、前半キチンと物語としての面白さを出していないと後半生きないから、これでは困る。でも作家の質として仕方ないんでしょうな。皮肉なことに、その物語が終わって人々が映像病に閉じていく後半、オーストラリアに入ってからのほうが若干面白いんです。荒野をさすらうあたりからこの人のトーンが出てくる。世界の終わりという大規模なスケールのところから、次第に極所に集中してくる。盲目の母に視界を与えるという家の世界になり、そこから個人の夢の世界にと狭く狭くなっていく。意外と「家族」って、この作家のポイントなのかもしれない。世界はあまりに広すぎ、個人の夢はあまりに普遍から遠い。家族の愛を単位としたらどうか、って。も一つ意外だったのは、映像の病いから抜け出すのが「言葉」なんですな。映像作家の皮肉な結論。映像は閉じ、言葉は開く。映像(夢)は人それぞれのものだが、言葉は普遍に使われているものを借りて綴っていく。そこに開かれるものを見ている。ハイビジョンによる夢の映像ってのがウリだったが、ある種の夢のような感じ・明晰でないことの美しさは出ていた。今見るとどうだろうか。