<ネタバレ>人間ってのはいいもんだ、と人は思いたがっているのだけど、シラ .. >(続きを読む)
<ネタバレ>人間ってのはいいもんだ、と人は思いたがっているのだけど、シラけずにそう思わせるにはある種の技術がいる。その技術を洗練させるのに最も成功したのは、実はアメリカ映画なのではないか。チャップリンやキャプラや、面白いことに外国から渡ってきた作家によって生まれた作品群に洗練の極みが見られるが、本作もイギリス生まれの監督によってその伝統が受け継がれている。まずどうしようもなく卑小な人間が造形される。バーニーというコソ泥。自分の裁判の最中でもつい手が動いてしまう男。別に世間に反抗してやろうなんて積極的な意志を持ってるわけではなく、食えりゃいい、というところ。息子には「目立たないように生きるんだ」と教訓を垂れている。次に出てくるのがゲイルというテレビの女性レポーター。彼女はニュースなんて自由に演出できると思っているやり手で、世間を自分の手のなかで動かせるのが楽しくてたまらない。この正反対の二人が、飛行機事故で一瞬の接触を得てドラマが動き出す。バーニーがついゲイルの救出者になってしまうのだ(ちゃんと財布を抜き取っていくところが頼もしい)。ここからマスコミの狂騒ぶりがイキイキと描かれていく。消えたなぞの救出者の捜索を一大イベントに仕立て上げていく。ここに三番目の登場人物ジョンが関わる。タイプとしてはバーニー側の人間だが、彼ほど枯れていない。チャンスがあるなら、世間の中でほどほどの成功はしたいと思っている男。そこで救出者としてマスコミに名乗り出る。そのあと彼が祭り上げられ、理想化・聖化されていく過程がコメディとして見応え十分のところで、とうとう本人たちによる再現ドラマまで企画される。ジャーナリズムが今ではイベント屋になってしまったとこへの徹底した笑い。しかしこう人間の集団に対する幻滅や不信をたっぷり描きながら、映画は個人の中に存在しているであろう人間性に対する期待を静かに引き出してくる。つまりここがアメリカなのだ。他人たちがぎっしり詰まった社会の中で、最後は個人を信頼していくしかない、という健全な個人主義がここにある。ヒーローになってしまったジョンの感じる疚しさ、つい善行をしてしまった自分に戸惑うバーニー、百パーセントの善人も百パーセントの悪人もいない、そういう個人たちで出来ている社会だと認識すること、これらのアメリカ映画に感じる気持ちのよさは、そういった認識の潔さなのだと思う。