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<ネタバレ>典型的なアメリカンコミックの主役たちを、現実の世界でやったならどうなるのか。それを主人公が体現しようとする。
むろんそれは不可能であり、犯罪者にとっては死にに現れた異常者にしか映らない。冒頭でそれが当然のように説明されると、アメリカンコミックの典型のような、「悩みだらけ」で「事情だらけ」で「ドーピングだらけ」な中身人間なヒーローが現れてしまう。この表現自体の異常性が物語を引き立てるのだが、人間の体が物理的に壊れて生き物から物に変わる瞬間を全く躊躇無く映像にしてしまうことで現実には正常な人間がこのような事をすることができないことを思い出す。意外と巧妙な作りだ。
殺害シーンは終盤アクションの連続になるが、ゲームのインターフェイスや古典的な映画手法を使ってスタイリッシュに見せている。特に暗視装置のような主観視点からのFPSをイメージしたような殺害シーンはその瞬間の罪悪感を感じさせないところに恐ろしさがある。だが、普通の人間ならあとからこれは飽くまでも作られたショーだから許されるという心の節度が効くことが想定されているのは当然だろう。
ところで米軍では、無人戦闘機や有人兵器での暗視装置を使った遠距離からの一方的な殺害をすることで、オペレータの生命を守る事に成功しているが、同時にゲーム然としたインターフェイスを倫理観が受け入れることができないのだという。作戦を実行するオペレーターは白兵戦で感触の伝わる距離での殺害をしてきた時代以上に、重度の精神的な負担にさらされることになり、このことは兵員にとって深刻な問題になっているという。
結局、殺害を職業とする、専門の科学的なカウンセリングと教育と訓練で精神的な調整を施された人間たちでさえ結果として重度のストレスにさらされている。人間が残酷なシーンをアクションシーンと言って見ていられるのは、これが作り物であるという節度が効いているからである。
本物の殺害であったなら、職業として決められ遊び感覚の環境が用意されてさえ罪悪感につぶされてしまうのが正常な人類だ。だからこそ現実の戦争や事件とは切り離して考えるのが妥当ではないだろうかと思う。自分にもできると確信して、本心から嬉々として楽しんでいる人間がいるとしたら異常者の性向がある。
そういう訳で、正常かどうかのリトマス試験紙として普通に楽しんだらいいと思う。