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<ネタバレ>アル中の父親と、情緒不安定な母親。唯一の親友。そしてきらびやかに広がる涯てしない夢想。それが主人公の少年フランシーにとっての全てだ。ニール・ジョーダン監督が描くのは、少年のささやかなそんな幸福さえ容赦なく一つ一つ奪いとっていくこの世界の非情さだ。彼の人生はただただ失うことの連続だ。「故障した」母を、ろくでなしの父を、ささやかな家を、噴水の広場を、そしてついにはただ一人の友だちすらも。形ある確かなものを一つのこらず失った彼がかろうじて持つのは、涯てのない夢想、それきりだ。そんなたった一つ彼が持ちうる夢想がしかし孤独と絶望に次第に蝕まれ、あたかも捨て犬が野犬と化すかのようにその内在する獰猛さを顕わにしていくさまは、あまりに悲しい。彼はこの無慈悲な世界に屠殺されまいと決死で逃げまどう豚だ。そんな彼が今にも頭上に振り下ろされるその鉄鎚を回避すべく選ぶのは、まるで悪意と欺瞞にみちみちた屠殺者=世界そのものとして君臨するようなニュージェント夫人その人への反撃である。それは自らこそがおぞましい屠殺者(ブッチャー・ボーイ)となることを意味する。ここに至り我々が知るのは、映画の冒頭で描かれる滑稽なほど包帯でグルグル巻きにされたフランシーの姿が、まさに満身創痍となった彼の魂そのものなのだということだ。彼をそのまま現実の少年殺人者とシンクロさせるのは、野暮というものだろう。赤頭巾をベースに『狼の血族』を徹底して寓話として完結させたジョーダンらしく、本作もまたあくまで悪夢的寓話として昇華されているからだ。ジョーダンはまるで泥水を濾し砂金を見つけ出すように、ひどくグロテスクな模様の濾紙の上にこの孤独な少年の粉々の魂をただひたすらに、掬いとる。その砂金は観る者によっては毒々しく、あるいは時に美しく光り、そして胸を刺すだろう。やがて大人となったフランシー。全てを失い孤独なまま、あるのは変わらず夢想ばかりだ。けれど少年の悪夢とはうって変わったその金色の光景は雄弁に彼の心の有り様を物語る。夢の中の聖母マリアが彼にさし出す一輪の花。それは奪われるばかりの人生でフランシーが初めてその手にする、愛だ。フランシーの犯した罪を理解することは出来ない。けれどこれだけは言える。その美しい花の意味は、その大切な意味だけは、フランシーにも私にも変わりなく等しいのだと。そしてその花を携えて私たちは生きていくのだと。