<ネタバレ>芳山和子は大林監督の理想の少女だったのだろうか。彼女のきれい .. >(続きを読む)[良:6票]
<ネタバレ>芳山和子は大林監督の理想の少女だったのだろうか。彼女のきれいな言葉遣いや遠慮がちながらも清く正しいその所作は、旧き佳き時代の日本的美しさを湛えている。同級生である深町君の家で雨宿りする際にも、雨から逃れる性急さの中で出来る範囲で、彼女は靴を入船ではなく出船に揃え、さらには彼の靴までそっと直したりする。その美しさ!80年代とはとても思えない古い町並みの尾道と、そこに閉じ込められたかのような少女、芳山和子。ドタバタ喜劇を中心に描くことが多い大林映画だが、『時をかける少女』では喜劇色は岸部一徳と根岸季衣のネクタイをめぐるコミカルなやりとり程度にとどめられ、一貫して儚げな和子の沈んだそのたたずまいを捉えることに終始する。尾道三部作の中でも本作がどこか異彩を放つ印象なのはそのせいだろう。あまりに作りものめいた星空や、せっかくのクラシックな雰囲気を台無しにせんばかりのタイムリープの特撮、深町君の冗談のような台詞回し、ラストの美しくもかなしい余韻を断ち切るほどの可愛らしいミュージカル的エンディングなど、大林宣彦を大林宣彦たらしめている大林映画ならではの彼のその破壊的こだわりが、『さびしんぼう』の前半部分などと同様に本作の喜劇部分であるとも言えるのだが。そんな子供騙しに凝らした意匠の裏で彼がそれでも真摯に描くのは、未来人が拝借したささやかな傷の記憶が結ばれるはずだった二人の頼りなく幼い恋を引き裂く無情、書き換えられた恋でもその気持ちはうそではなかったと涙する少女の痛み、そして愛したその思い出すらもまるごと消し去られてしまうことの残酷さだ。冒頭のタイトルバックで描かれる障子越しに俯く和子のシルエットは、内気な少女のとまどいやためらいと同時に、指の傷を見つめる彼女の失われた初恋の姿でもある。拙く荒唐無稽な物語世界に潜む、そんな遠い日の痛ましい初恋がたまらなく胸を刺す。芳山和子を演じた原田知世は大ヒット曲である本作の主題歌『時をかける少女』を、今の私の歌ではないとして長い間封印してきたという。彼女がアレンジを変えつつもこの曲を再び歌うようになったのは、映画のラストで描かれる1994年どころか、ごく最近のことである。演じた原田知世までもを四半世紀に渡ってそこに封じ込めてしまうほどに、大林宣彦は忘れがたい少女像をこのフィルムに焼きつけたのだ。[良:6票]