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<ネタバレ>某、映画評論家さんが本の中で感情も露わに「アレからたった3年でこれだ」と怒っていて、何に彼が憤っているのか斟酌して言うと、多分、清純無垢の象徴のような大切なシベールが、3年後には脱獄囚の男と親しくなり、あまつさえ性行為にまで至ってしまったという、壊わされ霧散してしまった幻想に怒り心頭なのだ。そりゃ、主演女優こそ同じパトリシア・ゴッジではあるものの、本作と『シベールの日曜日』とは全く無関係の別作品。名前も、あまりイメージがよくないアグネス。彼だって、そんな事は百も承知でやはり文句を言いたくなるのだろう。それくらいP・ゴッジと役名のシベールとが不可分に結びつき、至宝のものと愛されてきたのだ。
しかし本作のアグネス、歳のわりに精神年齢が未熟なのか、カモメしかいない閉じた孤独さ故か、いつまでも人形遊びに執着。なかなかその想像世界から脱っせず、空想と現実との境も曖昧。案山子に着せた服と同じだからと、現実に出会った男とを混同する。或いは自分を誤魔化し、行動を正当化するため、その振りをしているだけなのか。いずれにせよ、思春期の性のめばえが根底にあるのは間違いない。そうなるともう誰にも止められない、冷静さを欠いた行動が、冒頭で、父親により断崖に投げ棄てられた人形と同じ、執着し愛する者を破滅へと向かわせてしまう。
解っていても映画評論家さん同様、どうしても「シベールの日曜日」との兼ね合いで観てしまうのは致し方ない。何が違って何が同じなのかを考えると、やはり、この映画は「シベールの日曜日」を大いに意識していると感じる。P・ゴッジの起用もそうだが、孤独な魂が、自分を認めてくれ、愛し合い、慈しむ対象を求めるところは共通する。違いが大きいのは「シベールの日曜日」が、ある暗黙の法則に則った様式を踏まえているのに対し、この『カモメの城』は年齢差、その他の理由で、重要な要素の無垢性が成立し得ないのだ。
先ず、アグネスは父親も家族同様の家事手伝いの女性も家に居て、天涯孤独な身の上ではない事。リュック・ベッソン監督「レオン」のマチルダも、「ロスト・チルドレン」のミエットにしても、シベールも身寄りなく絶対的孤独に置かれ、パートナーとなる相手も、共通してアウトサイダーの身の上である。そして正統な社会成員とは見なされないような何らかの世俗的欠損要素を備えており、持たざる者の聖性を持ち得ている。彼等は比喩的に言って、少女のパートナーとして神が遣わした守護天使のような存在と見做せる。そして命に変えても少女を守ろうとする。
肉欲に浸ることを覚えた「カモメの城」のアグネスは、絶対少女の年齢枠にも外れ、聖なる彼等の列に加わる資格を既に失っている。