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<ネタバレ>ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「テオレマ」について、パゾリーニ監督は、最初はこのテーマを詩による舞台劇として考えていたそうだ。
そのため、この映画は知的な構成が明らかすぎるほど明らかだ。画面の隅々まで緻密に計算されており、登場人物の役割も非常にわかりやすい。
だが、主人公が神か悪魔かといった謎が"不条理演劇"のように、簡単には割り切れない。
それは、主人公を演じるテレンス・スタンプの顏のクローズ・アップが、極めて映画的な効果をもたらしているからなのです。
~ミラノの大企業家パオロの家に謎の青年がやって来る。青年は、パオロやその家族と性的な接触を持ち、彼らの欲望を解放して、やがて立ち去って行く。残された人々は、彼ら自身の真実に向き合うこととなる。そして、彼に感化されたメイドは屋敷を出て、聖女になり、パオロは自分の工場を労働者に渡して荒野を彷徨うのだった~
悪魔の中に天使が宿るというようなイメージで、悪魔に魅入られた、悪魔のような美しい俳優・テレンス・スタンプ。
パゾリーニ監督の「テオレマ」に登場する彼は神なのか、それとも悪魔なのか?
彼の来訪は、郵便配達の姿をした天使によって告げられ、その辞去も天使によって予告される。
天使をつかわしたのは、そうすると神なのだろうか?
彼自身が神であったら、迎えの通知がくる筈はないのだから。
彼はただ彼という存在のままブルジョワ一家に迎えられ、客として滞在する。
彼はそこにいるだけで、一家の人々に不思議な力を及ぼす。
彼を見、彼に触り、そして彼に抱かれることによって人々は、自分自身に到達する。
イエス・キリストの衣に触れただけで病が治る聖書の話が、ふと連想されるが、彼は決して人々を救いに来たわけではない。
一家のメイドは、やがてブルジョワの屋敷を出て、故郷の貧しい人々の所に行き、身を犠牲にして土をかぶり、聖女となる。
だが、一家の他の人々は、それぞれの苦悩を生き始めるのだ。
この映画でテレンス・スタンプが果たす役割は、そこに存在するということなのだと思います。
彼の顏と彼の微笑、そして彼のなまめかしい肉体で、そこに存在するということ。
映画を観る私は、一家の人々と同じようにその存在を感じます。
神なのか、悪魔なのか、それとも神の子なのかという問いの答えは、永久に得られない。
逆に言えば、神は彼のような存在だとパゾリーニ監督は見ているのだろう。
ここでは、ひとりの役者が自分の存在をメタフィジカルな存在と同一化させているのだと思います。