悪魔崇拝ならポランスキー監督。だが、この映画には「悪魔」その .. >(続きを読む)[良:2票]
悪魔崇拝ならポランスキー監督。だが、この映画には「悪魔」そのものは出てこない。それを期待する方には、不向きであることを先に説明しておく。そう、この物語は、『悪魔崇拝』に身も心も捧げた人間がテーマだ。興味深いのは、通常は、悪魔に魅入られるかどうかは「その人間が選択すること」だろう。「悪魔に魂を売って願いをかなえてもらう」という言葉があるくらいだ。この作品では、どんなに悪魔に憧れ、崇拝する人間でも、「悪魔に選んでもらえない」のだ。悪魔が、魔の領域に足を踏み入れる人間を、選択する。そのことと、例の本がどういう関係があるのかは、ネタバレになるので伏せておく。ネタバレといえば、どうしてもラストのことになるが、確かにあっけない。このあっけない幕切れのせいで、かなり評判が悪いようだ。確かにサービスが悪く、エンターテイメントとしてはいただけない部分もあろう。だが、監督は、第九の扉が開かれた先にはまったく興味がないのだからしかたがない。その前、つまり、悪魔に選ばれる資格のある人間について、監督の興味と語りたいことは集中している。主人公のコルソ。彼は「映画の主人公」にまったく似つかわしくいほど、自分というものがない。主体性にまるで欠けている。欲望が靴を履いて歩いているような存在だ。金が入るなら善人を騙そうが何をしようが平気。その仕事自体も、自分の脳みそで手段を考えず、依頼人にいちいち電話で指図されつつだ。ひ弱な彼は、身に危険がせまっても、ひたすら逃げるだけで、イザというときは、正体が不明だというのに、彼女の素性をほとんど意に介せず、謎の女に助けてもらう。SEXも女に誘惑されなければ欲情しない。ラスト近くのSEXにいたっては、コルソはほぼマグロであり、騎乗位で犯されているかのように、苦痛と快楽の混濁した表情を浮かべるのだ。この映画にラブシーンもベッドシーンもない。あるのは、動物のように床や地べたでまぐわう姿のみ。そして、そこには愛のかけらもなく、策略と欲情が異臭を放つのみ。非情に気の利いた演出だ。人間の欲望は底がない。先に、「悪魔は出てこない」と書いたが、それは、ヤリをもってシッポがある悪魔は姿を現さない、と言ったまでだ。「悪魔」という漆黒の魅力をたたえる存在は、それを信じ崇め、悪魔の仲間に入れてもらえるなら何でもするという炎のような情熱に冒された、氷よりも冷たい心の持ち主たちによって、逆説的に、「確かに実在する」のかもしれない[良:2票]