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プロフィール
コメント数 178
性別 男性
ホームページ http://ameblo.jp/mabuse-tarou/
自己紹介 人にはそれぞれ言い分があるのです 。

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1.  鉄西区
映画はまず舞台となる重工業地帯、鉄西区を前提とする。その中をゆっくりと走る列車の主観映像、延々と続くかのようなそのショットでさえ、全体を捉えることは出来ない。あまりにも巨大な全体、社会。しかし、映画はそれら巨大な社会を前提としておきながら、捉えていくのはあまりにも卑小なる個の有り様でしかない。■うんざりするほどに掘り、運び、つまり労働する彼らの姿は、それ自体が目的化しているような、労働のための労働に思えてくる。彼らは何のために埃がもうもうと舞う中、セメント袋を運ぶのだろうか。鉄道は誰が何のために何を運ぶために走っているのだろうか。■巨大な社会は確かに存在し、彼らのまわりに確固としてある。しかしその巨大な何かは決して見えることはない。彼らはその巨大な何か、見えない何かのために働き、食事をし、語り、風呂に入る。社会へ通じているはずの電話はもはやどこにもつながってはいない。彼らはどこに住んでいるのだろう。この迷宮のような巨大な工場の中なのだろうか。■しかしカメラは彼らの有り様をただ見つめている。ある住居にカメラは案内される。その住人は彼(カメラ)を自室に引き入れたことを後悔するように、逡巡し、しようもなく茶を入れ始める。カメラはその様を映すだけだ。その客はカメラを構えた無口な他人でしかないのに。■この長い映画の中で一瞬だけ、カメラが登場人物に積極的に対す、あるいは対さねばならない瞬間がやってくる。対象者である17歳の青年が唐突に過去の写真を見せ始める。父親だけを頼りにしていたその青年は、父親の長い不在の果てに、しかたなく、困ったあげく、そこにたまたまカメラを持った他人がいた、という理由だけで、自分と父親と行方不明の母親について語り始める。これは感動的だ。しかし、カメラは彼の感情をもてあますかのように、黙っている。■いよいよ工場は解体され、彼らの住む街が破壊される。雪の中で佇む少年、ろうそくの明かりの中で食事する家族、父も母もいない少年はいよいよその住居を失う、行き場を失う。■行き場のない人々、彼らのまわりには巨大な何かが広がり、さらにその先には彼らが抱えてきた歴史が見え隠れする。登場人物の一人が廃墟となり、ろうそくだけがともされる住まいで苦笑する。「革命前と同じだ」と。歴史や社会に翻弄され、常に行き場を失い、行き場を求め続けることの絶望と悲しさ、そしてしたたかさ。 
[映画館(字幕)] 10点(2005-09-19 21:42:38)(良:1票)
2.  LOVERS 《ネタバレ》 
美しい風景と衣装を用意したスペクタクルな空間をロングショットで捉え、あとはアップの切り返し、その連続という演出には、「HERO」もそうであったが、相当辟易する。■ただ「HERO」のように肩に力が入っていないせいか、例えば竹藪のアクションシーンなど、結構、面白く、CGと実写がなじんでいない安っぽさも含めて、いい意味でBアクションの面白さは堪能できる。ただ、やはりチャン・イーモウはメロドラマの撮れない人なのだとつくづく思う。■とりわけ、クライマックスに至るチャン・ツィイーの逡巡を、美しい風景の中に佇むツィイーのロングショット、というフォトジェニックな瞬間にしか切り取れず、さらに金城武のもとに駆け出す姿を、ジャンプカットによってでしか演出できなかったのは、まさに致命的。■さらに、金城の単調な演技にもよるのだろうが、彼がツィイーに恋しているのかどうかよくわからない、わからせないのも、どうなの?■と、はっきり駄目な映画、美しい風景だけの絵はがき映画、なのだけれど、ただ、ただ、チャン・ツィイーが素晴らしい。■彼女がこの映画の中で唯一ドラマを演じる。憎む、恋する、迷う、喜ぶ、…様々な複雑な想いが、その美しい表情に交錯し、宙を舞い、そして雪の上にすっくと立ち上がる。それだけで充分。彼女だけで充分「映画」。もう何もいらぬ、オッケー。
10点(2004-09-06 15:41:45)
3.  プラットホーム
ホウ・シャオ・シェンなら然るべき位置にカメラを据えると、そのフレームの中で静かに恋人たちは佇み、あるいは緩やかに自然に、フィルムが回されているその時々の感情に応じて体を移動させるだろう。 しかし、この監督はあくまでも構図の中に立ち位置を設定する、役者たちに動き方を演出する。スクリーンの左半分を占める壁の中に役者たちを行き来させながら会話を成立させ、双子の姉妹は完璧な構図の中に立ち、カメラはその片方をフォローしながらパンすると、彼女は再び完璧な構図の中にやや逆光気味で立ち止まる。 それだけではない。映画の前半の主要舞台である城壁に似た壁、その見事なロケーション。客観ショットと主観ショットの錯綜、ラスト2ショットの時制を越えたつなぎ、トラックから顔を出す役者の動きとそのショット内でのタイミング、長く会わなかった父の不在、そして、父が経営する店で、父の愛人であろう女が登場する、その長い長い間。 つまり、過剰なる「演出」。 例えばカサベテスならば構図などどうでもよい、映画的な演出などどうでもいい、と言い放つだろう。最も大切なのはシーンシーンで醸し出される人間の感情なのだ、物語などは後からやってくるのだ、と。 ところが、である。この30そこそこの映画監督は、そんな映画史など知ったことじゃないようだ。 主人公の別れた彼女が踊るシーン、フラメンコ、従兄が差し出す金、主題をシンボライズする楽曲、街を遠ざかるカメラ。それらのあからさまな抒情を映画に導入するためには、余程の覚悟と勇気、そして才能が必要とされるはず。 しかしジャ・ジャンクーはカサベテスやホウ・シャオ・シェンが無効にしたはずの「演出」を楽天的なまでに信じている。それがいいことなのかどうなのか私にはよくわからない。ただ、映画の力への確信が「プラットホーム」をかくも感動的に、完璧な作品としていることだけは確かだと思う。 涙果てるまで泣いた。20世紀の追尾を飾る傑作。
10点(2004-01-17 11:56:20)(良:1票)
4.  HERO(2002)
「美しい映像」の中で、アクションの持つダイナミズムはどこかへ行き、残ったのは絵はがきです。また、同じようなお話の繰り返しにうんざりし、最終的にたどり着いた結論がこれ?って感じ。芸術畑の人がアクションを撮ると、アクションを馬鹿にしちゃうのだろうか。「グリーン・ディスティニー」再びを期待したのだが、どう考えても「クローサー」や「リベリオン」の方が「映画」だぜ。
1点(2003-12-07 21:14:04)
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