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プロフィール
コメント数 413
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  サラリーマン一心太助 《ネタバレ》 
中村錦之助の一心太助シリーズ現代編。一心太助から二十三代目の魚屋兼サラリーマン石井太助を演じるのは錦之助ではなく、弟の中村賀津雄。賀津雄は前作『家光と彦左と一心太助』で徳川忠長を演じ、錦之助の太助/徳川家光と共演していて、これがなかなか良かったのだが、今作ではサラリーマン太助だけではなく、ご先祖様として現れる本家の一心太助も演じている。一心太助は中村錦之助の役と姿も声もそっくりで、ほとんど見分けがつかないのだが、そこはかとない小物感、そっくりさん感があって、そこに拭いがたいB級性が漂う。 大久保彦左衛門の子孫、大久保彦造を演じるのは前作『家光と彦左と一心太助』に続いて進藤栄太郎。ここも月形龍之介でないところがB級的。徳川家光の子孫、徳川の末裔かどうか分からないけど、葵食品三代目社長を演じるのは、なんと渥美清。一心太助の伴侶たる、お仲、中原ひとみが渥美清の奥方役。サラリーマン太助のマドンナは三田佳子。この辺りの入れ替え感も本家との違いを強調するのだけど、結局、この作品の位置付けを一心太助のパロディと考えれば上記の入れ替え感、B級感はとてもしっくりくるのである。実にいい感じで。  本家の一心太助と言えば、とにかくコミカルで、ズッコケが過ぎているけど、それでいて精悍で、威勢のよい啖呵がもの凄く格好いい。一方で、サラリーマン石井太助はズッコケだけで精悍さが全くない。お得意の正義感や厚い人情、仲間思いの行動力も決意も全くない。最後の最後までダメ人間で、ご先祖に憑依されて何とか持ちこたえる始末。これまでの一心太助の勧善懲悪ストーリーとは違うのでその点は期待外れかもしれないけど、そもそも江戸初期と戦後高度成長期の時代性、人間性の違い、このストーリーに込めた風刺や警鐘の表現として、その規格違い、期待外れ感は、意図された入れ替え感と併せて必然とすら感じて、私は逆に現代版の一心太助にかなり好感を持っている。実際、観ていて妙に感心し、そして大いに笑った。若き三代目葵社長の渥美清の存在感、彼特有の喜劇口調が最初から最後まで素晴らしく、そこに曲者の田中春夫や千秋実が絡んでくるのだから堪らない。そのやり取りを観ているだけですごく楽しい。  一心太助恒例のエキストラ総出のお祭り騒ぎや盛大な立ち回りは、ここでも健在。都心?の道路を封鎖して、多数の車やトラック、大人数の大衆が入り乱れる。葵食品による誤情報によって大損害を与えられた人々、大勢の激高した大衆に追いかけられ、もみくちゃにされる太助と葵社長。ここは画面に迫力があって、圧巻のシーン。結局、太助は、機械、コンピュータの誤情報に振り回され、社会を混乱させ、大衆に吊し上げられて、逮捕までされてしまうのだけど、それも最後には突然なかったことになる。夢か幻かって訳ではないが、それらの失敗も単なる教訓として捉えられ、水爆システムの故障による誤爆でなくて良かったなどと演説されて、会社として、個人として、再出発して普通に終わる。そのあっけなさ、能天気さはあまりにも手のひら返しすぎで唐突すぎるけど、実は大戦前後の日本の大衆そのもの(主体性の無さ、お上意識、故の唐突な転向)を風刺しているようにも感じた。実は、その唐突さを本当に善きこととして見ていない、本来あるべき自主的でボトムアップなルールの訂正と更新を未来に託し、現代の主体性の無さを物語として風刺していると観れば、全く笑顔のない太助のラストカットの意味も納得するのである。  この映画で騒動の中心となる電子計算機は、今で言う「人工知能による(ビッグ)データのアルゴリズム解析」のことだろう。そこを少し読みかえれば、SFコメディとしてもそれなりに楽しめる、かな。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-07-14 00:47:41)《新規》
2.  一心太助 男一匹道中記 《ネタバレ》 
シリーズ最終作『一心太助 男一匹道中記』。これまでの江戸を舞台にした一心太助シリーズとは一線を画するロードムービーであり、途中、太助が親分となる任侠ものかと思えば、最後は『1900年』ばりの民衆蜂起を見せつける。60年安保の影響もあり、最後の大立ち回りも錦之助の体技やチャンバラではなく、一揆を先導するアジテーター太助に置き換わっている。いろいろな趣向があって、評価が分かれるかもしれないが、私は好き。なんだかんだ言って、やっぱり錦之助の太助に尽きる。太助が画面に現れれば、威勢の良い啖呵が魅力の太助にちげぇねぇ。喧嘩が強くて、人情味あふれる、表情豊かな太助は、やっぱり錦之助だなと。  途中でジュリー藤尾と田中邦衛が現れた時には、これは若大将シリーズの影響もありか?とも思ったが、さすがにそれはなかった。日本橋から東海道を下り、保土ヶ谷まで。舞台は横浜か。ロードムービーならではのロケーションも楽しめた。あの島々は何処だったのかな。
[インターネット(邦画)] 7点(2024-07-14 00:47:36)《新規》
3.  家光と彦左と一心太助 《ネタバレ》 
シリーズ4作目『家光と彦左と一心太助』。意外ながらとても良かった。 大久保彦左衛門が月形龍之介から進藤栄太郎に、お仲が中原ひとみから北沢典子に代わる。前作で死んでしまった彦左が、川勝丹波守で神尾備前守たる悪徳旗本だった進藤栄太郎になったことに最初は違和感バリバリだったが、意外にも進藤彦左も世話焼き感満載で、B級的なそれなりの味がある。  見た目そっくりの錦之助による太助と家光の入れ代わりは、コメディの常套でもあり、面白かったけど、やはり最大の見所は、最後の錦之助−家光と錦之助−太助の大立回りの競演。そこに賀津雄−忠長も加わる。東映イチと言われた錦之助の美しい立ち回り、それを家光で堪能できる。そして、荒々しい太助の体技による立ち回りも。こんなスカッとするチャンバラは他にない。東映時代劇でも最高に属する場面なのではないか。  山形勲も正義の伊豆から一悪党に逆戻りとなるが、同じシリーズなのに東映も人使いが荒いというかなんというか。
[インターネット(邦画)] 9点(2024-07-14 00:47:13)《新規》
4.  一心太助 男の中の男一匹 《ネタバレ》 
シリーズ3作目『一心太助 男の中の男一匹』。太助とお仲の結婚式での喧嘩大騒動から始まり、今回は進藤栄太郎演じる悪徳旗本の神尾備前守が相模屋と結託して魚河岸乗っ取りを図るという天下の一大事が本筋となっている。  中盤で彦左が倒れ、そのまま亡くなってしまう為、騒動終結のお上側の立役者は彦左から松平伊豆守に代わる。山形勲のセリフ回しもなかなか重厚で、悪役よりもこういった正義の伊豆の方がぴったり合うように思える。  今回も喧嘩シーン、お仲との夫婦愛を感じるシーン、お約束の大立ち回りがあり、見せ場満載である。ここぞという時に、正義の老中伊豆が駆け付け、間一髪、魚河岸の親方が救われる。スリリングな展開で、そうなるのは分かっているが、最後に一件落着で留飲を下げる。富士裾野での家光と彦左の遠乗りシーン、ラストの家光とのやり取りもよかった。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-07-14 00:41:55)《新規》
5.  一心太助 天下の一大事 《ネタバレ》 
シリーズ2作目『一心太助 天下の一大事』。カラーになって太助の男っぷり、お仲の可愛らしさが光る。 太助の縦横無尽の活躍、お仲との関係性、彦左との確執も太助の一人前となった証左でもあり、なんとも眩しく感じる。今回は進藤栄太郎演じる悪徳旗本の川勝丹波守が木場の相模屋と結託して悪行を尽くし、屋敷に奉公した許嫁のいる腰元を誘拐する等の天下の一大事が本筋となっていて、勧善懲悪ものとして大いに楽しめる。太助と彦左の仲違いもあり、今回は松平伊豆守が躍進する。  最後のクライマックスのシーンは圧巻。大勢の民衆、魚河岸衆と木場衆が神輿を担いて威勢よく闊歩するお祭りの喧騒にまぎれて、魚河岸衆が木場の相模屋を襲撃し、川勝から誘拐された腰元を救助、大立ち回りの太助や魚河岸衆が大活躍。太助の刃のないチャンバラシーンも宮本武蔵の般若坂ばりのダイナミックさがあってとても痛快だった。そして天下のご意見番の到着。男同士の名呼びと抱擁。やはり錦之助と月形龍之介コンビの一心太助シリーズのクライマックスがこの回、このシーンでしょう。  家光、彦左、太助が一同に会するラストシーンもよかった。家光と太助は二人とも錦之助なんだけど、うまく演じ分けているというか、全く違和感がない。彦左の「馬鹿につける薬はございません」からの印籠取り出し、家光の「いつまでの馬鹿でおれよ」というセリフにも熱いものを感じる。やっぱり最後は日本一の徳川将軍、締めは箱根から見る富士の絶景なのです。
[インターネット(邦画)] 10点(2024-07-14 00:41:48)《新規》
6.  江戸の名物男 一心太助 《ネタバレ》 
私にとって、中村錦之助と言えば『一心太助』シリーズ。錦之助が演じるのは、下町に生きる魚屋の一心太助と三代将軍家光の二役。太助はとにかくコミカルで、ズッコケが過ぎていて、それでいて精悍で、威勢のよい啖呵がもの凄く格好いい。高貴さ溢れる家光との対比も素晴らしい。その後の宮本武蔵や股旅物で目が暗くなってからの錦之助の凄味もわかるけど、やっぱり東映時代劇の看板スター「錦ちゃん」の魅力のピークは太助だなと。  シリーズ1作目『江戸の名物男 一心太助』では、太助と大久保彦左衛門の運命の邂逅と師弟の契り、お仲との出会い、そして太助が男を上げる皿割り事件、そこでの太助の命がけの啖呵などが描かれる。太平の世、江戸市中の生活者でもある太助と彦左の生きざま、その心情、啖呵、セリフのひとつひとつに痺れる。  大久保彦左衛門曰く「とかく若い者は掟の役目など形ばかりに捉われるが、形ばかりに捉われすぎるとつい職務怠慢になりますぞ」。今のサラリーマン社会にも通じる金言であろう。  池の前に佇む彦左と太助。太助が世の中の為に命を懸ける、世の為人の為に生きたいと宣言した時、彦左曰く「人間というものは心一つ。一心ほど清らかなものはない。鏡のようなもの。一心鏡の如しじゃ」。じっと水面を見つめる一心太助。  魚河岸での大喧嘩、チャンバラならぬ魚を振り回す大立ち回りのシーン。この辺りはまだ1作目ゆえに少し派手さ抑えめで、次回以降に舞台はもっと大掛かりになっていく。
[インターネット(邦画)] 9点(2024-07-14 00:41:34)《新規》
7.  怪物(2023) 《ネタバレ》 
是枝裕和の『怪物』は3部構成。ひとつのプロットを3つの視点により描いている。  1つ目の母親の視点では、保利がとことん歪んでいる。 2つ目の保利の視点では、湊が歪む。 3つ目の湊の視点で、歪むのは誰か?  羅生門形式。そもそも、映画とは他者の視線から見られた世界の風景。世界を捉えようと思ったら、その世界なるものを多くの視点で囲んでいくしかない。それは視線の「反復性」と呼ばれる。  視点によって人物像が違っているのは、主観による視点であるから。それが怪物を生む。湊の視点は不安定で、「それ」が歪んで見えかけるのだけど、自分がどうしようもなくなり、それを受け入れる。そのキッカケが校長のいるところ。結局、怪物を断つ回路は、言葉(世界)ではないところ「非言語性」にあったのだなと。  すべての物語は本来、謎解きである。でもそれは容易には解かれない。だから謎は宙吊りとなり、観ている人の身体の中に「内面化」され、その人のものになる。  「反復性」「非言語性」「内面化」 『怪物』を傑作たらしめているターム。私ならこの3つを挙げる。  「なぜ性的マイノリティを描きながら不可視化したのか?」 それは、映画がその「気付き」こそを描きたかったから。ある人は、最後に二人が死んで違う世界で生き返ったとし、現世の死を以て、制裁が再生産されたと言う。これを「君と世界の戦い」(カフカの『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』)として単純化すれば、ある人は、「君が世界となるべきだ」と見做し、映画は「君は君であるべきだ」として映す。  私は、映画が文芸であるとすれば、映画は「君は君であるべきだ」ということこそ捨ててはいけないと思う。それが優先されなければ、君が世界になる、その世界を描くことだけに過ぎなくなるから。監督は、性的マイノリティーの世界ではなく、「君」を描きたかった。その決意を『怪物』から強く感じる。  彼ら二人は何処に生き返ったのか?ビッグクランチは時間の逆行。実は死んだのは飽和した世界の方だった、というのが私の解釈である。
[映画館(邦画)] 9点(2024-06-19 00:33:19)
8.  生きる 《ネタバレ》 
『生きる』の原案はトルストイの『イワン・イリッチの死』。死病に伏した主人公の独白、孤独と絶望がテーマ。彼は死を前にして自分に「生きがい」がなかったことに煩悶する。『生きる』の主人公、志村喬演じる渡辺課長は癌発覚後、これまでの生を反芻しつつ最後の「生きがい」を見つけることで救われる。このオリジナルとの違いが黒澤ヒューマニズムの境地と言われる所以だろう。黒澤が『生きる』と題した物語のテーマはやはり「生きるとは何か?」なのだ。  とはいえ、実は『生きる』は渡辺課長が亡くなった後半からが面白い。通夜の席での「ナマコ」「ドブ板」「ハエ取り紙」といった曲者たちの喧喧諤諤には何度も感嘆した。さらに翌日の彼らの変わり身の早さを示すラストにも唸る。たとえ副次的であっても、あの通夜のシーンで、組織から個へ、組織に囚われる個の本質を見事に描いてしまったが故に、この映画のテーマが「個と何か」だというのも理解できる。それは「凡夫」であり「悪人」である人間の本質と言ってもいいだろう。
[インターネット(邦画)] 9点(2024-04-30 22:28:01)
9.  寝ても覚めても
主人公の行動には驚き、確かに戦慄する。とても共感できないが、惹き込まれた。安易な共感は物語を陳腐にする。この映画にはいろいろと考えさせる多面的な面白さがあった。様々な視点や視線があるように思えた。 こう言うと語弊があるかもしれないが、震災以降、君と世界は一体化し、誰も世界を疑うことができない、そういう時代の流れが急速に訪れているように感じる。それによって個人の内面や物語といったものは世界に沈んでしまった。世界を疑う違和こそが内面を失いつつある人達のココロの快復に求められるのだとすれば、この映画の主題はその為のギリギリの「戦い」そのものと言える。そこから始まる物語。悪から善を生む、汚ったねぇ河から始まる物語。世界から一番遠い君の恋愛物語。共感できないが故に素晴らしい人間讃歌だと思った。
[インターネット(邦画)] 10点(2019-03-30 22:08:03)
10.  鍵泥棒のメソッド
『運命じゃない人』『アフタースクール』と観てきて、内田けんじ監督の独特の作風に感心していただけにとても楽しみな作品だった。前2作の良さ、監督の作風を確実に受け継ぎ、さらに面白さが格段にパワーアップしていると感じた。『運命じゃない人』も面白かったけど、僕には演技の素人っぽさがどうしても目について仕方なかった。それに比べて『鍵泥棒のメソッド』は、出演陣が独特のキャラクター達をうまく演じていて、とても自然に観ることができた。特に香川照之と広末涼子がよかったかな。この監督特有のプロットの巧みさに、キャラクターの面白さが加わり、尚且つ笑いがあった。そして、胸がキュンとなった。  単に面白い、といった表層的で突発的な笑いではなく、計算され、手の込んだ演出が生み出す笑いというのは重みがあり、心に残る。思い出し、噛締められる余韻がある。今回の作品は、その完成度として、プロット、キャラクター、セリフ、オチ等、全てが上手くハマっていた。よく出来たミステリーを読んだ後のような爽やかで胸に残る余韻があった。また、人それぞれかもしれないけれど、その笑いは僕のツボにもうまくハマったのである。秀作。
[映画館(邦画)] 10点(2013-01-29 20:07:18)
11.  桐島、部活やめるってよ 《ネタバレ》 
いわゆるメタ映画であり、尚且つ、それ以上のものが感じられる映画。  桐島とはいったい何者なのか? 映画部の彼らはなぜゾンビに拘るのか? 野球部幽霊部員の彼は何故、最後に涙を流したのか? いくつかの事象を帰納的に反芻することで、この映画の見事なまでの構成が見えてくる。  映画の解釈については、その高い評価と共に、既にネット上で広まっている。 代表的なのが、不条理劇『ゴドーを待ちながら』(ゴドー(GOD)の不在をめぐる物語)を下敷きとしつつ、その変容としての桐島=キリスト=希望というメタファー。そしてその対立軸としてのゾンビ=虚無=絶望という図式である。桐島の不在にオタオタする多くの登場人物たちと、それを自明なものとして、ゾンビ映画に拘るオタクの映画部員たち。そういった構造でみれば、この映画はとても分かり易い。それは他の解釈を許さないほどに。但し、僕がこの映画に感銘するのは、そういった構造を超えたところに、実は彼らのアカルイミライが垣間見えたからである。  最後のシーン。 映画部の彼と野球部幽霊部員の彼が夕日をバックに対峙する。そこでの映画部の彼のセリフが僕らの胸にすごく響くのだ。彼は高校生にして、既に絶望を知っている。でも、それに負けない自分というものを持っている。周りをゾンビに囲まれたショッピングセンターの中で、彼はそれでも闘い生きていこうと決意する。それは何故か?彼は撮ることによって常に希望と繋がっているから。彼は絶望を知りつつ、同時に希望と繋がっている。桐島=キリスト=希望。 映画部の彼こそ、桐島と唯一繋がっていたことが最後に明らかとなる。彼こそがアカルイミライの細い道すじをただ一人しっかりと見据えていたのだ。野球部の彼は、そのことを理解し愕然とする。桐島に電話して繋がらないことで、自分がゾンビに喰われてしまった側であることを悟り、そして涙する。  なんて素晴らしいラストシーンだろう。僕らのミライも少しアカルイと思える。  この映画の冒頭の多視点による物語の反復。世界を本当に捉えようと思ったら、たとえやみくもであろうとも、その世界なるものを多くの視点で囲んでいくしかない。そこには桐島と同じように「不在」しかないかもしれないけど、その中空構造の周辺から、浮かんでくる様々思い、そのさざめき、その切実さを僕らは、それによってこそ目撃することができるのだ。
[映画館(邦画)] 10点(2012-08-27 23:55:25)(良:1票)
12.  僕たちは世界を変えることができない。 But, we wanna build a school in Cambodia. 《ネタバレ》 
アカルイミライな現代の「僕たち」がカンボジアの子供達の為に学校を建てようと奮闘する姿を捉えた半分ドキュメンタリーっぽい青春映画。なかなか面白く観ることができた。満ち足りない大学生活の中で何かをしたい。そうだ!カンボジアに学校を建てよう!その為の資金をパーティによって集めよう!動機は単純で、発想は唐突である。彼らは募金だけではなく、実際にカンボジアという国を知る為に視察(ロケ)にも行く。そこで、カンボジアが長期の内戦によって辿った悲惨な歴史、クメール・ルージュによる70万~300万人と言われる大虐殺の実態、戦争の負の遺産(地雷原やHIVの蔓延など)によって今でも苦しめられている人々の姿を知る。  そこには、ベトナム戦争を背景にアメリカと北ベトナムの対立を軸としたカンボジア内戦の経緯があり、共産主義政党クメール・ルージュの台頭と中国の介入、毛沢東主義者ポル・ポトが行った大虐殺の実態がある。(都市居住者、技術者、知識人が財産をはく奪、農村で強制労働させられ、最後には処刑される。映画『キリング・フィールド』に詳しい) その後、ベトナム軍介入によるポル・ポト政権の崩壊と中越戦争による中国の敗退を経て、今度はソ連を後ろ盾としたベトナム軍による支配が続くことになる。80年代後半から、ベトナムの開放路線による駐留軍の撤退があり、東西冷戦の瓦解と共にようやく内戦が終結する。今、ネットで検索すれば、その辺りのことを調べるのにさほど時間はかからない。  実話をベースにした映画である。実際の主人公たちは、その後も継続して学校の維持やボランティアに関わっているという。素晴らしいことである。映画自体はかなり軽い作りになっているし、最後の『青空』は自己満足的ですごく違和感があったけれど、結局のところ、この物語は、若者達が自己実現とか、自分探しなどという幻想からボランティアを始めつつ、自立や自助が難しい世界の実態を知ることで、共生・共存、公共の意識に目覚めるという至極真っ当なお話であると僕には感じられた。というか、そう信じたい。実際、その動機が主人公たちとカンボジアの人々との間に築かれた人間関係所以であるのは事実だが、そもそも、それが世界というものの基本だと僕は思う。
[DVD(邦画)] 8点(2012-07-16 10:39:01)
13.  11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち 《ネタバレ》 
三島の人物造型について、楯の会と11.25の自決事件に関する史実を中心に描くと、本作のように一面的な描写に終始してしまうのだろう。小説、例えば、『金閣寺』や『春の雪』で描かれる彼の文学性と自決事件での行動が現実の中でうまく整合しない。故に三島の文学性が如何に彼の行動にリンクしていたのかがいつも切り捨てられてしまう。三島自身が楯の会や自衛隊の体験入隊等の行動の中で、彼自身の文学性を自ら否定してみせるので、それも致し方ないのかもしれないが。三島文学や三島事件について、これまで多くの言説が弄されてきたが、彼の文学と事件が融合して語られない、文学者は事件に触れず、事件記者は文学に触れない。それこそが三島の特異な二面性として、事件から40年以上経った今でも、三島由紀夫という人物の本質を未だに捉えきれない要因なのだと思う。  三島の作品の中で、『憂國』や『英霊の聲』にこそ、彼の美意識の極点として、美しき日本の文化を象徴する幻想としての天皇主義の萌芽があった。その思想は彼の遺作ともなる『豊饒の海』によって完成することになる。1965年から自決の前夜まで。楯の会の行動と並行して著された『豊饒の海』にこそ、彼の行動と思想の全てがあるのだと僕は思う。その分析を抜きにして、三島事件を語ることはできない。『春の雪』の究極の禁忌としての恋愛があり、『奔馬』におけるテロルと自死への強烈な憧憬がある。『暁の寺』で唯識と煩悩の狭間で迷界を通過し、そして、『天人五衰』のラストに至る。三島も小説の本多と同様に、最後に月修寺の寂漠を極めた庭に佇み、門跡と対話して、無の境地としての豊饒の寂漠に辿りついたのだ。  映画の三島はヤサオトコ過ぎて、また、彼の文学的な側面がストーリーからすっぽりと抜け落ちている為、実際の三島から発散される(覆い隠すことができない)自意識の匂いが全くしない。彼の実際の姿を今やyoutube等で簡単に観ることができる。彼の強さと弱さが同居したような肉体と言葉には、押し出しの強さと共に躊躇いと抗いが常に見え隠れしている。  本作は、若松孝二が60-70年代の若者達を捉えた学生運動や思想がどのように先鋭化し、追い詰められ、最終的に「事件」に行きついたのかを総括した作品だといえる。前作同様、実録として、心理劇としての見応えはあるけれど、その文学的/観念的な側面を含めた事件の本質を描き切るまでには至っていない。
[映画館(邦画)] 7点(2012-06-17 00:06:01)
14.  ロボジー 《ネタバレ》 
爺さんにロボットの衣装を着せて、本物のロボットにみせかける。現代のハイテクノロジーの時代には有り得ない「設定」故に多くの人々がロボジーの正体を見抜けない。  漫画的な発想として、このアイディアは「有り」かもしれないけど、実際の映像を見てしまうと、やっぱりこれは設定として「有り得ない」。いくらなんでも、バレるでしょう。あのロボジーの動き。訳の分からないセンサーの説明。意味のない制御用パソコン。不自然な設定ばかりが気になって、話に集中できなかった。(僕のような)理系の人間に夢を与えない、そんなのファンタジーじゃないよ。それ以外は面白かったけど。。。
[DVD(邦画)] 7点(2012-05-16 00:28:28)
15.  テルマエ・ロマエ 《ネタバレ》 
面白かった。原作未見で、予備知識なく映画を観られたのが良かったのかもしれない。とにかく、序盤のギャグがことごとくハマった。終盤のシリアスな展開も良かったな。僕って結構単純なのね。  話自体は荒唐無稽だし、上戸彩がラテン語を理解したり、温泉旅館のおやじ達がタイムスリップして主人公たちに合流したり、日本に皆一緒に戻るところなど、ご都合主義も甚だしいけど、それはそれ。そこがまた笑えるところだったりして。。  単なるギャグ映画としても面白かったけど、古代ローマとテルマエの歴史を絡めた物語としてもよく出来ていたと思う。この映画、イタリアの映画祭で大爆笑の大絶賛だったらしいけど、イタリア人はこの映画の日本人たちをどう見たのかな? 日本のおやじ達が率先して湯治場建設に協力する姿に古代ローマ人の阿部寛が感心して言う。「それにしても何故彼らは手伝っているのだ?自分の名誉にもならないことを。彼らは常に行動を共にし、個人と言うものを犠牲にする。彼らには自分の名誉などよりも優先すべきことがあるというのか?」 これって日本人の集団主義と奴隷根性を言い当てているよね。これが美徳として好意的に伝われば、世界に紛争がなくなり平和が訪れるのだけど。。。  「日本人は髪の毛が黒いという以外、殆どその容姿に共通した印象を持たない。肌の色、髪の毛の質、体型、一重/二重まぶたなどの多様性。日本人は単一民族どころか、かなり幅広い人種の集合体である」というようなことを最近読んだけど、この映画の阿部寛を見ていると「なるほど」と納得してしまう。彼は古代ローマ人を演じられるように容姿がかなり日本人離れしていると言われるけど、だからこそ、彼は日本人なのだ。  ※原作漫画も読了。こっちも面白かったけど、漫画で表現されている様々なギャグが映画で的確に(いや、それ以上に面白く)再現されていることに改めて感心した。
[映画館(邦画)] 8点(2012-05-13 10:55:52)(良:1票)
16.  わが母の記 《ネタバレ》 
感動した。主人公の役所広司、その母親の樹木希林、素晴らしいキャストだった。  父親の死を境に徐々に痴呆の症状が顕在化していく母親の姿。その演技は、あまりにも自然で、人間味あふれていて、多くの人が自らの歴史の中の自分の祖母、或いは母親の姿を思い出したのではないだろうか。『歩いても 歩いても』でもそうだったけど、自然体で人間の凄味のようなものを醸し出せる樹木希林の姿は本当にすごい。それは悪意とか善意とかに区別できない、単純ではない、人間の得体の知れなさの断片であり、言葉の網の目から零れ落ちて、言い澱んだり、躊躇ったり、言い間違えたりしつつ出てくる感情でもある。人間の自然って本来そういうものなのだな。  主人公が子供の頃に書いた詩を思い出すシーン。何故、自分が湯河原に残されたのか。母親が夜中に誰を探していたのか。彼は全てを理解し、母親を赦す。そして涙を流す。しかし、主人公が母親に捨てられたという意識こそが彼の文学的源泉だったということも確かなのだ。夏目漱石も「母親に捨てられた子供」だった。愛情に対するある種の不幸な思い、その傷は、文学性を養う。  沼津の海のシーンもよかった。お互いがお互いを理解し赦しあうこと。何と感動的なことだろうか。母親を背負う主人公。その名前を呟く母親。とても幸福なシーンに涙が溢れた。
[映画館(邦画)] 10点(2012-05-05 11:48:36)(良:1票)
17.  男はつらいよ 寅次郎紅の花 《ネタバレ》 
男はつらいよのシリーズ最終作である。最後を飾るマドンナはリリーこと浅丘ルリ子。  元々49作で満男と泉が結婚するストーリーが予定されていたというから、いみじくも最後となってしまった作品と言った方がいいのだろう。リリーと寅さんはいつもと違って、とらや(くるまや)でのケンカ別れもなく、2人連れ立って奄美大島のリリーの家に向かうのだが、結局のところ最後に別れてしまうので、シリーズとしては未完なのだ。 渥美清本人の病状がかなり悪化していたこともあり、寅さんの体の衰えぶりが目に付いて仕方がなかった。呆けたような表情、かろうじて演技しているといった体。仕方がないとは言え、その姿が痛々しく、観ていて辛いものがあった。  ゴクミシリーズ、満男と泉の久々の共演。満男の行動は少し過激ですごく無様だったけど、最後にお互いの気持ちが通じ合うことができてよかった。二人が清々しく、爽やかでよかった。  ということで、『男はつらいよ』もこの辺でお開きということに。。。
[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:44:16)
18.  男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 《ネタバレ》 
マドンナはかたせ梨乃。  46作と47作はゴクミが出ないゴクミシリーズ。満男の旅と旅先での出会いが物語の中心となる。今回の舞台は琵琶湖の畔、長浜である。考えてみれば、『男はつらいよ』とは、第1作目で満男が生まれ、彼の成長と共にあった。1969年。それは僕の生まれた年でもあり、彼の成長と共に画面に映し出される時代の風景は、僕と共にあったものでもある。だから僕はこのシリーズが好きなのかも。  46作以降の寅さんは動きが緩慢で表情も硬く、常に眉間にしわを寄せている姿はまるで生き仏のよう。しかし、彼の培ってきた魂はしっかりと満男に受け継がれていることが最後のシーンで分かるのである。満男の最後の独白。彼が最近、寅さんに似てきたと言われていることに対して、「他人の悲しさや寂しさがよく理解できる人間」だから彼は伯父さんを認めるのだと言う。満男は世間よりも寅さんに心を寄せる。彼は成長しつつも、世間に染まりきらない、ある意味で「常識」の象徴たる博やさくらと対立する人間(寅さんと同様)として描かれているのだと僕には感じられた。  ゴクミ不在のゴクミシリーズはなかなかいい。牧瀬里穂も可愛かった。。。
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:44:14)
19.  男はつらいよ 寅次郎の縁談 《ネタバレ》 
マドンナは2回目の松坂慶子。  ゴクミシリーズもゴクミは不在。今回、家を飛び出すのは就職試験に落ちて自分に自信を失ってしまった満男である。但し、自分に自信を失ったという見方はあくまで博やさくらの親側からのものであり、満男としては、伯父の寅さんの生き方を常に見てきたことで、自分の目の前にせまるサラリーマン人生に疑問を持っていたことが根本にある。(当時の感覚としてそれは僕にもよく分かる。サラリーマンとして定職に就くというのは一種の喪失感として捉えられていたから。)  今回は満男も瀬戸内海の琴島で人から頼られる経験をし、ちょっとした恋(浮気?)もあり、人間として成長する。そして、柴又に帰ってくる。話だけからすると、島での満男は都会から来た「まれ人」であり、結局は都会という現実に帰っていくわけで、あくまで現実は都会の側にあるという風に見えるかもしれない。しかし、今回のドラマの白眉なところは、島の人々の生活をリアルに描いたことにあるのだと僕は感じた。生き生きとした島の生活があり、それは満男にとっても夢ではない、確かな手ごたえのあるものとして受け止められたはずである。生きるということそのものの対象として、山田洋次監督はそのリアリティをしっかりと伝えようとしている。
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:44:11)
20.  男はつらいよ 寅次郎の青春 《ネタバレ》 
ゴクミシリーズの第4作目。  渥美清の病状が悪化したこともあり(肝臓がんの発覚)、寅さんの表情が硬く、声が掠れ、動きも鈍い。その分、満男が活躍し、ゴクミとの新幹線の別れのシーンなど、なかなか魅せるのだけど、やっぱり寅さんに元気がないのが気にかかってしょうがなかった。初期作と続けて観た為にその衰えぶりが否応なく目についてしまう。寅さんのマドンナ役、風吹ジュンとの恋愛模様にリアリティがなかったのも致し方ない。  満男のシーンに流れる徳永英明の音楽が妙に印象的だったな。
[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:44:08)
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