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プロフィール
コメント数 3983
性別 男性
年齢 54歳

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1.  新・座頭市 破れ!唐人剣
誰が待ち望んだか、たぶん誰も待ち望んでいないけど、勝新の座頭市シリーズとジミー・ウォングの片腕必殺剣シリーズがついに夢のコラボ。 前年にも『座頭市と用心棒』なんていうコラボ企画をやっていて、これもまあ、大映・座頭市と東宝・用心棒の組み合わせ、言ってみればガメラとゴジラが共演するくらいのインパクトなのですが、どうもイマイチぱっとしない印象(あくまで個人の感想ですが)。ただでも濃すぎるぐらいの企画なのに、さらに監督が岡本喜八さん、とくると、これはさすがにやり過ぎかと。 で、今回はさらにぶっ飛んだ企画。じゃあさらにイマイチなのかというと、そんな事はなくて、意外や意外、これが面白いのです。 私がなぜ『戦国自衛隊』なるキワモノ映画を偏愛しているかというと、時代劇と近代兵器、という、同時に存在し得ないもの同士、同時にカメラに映っちゃいけないもの同士が、堂々とカメラの中に同居してわたりあっている、あの異様さが、何度見てもやっぱりタマランからなのです(ではなぜ『戦国自衛隊1549』に一片の愛着も示さないかというと、「そうは言っても我慢にも限界がある」としか言いようがないのですが)。あの魅力的な異様さ、というものは、この謎コラボの作品『~破れ!唐人剣』にも共通したものを感じることができ、ワクワクさせられます。お馴染みの時代劇世界に、なぜか加わるカンフー風味。もしかして、こういう企画がさらに後のテレビシリーズ「Gメン'75」の香港コネクションとかにも繋がったのでは、とか思うと、ワクワク感も倍増するというものです。 正直、そういう作品の見た目の異様さを除くと、結構、フツーの座頭市シリーズの一本、という気もするのですが、それもまた、ブレない安心感。というより、言葉が通じない者同士のやりとりが充分に作品の変化となっており、最後までそのスタンスを崩さないのも好感が持てます。 賑やかしのように出てくるてんぷくトリオも、意外にイヤミが無く、いい味出してます(三波伸介が懐かしい。いまだに私の中では、笑点の司会者と言えばこの人、というイメージが)。 飛び散る鮮血など、残酷描写も織り交ぜつつ、殺陣も充実しており、ラストの対決までサービス満点。 音楽は、冨田勲。たぶんまだシンセサイザーは使っていないと思いますが、それでも多彩な音を聞かせてくれます。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2025-03-15 09:24:33)
2.  座頭市御用旅
『座頭市〇〇旅』という定番のタイトルですが、前後のシリーズ作品は「新座頭市」と題されている、そんな頃の作品。大映は倒産し、勝プロダクション製作で東宝が配給。 一応、監督が森一生なんだから、シリーズ源流からの流れを汲んだ作品には違いない、はずなんですが、監督だけでどうにかなるものでもなく、ややチープな雰囲気が。テレビ時代劇っぽいんですね。音楽も何だか軽いノリだし。残念ではありますが、仕方がない。逆に言うと、ここまでグレードを下げてでも続けられてしまうのが、座頭市シリーズというコンテンツの持つ強み、ということでもあるのでしょう。 何者かに襲われ瀕死の女性が、死の間際に赤ちゃんを産んで、座頭市がその赤ちゃんの世話をしながら、親の元に送り届ける、というのがお話の発端。この「赤ちゃん」の人形丸出し感がもうすでにイヤな予感しかない。何とも安っぽいなあ、と思っちゃうのですが、こういう安っぽさが映画全編を貫いています。 とは言え。オハナシ自体はよくできている、というか、ちゃんとツボを突いてくるので、それなりに楽しめてしまいます。座頭市の親切心が彼を困難に巻き込んでしまう、ということで、「座頭市はただの人のいいオジサンではなく、その裏に悪魔的な顔を持っていて欲しい」と思ってしまう私としては、イマイチな印象はあるものの、彼がシガラミにとらわれていってしまう様は、やはり目を離せないものがあります。 何よりこの、三國連太郎のワルそうなこと。極悪、などというようなサバサバした悪ではなく、陰鬱、陰惨、といった言葉の方がよく似合います。この悪役との対比として、座頭市のキャラから暗さが取り除かれているのかも。さらに親分がワルければ子分もワルそうで、石橋蓮司に蟹江敬三。 座頭市と悪党どもとの間に立つ目明しの森繁久彌も存在感を示し、そうなると、剣豪の用心棒・高橋悦史は、正直、出てこなくてよかったんじゃないの、と(このアクの強い顔、無意味に目立ってしまう・・・)。しかし蛇足のごとき彼の登場も、言ってみれば、この作品のサービス精神の表れ。存在を忘れた頃に出てきてくれるので、ちょいと嬉しくなります。 これで、作品の出来がもう少し良くって、気が散らなかったらなあ。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2025-03-02 09:17:39)
3.  甦える大地
鹿島臨海工業地帯開発のオハナシ。大規模な工事のシーンや、台風のシーンなど、巨大プロジェクトをテーマにしたスペクタクルを狙っている、らしいのですが、ちょっとネタ的に厳しいか。 開発そのものよりも、その前の用地買収等が中心に描かれて、土地を売るやら売らぬやら、この後ギャオスでも出てくりゃ盛り上がるのですがそうもいかず、スペクタクル感は乏しい印象。というよりこの映画、むしろそういう、苦労した甲斐があったよねバンザイ的な展開ではなく、もう少し皮肉を利かせた作品になっています。工事の前に立ちふさがるのは、自然の猛威よりはむしろ、人間たちの思惑。言ってみりゃ、正解が無い。さんざん苦労した挙句、石原裕次郎演じる主人公には、虚しさ、徒労感だけが残ってしまう。オレは何のために苦労をして、一体何を作ってしまったのか、と。ちょっと、一筋縄ではいかない物語となっています。 それはいいんですが、そもそもこの主人公、最初は何でこんなにこの開発に入れ込んでいるのか、というのが、イマイチ伝わってきません。冒頭、ここは昔からずっと人々が苦しんできた土地なんだよ、ということが渡哲也によって示されるけれど、現代の石原裕次郎は江戸時代の渡哲也の生まれ変わりだというのならまだしも、そうでないのなら(たぶん、そうではないのだと思う)、結局これ、「石原裕次郎は熱い男だから、彼の演じる主人公も熱い男なのである」と言ってるだけのような。で、その男がラストになって急に投げやりな事を言い出すと、申し訳ないけれど、この人、すぐに変節するテキトーなヤツだなあ、としか思えず。。。 それも含めての裕次郎の魅力でしょ、と言われりゃ、ま、そんな気もいたします。 いずれにしても、一風変わったアプローチの作品、ではあります。 映画の中に何度か、夕陽のシーンが登場して、夕陽を描く映画にきっとハズレは無いでしょ、と思っていたのですが、この夕陽のシーンがこれまたどういう訳か、もう一つグッと迫るものが無くって。こういう辺りも、ちょっとこの映画の描き方が皮相的に感じられてしまうところ、でもあります。 音楽は、武満徹。やっぱり何か、普通の映画音楽とは響きが違いますね。
[CS・衛星(邦画)] 5点(2025-02-24 19:09:58)
4.  拝啓総理大臣様
戦中から戦後にかけて、朴訥とした一人の男の生き様を綴った前2作に対し、今回は、映画製作当時の「現代」が舞台。こういう路線変更がシリーズを短命にする・・・? しかし、個々のエピソードを積み重ねた印象の前2作に比べ、こちらの方がストーリー的には纏まりを感じさせもします。舞台は現代に固定していても、進駐軍兵士と日本人女性との間に生まれた孤児(いわゆるGIベビー)が登場したりして、戦争を振り返る視点も挟みつつ。 しかし時代は高度経済成長、所得倍増計画の頃。まだまだ貧しい者と、ある程度の余裕が持てるようになった者とが共存している。同じ芸人仲間でも、前者が主人公の渥美清で、後者がその友人の長門裕之。しかし長門裕之とて、漫才のパートナーに見捨てられては「売れない苦悩」に直面せねばならず、これは今も昔も、変わりません。 そして、戦争が終わり、戦後が過去のものになりつつあっても、経済成長に伴って今度は、交通戦争の時代がやってきている。せっかくあの戦争を生き残っても、交通事故で散っていく無数の命が、新聞記事の数々によって示されます。 作中ではさまざまな「弱い立場の者」が描かれ、そうすると何せ昔の作品ということもあって、差別用語のオンパレードとなり、こちらも反射的にヒヤヒヤしてしまうのですが、過去を無かったことにする訳ではなくこうやって居心地の悪さを感じるのが、ちょうどよいのかも。 今回の主人公は芸人ということで、庶民の生活、というのとはだいぶ雰囲気が異なりますが、それゆえ、というべきか、ストーリー的なまとまりもあって、前2作とはまた異なる魅力をもった作品となっています。庶民の鬱屈みたいなものは、加藤嘉さんがこれを一身に体現していて、その熱演たるや、最凶レベル、いや最狂レベルというべきか。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2025-02-08 08:06:01)
5.  剣鬼
周囲から蔑まれて育ってきた主人公の青年を市川雷蔵が演じていて、前半はいかにも純朴、と言うよりは野暮ったい雰囲気を漂わせています。およそ雷蔵らしくない役、のようでいて、実はこの人、こういう役の方が似合ってたんじゃないか、という気もしてきますが、後半への彼の変化が見どころで、思いつめたような悲壮感が加わってくると、やっぱりこれが雷蔵だよなあ、と。 不幸な生まれのため、あいつは犬の子なんじゃないか、とか、酷い言われようをしながら育った主人公なのですが、そういう育ちが為せる業なのか、はたまた宿命というものなのか、独特の野生みたいなものが彼には備わっています。 それは例えば、花を愛する優しき心。なのですが、ただ「優しい」とだけは言うだけではなく、その心ゆえ、殿様に対しとんでもないこともやらかしてしまうし、またその事件が彼のその後の運命を左右したりもします。 はたまた、走る馬にも遅れずについていく異常な脚力。いや、雷蔵がそんなに速く走れる訳ないでしょ、これって早回しやんか、などと言ってはいけないのです。主人公の持って生まれた野生。 はたまた、居合の達人(内田朝雄)の技を、目で見て習得する眼力。いや、内田朝雄がこんなに速く刀を抜ける訳ないでしょ、これって早回しやんか、などと言ってはいけないのです。いずれにせよ、かつて野暮ったかった青年は、習得した達人の技、そして自らの修練と持って生まれた野生の勘により、暗殺を繰り返すヒットマンとなっていく。その過程で生まれる悲劇がまた、彼の宿命を感じさせたりもして。 で、片や花を愛するメルヘン、片や剣に生きる暗殺者としての心、その二つが、クライマックスにおいて邂逅する訳ですね。咲き乱れる花の中で繰り広げられる、襲いかかってくる刺客たちとの死闘。こういう場面で、やっぱり雷蔵の殺陣はイマイチだなあ、とは思いつつも、その悲壮感には魅せられてしまいます。こんな山間の小川に花が自然に咲いているはずもないので、きっと撮影のために植えたんでしょうけど、これだけの花、大変だったんじゃないでしょうか。しかし主人公が見る幻として、さらに花が一面を覆いつくすような映像なども出てきますが、さすがにこの量は植えられるとも思えず、これはどうやって撮影したんでしょうか??? 三隅研次&市川雷蔵の、いわゆる剣三部作の最終作で、ここでも、大映作品らしい陰影に富んだ映像、魅力的なロケ撮影、大胆な構図のカメラなどの魅力が堪能でき、残念ながらシリーズはこれで打ち止めとはなりましたが、掉尾を飾るにふさわしい作品と言えるのではないでしょうか。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2025-01-26 07:32:58)
6.  富士山頂(1970)
オープニングからいきなりの登山シーン。テンション上がります。 もっとも、とりあえず実際に山に行って撮影さえすりゃ、いい絵ばかりがじゃんじゃん撮れるのかというと、そんなに甘くは無いようで、映画全編を通じて見ると、今ひとつ、と思ってしまう部分もあるのですが、とは言っても、いい絵が撮れる時には撮れる訳で、そこはさすが、思い切ったロケ撮影の強み。 それだけではなくって、ロケ撮影による山上の屋外シーンから、屋内シーンへと巧みに繋ぐことで、現地の過酷な雰囲気がよく伝わってきたりもします。 物語は、富士山レーダー設置のオハナシ。要はプロジェクトXです。これを映画として再現してやろうという、壮大な試み。組み上げたドームをヘリで山頂まで運び設置するクライマックスに、度胆を抜かれます。ホントにもう一つ富士山レーダーを作っちゃうんじゃないか、という勢い。 高山病の症状なり、山頂までの輸送の艱難辛苦なり、もう少し掘り下げたりエピソードを盛ったりできそうな部分も、割とサラッとしているので物語としては薄味な印象ですが、見どころはあくまでスペクタクルにあり、ということで。 音楽は、黛敏郎がクレジットされている横にもう一人、肥後一郎という方の名前があって、すみません存じ上げないお名前なのですが、二人の名前がクレジットされているのはどういう事情なのか、いずれにしても、黛敏郎作曲と云われりゃそんな気がしてくる、雄大過ぎる音楽がなかなか容赦無く流れていきます。雄大な映像には雄大な音楽、ということなんですかね、雄大さでは音楽の方が少し勝ってしまっているような・・・
[CS・衛星(邦画)] 6点(2025-01-13 08:50:16)
7.  ある兵士の賭け
この世で一番おっかないものは、「ふるやのもり」。ってことで。 愛情には恵まれているが建物には恵まれず、雨漏りの酷い孤児院で暮らす子供たちのため、座間~別府1300km強を14日間で踏破するチャリティに挑んだ駐日米軍人の物語。石原プロの作品ですが裕次郎は準主役の位置に下がり、セリフの多くは英語。冒頭のクレジットも英語表記で、やはり国際市場を狙ってたのかなあ、と。回想や後日談で戦争を描くシーンもあり、人的物量の点では物足りないながら、スペクタクルが織り込まれてます。 物語のメインは二人の兵士の行脚、ということで、その旅を追いかける形で、日本各地でロケ撮影が行われてますが、多少の混乱(?)もあって、尾道のシーンでは東向きに逆走して歩いていたり(こういう構図で撮りたかったんだろうから目くじら立てる話でもないけど)、広島市~錦帯橋のシーンの前に、岩国を歩く彼らの新聞記事が挿入されたり(これはさすがに何とかなったのでは…)。 ただ、これは製作時に意図したことではないんでしょうけれど、今見ると、バブル以前の「懐かしい昭和の日本」の光景が、映画のあちこちに散りばめられていて、こういうのは何だかイイなあ、とか思っちゃう。この一点だけをとっても、充分に貴重でユニークな映画に仕上がってます。 しかし主人公のアレン大尉、この無謀な挑戦をやり遂げるため、決然と歩き続けるのはいいけど、こんなどことも知れぬド田舎を歩くのは日本人だって不安だしまごつくもの。なのに、地図を眺める場面一つ無く、まるで既知の道であるかのように歩き続けるだけ。ちとインチキ臭く見えてしまう。一方、主人公に同行するテキトーな方の兵士、途中で体調を崩し車で大尉に追いつくのですが、これって旅の趣旨からすると反則のような…。 あと、関門海峡はどうやって突破するかと思ったら、物語の舞台である1960年にはすでに関門トンネルが開通してたんですね。で、二人はエレベーターで人道トンネルへ。ちなみにこの人道トンネルは国道2号線に指定されており、かつ、国道は他の道路と分離してはいけないので、このエレベーターも実は国道の一部なのだ、と言う話を聞いたことがあるのですが、国土交通省中国整備局のHPによると、それは事実らしい。 という余談はさておき、裕次郎が演じるカメラマン、どうも単細胞過ぎて困っちゃう。彼の心の変化が物語の重要なテーマとなっているので、最初はダメな奴として描かれててもいいんだろうけど、カメラマンという設定を作中で活かせていないのは、これはいかがなものかと。確かに、戦場の場面では身の危険を顧みずカメラを取りに行こうともしますが、基本的にこの人からは、カメラマンの矜持というか、「カメラが持つ力」への信頼、というものが感じられない。戦場において悲惨で理不尽な状況に出くわした時、怒りに駆られもするだろうけれど、戦場カメラマンとしてすでに多くの悲惨な光景を見てきた筈なのに今さら、この目の前の光景だけが特殊だと言わんばかりの反応を示すのも妙だし(それまで全く戦争の汚い部分を目撃しなかったのか?)、しかもその反応が「兵士を殴る」だなんて。そのカメラでもって世の中を変えようと思わないんだろうか、カメラにその力があると思わないんだろうか? アレン大尉に対する怒りがあるとは言え、わざわざつきまとってイヤミを言いに行くのも、いかにも小市民的。その彼もやがて心を動かされていくのだけど、その様の描き方といえば裕次郎フェイスのしかめ面を再三見せつけるばかり。それだけではこちらの心は動かされません。 裕次郎の描き方がイマイチなら、三船敏郎もなんだか窮屈そう。言葉遣いだけは豪放磊落なんだけど行動にそれが反映されず、演じがいが無さそう。 やっぱりジェームス三木は、映画ではなくテレビ向けの脚本家、なのでは。 ところで、映画の中では、徳山コンビナートやらガソリンスタンドでの電話拝借やらで出光興産を持ち上げてますが、もう一つ、見る側の違和感を顧みず投入されているのがサントリーへのヨイショ。工場で純生ブランドのビールが生産されてます。開高健と山口瞳の「やってみなはれ みとくんなはれ」を読むと、ついサントリーのファンになってしまうのですが、戦前に手放したビール事業を再開したのが昭和38年(この時に寿屋からサントリーへ社名変更)、当初は大手三社の寡占状態の中で苦戦を続けるも(ただしアサヒビール山本社長との間にちょっとイイ話あり)、昭和42年に投入した起死回生の一発が、この純生。この映画の頃だと、サントリーも押せ押せムードだったのかなあ。とは言え、後のプレミアムモルツの発売まで、サントリービールの万年4位状態が続くのだけど。 そうか。どうしてこんなに三船敏郎のノリが悪いのかと思ったら、サッポロビールじゃなかったからか。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2024-12-29 10:08:19)
8.  クイック&デッド
もうストーリーなんかスカスカで、ガラの悪い連中が集う、とある田舎町を舞台に、ガンマン同士の決闘大会が行われる、ただそれだけ。いや、何ならもっとスカスカでもよかったんだけど、シャロン・ストーン演じる女ガンマンを中心に、『タイタニック』で道を踏み外す前のレオ様が出てきたり、まだ痩せてた頃のラッセル・クロウが出てきたり、悪役はやっぱり(?)ジーン・ハックマンだったり、まさに枯れ木も山の賑わい。じゃなかった、何となく豪華な顔ぶれで、一応はそれっぽく物語を盛り込もうとしてます。ムダな足掻きですけどね。ははは。 ストーリーなんかよりも、映画の眼目は「どう撮ってどう見せたらオモシロいか」、ただ、それだけ。ほとんど荒唐無稽とも言えるような演出のつるべ打ち。中学生でも思いつかないような、中学生的発想のオンパレード。 こういうことを恥ずかしげもなくやってくれる、サム・ライミ。こんな映画を見て面白がっている自分も大概恥ずかしいのかもしれないけれど、ひととき、それを忘れさせてくれる、サム・ライミ。ありがとう、サム・ライミ。 と、最初に見た時には思ったのだけど、その後(とは言っても随分前の話になるけれど)ジョン・ヒューストンの『ロイ・ビーン』を見て、ビックリ。撃たれたヤツの体にキレイに穴が開いてるなんてアホな描写のネタ元が、こんなところにあったなんて。ジョン・ヒューストンもこんな恥ずかしいことをやってたなんて。ありがとう、ジョン・ヒューストン。 この『クイック&デッド』、基本的にはマカロニ・ウェスタン路線で、いや、どんなマカロニにも負けないくらいの「マカロニ過ぎる」作品なのですが、それでもやっぱりこのアホらしさ、能天気さというものは、アメリカ由来のものなのかな、と。黒人俳優の地位を切り開いてきた映画史の生き証人たるウディ・ストロードもまた、そこに顔を出していて。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2024-12-15 21:35:03)
9.  日本侠客伝 刃
日本侠客伝シリーズ最終作。この頃には監督もマキノ雅弘ではなく、この作品では小沢茂弘がメガホンをとっています。任侠映画の時代も終わりつつあり、いわば実録路線ブーム前夜、といった頃の作品。 日本侠客伝シリーズ開始の翌年に開始した昭和残侠伝シリーズ(ちなみにシリーズ終了も1年遅れ)からの逆輸入といった感じで、今作には池部良が登場し、キャラ的にも昭和残侠伝そのまんまの印象ですが、高倉健との関係の描かれ方はだいぶ異なります。というのも、すでにその道ではひとかどの人物たる池部良に対し、今回の健さんはというと、ボサボサ頭に無精ヒゲのチンピラ風情。 正直、なかなかの違和感です。ちょっと嬉しくなってくるではないですか。 で、やがて物語は、熱血代議士の大木実と、その活動を妨害する圧力団体の渡辺文雄との対立へ。渡辺文雄という人は一見、人の良いオジサンなんですが(いや、これは多分、テレビのバラエティ番組の印象も大きいけど)、こういうイジワルな役ばかりをやってて、確かに、狡猾さみたいなものを強く感じさせます。ちなみに、その部下の一人に、雑魚キャラながら変なカラテ使いみたいなヤツがいるのですが、これは川谷拓三ですね。 文無しの健さんを助ける芸者に、十朱幸代。いやここは藤純子でしょ、という役ですが、残念ながら十朱幸代です。美人ではあるんですけどね、どうしてこんなに残念なんでしょうね。ただ、芸者役とはいってもこの、シロウトっぽさ、イモっぽさみたいなものは、やっぱりこの人ならでは。それに演出の方もあまり彼女の演技力に頼らないような工夫が凝らされていて(笑)、あの海岸のシーンとか、なかなかいい感じ。 物語の後半は、歳月が流れて4年後となり、すると健さんももはやボサボサ頭ではない「ノーマル健さん」として再登場。待ってました!ってなところではあるのですが、あまりにフツーになってしまい、ちょっと残念でもあります。せっかく違う映画を見てたのに、いつも通りの映画をまた見せられるかのような。しかしシリーズなんだから、仕方がない。 という訳で、多少、とってつけたようなクライマックスの殴り込みに至る訳ですが、白い装束がやたらカッコよく、有終の美を飾るのでした。
[インターネット(邦画)] 7点(2024-12-15 10:35:51)
10.  どぶ鼠作戦
いや~。カオスですねえ。 ほとんど実験的とでも言えるような意表をつく場面転換の数々。それが作品のリズムとなり、ユーモアとなって、前衛性と娯楽性とが見事に結合しています。物語も、どこに繋がるのやら、どこまで広がるのやら。見てるうちにいったいこれが、何の作戦だったのやら、見てるうちによくわからなくなってくる、というより、どうでもよくなってくる。そういや、捕らえられた参謀の救出作戦だったっけ、と最後の方になってようやく思い出し、ああやっぱりどうでもよかったな、と再認識したりして。こういうカオスぶり、作品のカラーは全く違うけど、何となくセルジオ・レオーネ作品を思い出したり。『続・夕陽のガンマン』とか。 この作品に西部劇風のシーンが取り入れられていることも、そういう連想に繋がるのですが、1962年の作品ということで、一連のマカロニウェスタンよりもこちらの方が、先。 ユーモアにあふれた作品ではありますが、時にそれは、ブラックでシニカル。なにせ人の死が間近にある戦場。その残酷さを、煽るでもなく素知らぬ顔で作品の中に入れ込んでくる。その何気なさがかえって、戦争の理不尽さに対する怒り、告発ともなっていて。 とは言え、基本は戦争アクションであり、一種のスパイ映画でもあって、娯楽性には事欠きません。ちょっとイビツな面白さ、ではあるけれども。結局のところ、他人なんて誰も信じちゃダメよ、ってことなんですかねえ。信用し過ぎないところに生まれる、ちょっと粋な信頼関係。 それにしても、ヒゲの無い夏木陽介は、怖い。。。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-12-07 08:33:05)
11.  ザ・リング 《ネタバレ》 
どうせアメリカ人専用のリメイク版だろうから別に見なくてもいいよなあ、とずっと思ってたのですが、「見なくてもいい」は「見てもいい」の裏返し、今頃になってようやく、見てみようかと。 で、今頃になって、「この“リング”というタイトルの由来は、そこにあったのか!」という事に気づかされ、妙に感心してしまったのでした。しかし、「気づかされた」とは言っても、そんな描写、日本版の映画にあったっけ? というか、原作読んだの随分昔で(新入社員の頃に寮の同部屋のヤツが貸してくれたのであった・・・遠い昔)、記憶が薄れてるのだけど、タイトルの由来って小説内で書かれていたんだっけ? とかいうことは多分、本質的でも何でもない些事なんだろうけれど、それでも何でも、こういうことがあるから、映画を見るのは面白い。 で、この“リング”の由来(だよね?)たる、例の井戸ですけれども、井戸の蓋を開くシーン、日本版を見てる際に思ったのは、「こういう場面、アメリカ映画ならきっと、蓋が開かれる様を井戸の内部から捉えたカットを挟んでくるだろうに、やっぱり邦画ってアッサリしてるなあ」ということで(実際は井戸内部からのアングルが無いとは言え、数カットを費やして蓋を開いているのだけど)。で、実際こうやってアメリカ版が作られてみると、やっぱりちゃんと井戸内部からの視点のカットが挿入されている。もちろんそんなワケが無いとは言え何やら気を遣ってもらったようで、いや、申し訳ない(笑)。でもこのアングルが“リング”にも繋がっているのだから、油断できません。 日本版の違いという事で言うと、井戸の中に「入る」んじゃなくて、「落ちる」んですね。確かに、日本版の「オレが入ったんだからオメーも入れ」で女性主人公を井戸の底へ追いやったんじゃ、アメリカでは受けがよろしくないかも知れませぬ。どっちみち、普通なら入ろうという気が起きる訳もない気色の悪い古井戸。主人公には何とかそこに入ってもらわないといけない訳ですから、超常現象風味を絡めて、ここは一発、落ちてもらいましょうか、と。 ってか、かつては日本版で「何で主人公が女性なんだよ」と思ったのに、もはやこの設定に慣れてしまったらしく、もともと主人公は男性、という記憶が、もはや消えつつある。やっぱ女性の物語よ、これは。男性が井戸に入るより女性が入った方が、何となく凄みもあるし。 さてさて、この作品。とにかく暗いんです。最初の方の、母子が車に乗ってる場面。外は雨で、薄暗く、あー鬱陶しい、気が滅入るような、イヤな日だなあ、と思うのですが、その後もずっとこのドンヨリした雰囲気が映画を支配しています。やや青みがかったような、寒色系の薄暗い映像。ところが例の井戸発見の場面になると、ここは夕焼けなんだか何なんだか、奇妙な赤い光が差してくる。暖色系の色合いの映像となりホッとするのかというとさにあらず、かえって異様で不気味な印象。 運命の7日間が過ぎて8日目の朝を主人公が子供と迎えると、ようやくここで、自然な光が差し込んできて、事件が解決したんだなあ、と思わせるのですが、もちろん解決などしておらず、この後、例のあの「これぞ貞子」なシーンが控えていることは、皆さんよくご存じの通り。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-11-30 09:23:47)
12.  まむしの兄弟 二人合わせて30犯
シリーズ第7作。これまでにも「懲役十三回」だの「傷害恐喝十八犯」だのというコケオドシのタイトルがついていましたが、ついに二人合わせて30犯。とは言っても、劇中のセリフを聞いていると、一人で20犯くらいいってるとのことなので、これでも実は控えめの数字なのかもしれない・・・と言うより、完全にナンセンスなタイトルなんですけれども、そんな作品の監督がなんと、あの集団抗争時代劇の工藤栄一というのだから、この世の中、裏ではどういう力学が働いているのやら、わかったもんじゃありません。 とは言え心配ご無用、兄貴分の菅原文太が出所する冒頭から、タイトルに負けないアホらしいドタバタが展開されていきます。しかし一方で、その出所のシーンにおける、逆光によるシルエットの描写などに、シリアスな空気も醸し出したりしていて。 以降も、表向きのアホらしさのその裏で、逆光や、あるいはリンチシーンのスローモーションなどでもって、魔の手が忍び寄ろうとしている不気味さみたいなものを感じさせたりします。 菅原文太とともに孤児として育った弟分・川地民夫が、実は資産家の息子だった、、、という展開で、生き別れた母という人物を訪問する二人が、大抵宅の前で小さく撮られている、そのユーモラスさ、しかしその裏で何かを企んでいる成田三樹夫と渡辺文雄の影、という二重底の構成。意外にこれ、シリアスなんです。 そして一種のラブストーリーでもあったりする。親子愛、ってのもあるけれど、不器用な男女の愛もまた展開され、意外にこれ、王道なんです。 まさかまさかこんなタイトルの映画で泣いちゃったりしないよう、心して、見るべし。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-11-23 17:22:22)
13.  がんばれ!!タブチくん!! あゝツッパリ人生
先日の西田敏行さんの訃報を聞いて、変な話だけど、この人だけは永遠に活躍し続けてくれる人だと思っていた自分に気づく。自分が物心ついたときから今に至るまで、途切れることなくずっと人気を保ち続け、テレビや映画でその姿を見せ続けてきた、おそらく唯一のタレントさんなんじゃないだろうか。いつからこの西田敏行という人を自分が認識していたのか記憶が定かではないけれど、毎週楽しみにしていたテレビの「西遊記」では、マチャアキとともにすでに認識があったと思う(岸部シローのことは「誰やねんコレ」と子供心に思ってた気がする)。 コメディアンとしての一面、性格俳優としての一面、探偵局局長の一面を見せつつ、やはり忘れちゃいけないのが、この「タブチくん」における愛すべきアフレコ。モデルは田淵幸一選手とは言え、デフォルメしまくったアニメ映像、そのデフォルメをさらに超えてくるようなハチャメチャなセリフ回しは、もはや完全に西田敏行ワールド。本当のモデルはどっちなんだか、だんだんわからなくなってきます。 内容的には第3作になっても、相も変わらず・・・といったところで、極度に簡素化された背景画も相変わらずなら、荒唐無稽なドタバタも相変わらず。 そして、実在の人物をネタにどうしてここまでやっちゃって許されるのだろう、と思いつつ、それがどうして今やここまで不寛容な時代へと逆ブレしてしまったんだろう、とも思いつつ。 短期間に作られた大差のない全3作、とは言え、この第3作を見てると、いよいよヒロオカさんの魔の手が迫ってきたなあ、とか。ナカハタがまだ三塁のポジションを原にとられる前なんだよなあ、とか。それにしてもここまで「ゼッコーチョー」を連発してたっけか。実際、してたような気がしてくるから、コワい。 こんなとんでもないアニメが作られるような時代って、いつかまた、来ることがあるんだろうか?
[インターネット(邦画)] 7点(2024-11-23 09:08:03)
14.  ペンギン・ハイウェイ
作品中に生駒市北部の景色が登場するらしい。というのを、作品を見てもいない自分がなぜ知っているのかがよくわからず。最近こういうコト多いんですよね、困ったもんです。たぶん、だいぶ以前にDVD借りて見た家族から聞いたのと(私が見る間もなく返却されてしまった…)、ちょうどその頃に原作者のインタビュー記事を新聞で見かけたのと、その辺が記憶に残ってたらしく。 このアニメ作品、実際見てみると、あまり奈良っぽくない光景も多いし、むしろ架空の地域が舞台に設定されているようですが、それでも、駅の自動改札はいかにも近鉄だし、走っているのはどう見ても近鉄けいはんな線、行先表示もコスモスクエア行。気になって後で調べてみたら、バスターミナルのあるあの駅は、学研北生駒駅なんだそうな。 「あまり奈良っぽくない」のは、意識的にそう描かれている部分もあるのでしょうが、そもそもここは、西から北にかけて生駒山地、南は矢田丘陵があり、奈良盆地とはまた異なる光景が広がっています。神武東征にナガスネヒコが立ち向かった、「古都・奈良」よりもさらに古い神話の舞台でもあって。 しかしいずれにしても、ペンギンだけはこんな場所におらんでしょう。という場所には違いなく、それでもそこにペンギンを登場させ、歩かせる。かなりぶっとんだ発想の作品です。作中でなんやかんや仮説が披露されるけど、実際のところはこんな場所にペンギンがなぜ現れたかなんて、ほぼ不明。ほぼ無意味。って言っちゃダメですね、「謎」です。あくまで「謎」。 作品終盤にむけ、ますまず訳のわからなさは加速し、でもそれを敢えてわからせようとはせずに、ナンセンスの極みのような映像をアニメとして展開し続ける。この野心というか我慢強さというか。頭が下がります。 一体この一連の現象は何なのか。その原因と思しきお姉さんは一体何者なのか。ほぼ謎のままなんですが、いやだって、少年の目から見りゃそもそも、「キレイなお姉さん」ってモノ自体が、謎なんです。永遠の謎。いや少年の目どころか、男性一般にとって、謎なんです。謎なんだから男性は皆、女性をわかった気になっては、いけないんです。 謎なんだから、映画は謎のまま終わる。んだけど、少年は成長するし、成長すれば、出会いもあれば別れもある。思春期の混沌、別れの切なさをそのまんま描けば、例えばこういう作品になるんじゃないか。という気もいたします。少年は成長し、新たな謎に立ち向かう。だけど「おっぱい」を研究するのはやめた方がいいと思う。趣味と仕事は、できれば分けた方が。 最近、アニメの技術が上がるとともに、尋常じゃないほど手の込んだ作品も作られるようになり、そういう作品に比べてしまうとこの作品などは、ちょっと動きが乏しいかな、と思えてしまう部分もあったりするのですが、あくまでそれは比較であって、決して物足りないという程ではありません。CGでうまく補っている部分もあり、また、一つ一つの動作についてはちょっとした反動みたいなものも描きこむ芸の細かさがあったりして、「絵が動く贅沢さ」というものを充分に堪能できます。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2024-11-02 10:00:03)
15.  226
将校たちの決起の様子もそこそこに、映画はいきなり2月26日未明の襲撃事件で開始。いわば、部隊が投降するまでの膠着状態を描くような構成となっています。将校たちの想いや苦悩が作品の中心となる訳ですが、例えば岡本喜八監督の(原田眞人監督の、とは言わない)『日本のいちばん長い日』などが見せた、殆ど狂気寸前とも言うべき凄まじいばかりのテンションを思い起こすと、ずいぶん「静かな」映画だなあ、と。いや、出演陣の個々の熱演は確かにあるんですが、作品を通じて昇り詰めていくようなものがあまり無く。 巨大なオープンセットを駆使した撮影。この建物はベニヤ作りのハリボテなんかじゃないですよ、と言わんばかりに屋上に人を立たせたりもして、あるいはそこに戦車を何台も登場させたりして、大作を作ろうという意気込みは伝わってくるんですけどね(「忠臣蔵」の昭和初期版?)。屋外シーンで積雪が残っている様子を再現しているのも抜かりなし。なんだけど、そもそもの、襲撃事件中に降りしきる雪、あれをもうちょっと上手く描いてくれれば・・・雪の描写って、難しいですね。 膠着状態を延々と描くのも味気ない、ということなのか、回想風に将校たちと家族との様子が織り込まれたりして、彼らもそれぞれ家庭があり人生があるんだよ、というのはわかるのですが、これだけの描写ではさすがに中途半端で、心に食い込んでこない。襲撃シーンでも被害者側の家族が描かれたりしていて、作品の意図としては「家族」というものにも触れておきたい、んでしょうけど、これでは消化不良。 外伝的に、モックンと根津甚八とのエピソードが挿入され、ここは二人の静かな熱演が活きた印象的なシーンとなっておりました。あと、出番は多くありませんが、川谷拓三の別れの場面も印象的。実際のところ、「オールスター」的な映画でありつつ、個性的な役者を集めて各キャラの色分けもしっかりなされており、その辺りは悪くないと思いました。 昭和初期の風物の描き込みも、五社監督お手の物、といったところでしょうか。 という訳で、個々にイイなあ、と思う点はあるのですが、映画全体を通じては、やっぱり作品が弱いかなあ、と。 映画の印象が「静か」という事に関しては、劇伴音楽の用いられ方がやや控えめであることも影響していそうで、それでも要所要所は音楽がドラマを支えています。ただ、襲撃の際に火炎瓶が投げ込まれる場面での音楽は、ブラームス交響曲4番のパッサカリアの一部を元にしたパロディ風の音楽で、こういうのがダメという気は無いですけど、個人的には正直、気が散っちゃうんですよね。。。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2024-10-27 07:51:56)
16.  獄中の顔役
殺された仲間の復讐のため、対立する組へと殴り込みをかけ、刑務所に入れられた健さん。そこにはどういう訳か妙にバラエティに富んだ囚人仲間がいて、ってか、どういう訳かわざわざ由利徹がいたりして、完全に網走番外地シリーズの世界。鬼寅を思い起こさせるような訳アリっぽい初老の囚人(島田正吾)もいたりして。しかし一方、シャバの組の対立が刑務所内にも持ち込まれており、健さんのいる西房と、東房とが対立しております。この東房で顔を利かせているのが、池部良。とくればこれはもう、昭和残侠伝シリーズ。 こういうのを、1粒で2度おいしい、と言うのか、それとも、せっかくなんだから1粒ずつ分けて食べたほうがおいしいのになあ、と言うのか。で、両シリーズからの影響を隠すことなく前面に出しつつ、さらにそこに、高倉健×藤純子による、男と女のドラマがまぶされていて、こういう部分は後の降旗・高倉コンビの作品を先取りしている感もありますが、なにせ、もうお腹いっぱい。 ラスト、競輪場にいる敵の親分兄弟に対し健さんが殴り込みをかけますが、殺陣だけみれば、あまり過激さが無いというか、多少アッサリした印象は受けます。しかし、「雪が降り主題歌が流れる中を、ゆったりと死地に赴く」というドラマチックな演出ではなく、競輪場の中を足早に歩を進める健さんの姿をゲリラ撮影風に捉え、嵐の前の静けさを感じさせるのは、また一味違った味わいがあります。 終盤の殴り込みシーンに対応するように冒頭に配置される、雨の中の長回しによる決闘シーンも、見どころです。
[インターネット(邦画)] 7点(2024-10-20 07:03:09)
17.  新諸国物語 笛吹童子 第三部 満月城の凱歌
泣いても笑っても、いよいよ全三部作の最終作。 いかん。書くことが無くなった(笑)。 普通なら物語の結末を迎えるこの最終作こそ、熱く語るべきところなんでしょうけれど。 白鳥隊とやらが結成され、新兵器たる鉄砲も準備。いよいよ、城を乗っ取った野武士の首領・玄蕃に対する反撃の狼煙が上がる。 終盤の合戦シーンなどの見どころもあるのですが、いかんせん、「相手は所詮、野武士だし、これじゃあ勝つに決まってるよなあ」というのもあってか、不思議なくらいの尻すぼみ感。 やっぱり真の見せ場は、霧の小次郎の生き様とその最期。なのかなあ。これも最後までどこか、トホホ感が付き纏ってます。 三作合わせると二時間半近いのかな。そう思えばそれなりの「大作」ですが、ラストシーンは全く粘りも何もなく、また断ち切るようにスパッと終わっちゃう、その潔さは、ちょっと好感持てます。
[インターネット(邦画)] 5点(2024-10-14 08:58:17)
18.  新諸国物語 笛吹童子 第二部 妖術の闘争 《ネタバレ》 
♪で~てこい、で~てこい、あがってこい ははは。ナメとんのか、と。耳について離れなくなってしまったではないか。  という訳で、意外な展開の下、突然終わった第一部に続く、待ちに待った第二部です。待ってないけど。 そうそう、第二部の冒頭で第一部のあらすじが極めて完結適確に紹介されますので、第一部をボーっとしか見てなくても、あるいは全く見てみてなくても、たぶん問題ありません。しかし、この第二部では物語が完全にアサッテの方向に向かって行きますので、この「置いて行かれた感」を楽しむためにも、やっぱり第一部は見とかなくちゃいけません。 第一部のラストで現れた怪人物、霧の小次郎が第二部で重要な役割を担います。ってか、主人公、と言っちゃってもよいかも。演じるは、大友柳太朗。独特の滑舌の悪さ(?)が、なかなか役にハマってます。大江山に棲む酒呑童子…という訳ではないですが、大江山を根城とする妖術使いです。いろいろとあやしい妖術を使い、だもんで特殊効果もふんだんに使用されます。若い女性を次々にさらってくる極悪人、かと思いきや、それは生き別れの妹を探すためであり、さらってきては、ああ、またも人違いだったか、と。 充分、極悪人ですね。 しかしついに今回、実の妹・胡蝶尼との出会いが待ち受けている。あ、冒頭に書いたのは、胡蝶尼の歌です。彼女は、妖術使いの婆さん以下、数々の妖怪たちとともに黒髪山に棲んでいて。。。 妖怪の中に、やたら高身長の唐傘オバケがいて、これはいくら何でも傘のサイズじゃないでしょ、と。しかも、妖怪どもが妖術で眠らされる場面で、他の連中は横たわるのに、唐傘オバケだけ面倒くさかったのか、直立姿勢のまま失神してます。ってのはどうでもいいけど。 第一部のオハナシはどうなったんだよ、というと、この妖術師・霧の小次郎の物語に、サブ・ストーリーとして絡むくらいの感じですかね。それは言い過ぎか。第一部で敵に捕まってた連中が、今度は妖術婆さんに捕まってたりして。 肝心の笛吹童子はというと、相変わらず大したことしてませんが、どうやら彼の吹く笛の音が、どういう訳か霧の小次郎を苦しめるらしい。人造人間キカイダーみたいですね。という訳で、今回も物語に微妙にかするだけの笛吹童子。 ラストはまた一大事が発生し、これ、普通ならツッコミたくなる展開ですがツッコむ暇もなく、次回へ続く。 という慌ただしい展開、途中(あるいは第一部と第二部の間)、物語の描写不足で「?」な部分もありますが、第三部冒頭でまた端的にあらすじを説明してくれますから、ご安心を。
[インターネット(邦画)] 6点(2024-10-14 08:45:27)
19.  新諸国物語 笛吹童子 第一部 どくろの旗 《ネタバレ》 
冒頭の東映マークが「波ざっぱーん」ではない、古い作品。三部作の第一部、ですが、三部作と言っても1本あたり1時間に満たない、興行の余白を埋めるような添え物的作品です。こういった作品が当時の子供たちを熱狂させたんだな、と思うと興味深いところですが、その興味深い理由というのが、今の我々の目で見ると正直かなりキツ~いものがあるので、ああ当時はこんなのでも楽しめたのか、と。新鮮さ、って大事ですね。 物語の発端が描かれるこの第一部、これだけ見たとて何とも言いようが無く、そもそも肝心の笛吹童子が全く活躍しないんです。いや、全三部にわたって、たいして活躍しない、というか、登場シーン自体が多いとは到底言えないもんで、その点は、文句を言うよりも第1部の段階で慣れておいた方がよろしいかと。まあ、脇役ないしそれ以下です。 笛吹童子・菊丸を演じているのが、若き日、若すぎる日の、中村錦之助。これは一見の価値あり。と言いたいところですが、どうも心許なくって。対話シーンなどでの手持無沙汰感、もうちょっと何とかならんか、と思っちゃう。ただしこの辺りは、演出側の責任、あるいは当時の東映の余裕の無さ、でもありますが。 城を乗っ取った野武士の大将に、月形龍之介。どうもこういう豪快タイプの悪役のイメージとは合わないような気がしつつ、しかししっかりと豪快に演じ、何より、殺陣の腕前はさすが、大したもの。 笛吹童子の兄・萩丸(演じるは東千代之介。イケメン兄弟の設定ですな)は、敵の手に捕らえられた挙句、骸骨マスクを顔につけられ、危機一髪。よくわからんが、このマスクが顔から外れないんです。こういう胡散臭いアヤしさが、いいじゃないですか。 さらには彼らの数少ない味方も敵に捕らえられ、あわや磔の刑に! しかしそこに異変が! というところで、次回に続く。。。紙芝居に夢中になるように、みんな楽しんでたんでしょうね。第一部ではまだ控えめですが随所に特殊効果も使われたりしていて。 第二部、いかなる展開が待ち受けるか?
[インターネット(邦画)] 5点(2024-10-14 07:56:13)
20.  続・拝啓天皇陛下様
前作同様に軍隊ラッパから映画が始まって、え、時間逆戻り? これってタイムリープものだったの? もちろんそんな訳はありませんが、そう考えたけりゃ、それもあり。純朴なる前作の主人公が送ったかもしれない別の人生。しかし、前作から少しモジっただけの主人公の名前は、その匿名性も表している訳で、あくまで様々な人生の一つに過ぎないんだよ、と。 渥美清の顔立ちが「匿名性」を表しうるかというと、そこはちょっと自信ありませんが・・・。 前作では長門裕之の目を通して主人公が描かれていたのに対し(どんなに久しぶりであっても当たり前のように姿を現すのが面白い)、今回は淡々としたナレーターの語りが入り、やや愛想が無い印象ですが、二番煎じを避けようという工夫でもあるのでしょう。軍隊時代以来の二人の友情、というところから視点を大きく変えて、主人公が友情や愛情をはぐくむ相手は、軍用犬であったり、外国人であったり、障がい者と言えるかもしれない「ケイコ」であったり。弱い立場の者たちへと視線が向けられています。 前作から視野が広がっているとも言える反面、若干、作為的に感じてしまうのは、脚本に山田洋次が加わったことと関係しているのか、どうなのか。 夕日を背景に、死んだ兵士の棺をかついで行軍する姿を遠景に捉えた描写、こういうのは、ハリウッド映画にも負けてないんじゃなかろうか。
[インターネット(邦画)] 7点(2024-10-13 08:11:39)
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