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プロフィール
コメント数 2647
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 44歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ファーストキス 1ST KISS(2025)
自分自身、結婚をして丸々15年が経過した。主人公たちの年齢設定や結婚生活の期間は、ほぼ自分の現在地点と重なり、“夫婦ドラマ”としてとても感情移入しやすかった。 この映画の主人公たちほどは、自分たちの夫婦関係はすれ違っていないつもりではあるけれど、彼らが織りなすその関係性の変化とそれに伴う悲喜劇は、それでもダイレクトに突き刺さる部分が多かった。  こんな悲しみや苦痛を背負うくらいなら、むしろ最初から出会わなければ良かったのに、という思いは、その程度は様々だろうけれど、きっと世界中の“夫婦”が必ず抱えるジレンマだろう。  松たか子演じる主人公は、「離婚」をするその日に夫を亡くし、様々な感情の行場を見失ったまま、虚無な日々を過ごしていた。 すでに心が離れていた夫の死を悲しんでいるのか、それとも離婚できぬまま“夫婦関係”を続けざるを得なくなってしまったことに苛立っているのか、彼女自身その心情の“正体”を見いだせず、静かな絶望を抱えているように見えた。  そんな折、3年待った取り寄せ餃子をものの見事に焦がしてしまったことで、この世界の堰が、文字通りに崩れ落ちる。そして彼女は、夫と出会った15年前の夏の日をループする――――。  15年後の夫の死(列車事故)を回避するために、主人公が画策するあれやこれがとても間が抜けていて面白い。 肉屋に立ち寄らせないために若き夫をコロッケ嫌いにさせようとしたり、本屋に予約していた学術書を未来から持ってきて混乱を招いたり、緊急停止ボタンの存在を刷り込んで別の大惨事が起こる未来を生み出しそうになったりと、彼女は奔走するけれど、どれも上手くいかない。  幾度もタイムリープを繰り返し、途方に暮れる主人公は、ある決意にたどり着く。 そう、そもそも結婚なんてしなければいいのだ、と。  15年後の妻と15年前の夫が、繰り返し紡ぐ数時間のラブストーリーは、とても眩くて、ユニークだった。 他愛もない会話劇で上質なドラマを創出している点においては、「最高の離婚」「大豆田とわ子と三人の元夫」等数々の名作夫婦劇を生み出してきた坂元裕二ならではの作劇だったと思う。 主演の松たか子は、「大豆田とわ子と三人の元夫」でもそうだったように、阿吽の呼吸で坂元裕二が生み出したキャラクター像を体現し、魅力的な存在感を放ち続けていた。  その一方で、タイムリープものとしてはいささか詰めの甘さが目立っていたようにも思える。 そもそも主人公が15年前にタイムスリップしてしまう経緯がとても強引だし、その後本人の意思で簡単に時間移動を行えてしまうストーリー展開は流石にチープすぎやしないか。 また、タイムリープを行っている主人公は15年前の夫との“デート”を繰り返しているわけなので彼に対しての距離感が縮まっていくことに理解できるけれど、反対に松村北斗演じる若き夫は、常に初対面なわけであり、双方の距離の縮まり方に違和感を禁じ得なかった。 最後の“告白”後のくだりも、いくら学者の卵とはいえ理解が速すぎないかと思わざるを得ないし、そのまま恋に落ちるというのは、ラブストーリーとしてもややチープに感じた。  若き夫が真相を知るクライマックスの展開についても、あまりにも直球過ぎたなと感じる。 自らの未来の悲劇を、あれほどダイレクトに説明されて、それでもその未来に突き進んでいくというのは、流石に非人間的ではないか。 彼が真相に触れる経緯については、主人公が落とした“付箋”のみで薄っすらと感づく程度に留めたほうが良かったのではないかと思う。 自らの死を頭の片隅では感じ取りつつも、それでも眼の前に現れた愛しき人と過ごす時間を選ぶ。そういうバランスのほうが、この映画が描き出した“夫婦愛”がもっと際立ち、映画的なマジックも生まれたのではないか。   ただし、それでもこの映画が坂元裕二ならではの会話劇と夫婦劇で、作品としての品質を保っていることは間違いない。 結局、“未来”は変えられなかったけれど、主人公の奔走により、15年間の夫婦生活は幸福なものになった。それは決して現実を歪曲したわけではなくて、この映画の妻と夫が、本来歩むはずだった生活を取り戻したという帰着だったのだと思う。  夫の死をちゃんと悲しみ、ちゃんと泣くことができた日、取り寄せ餃子が届く。 今度の餃子はきっと上手く焼けたに違いない。
[映画館(邦画)] 7点(2025-03-02 23:17:10)
2.  しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜
人気アニメシリーズやゲームの“3Dアニメ化”という企画がしばしば実現し公開されるが、「その需要は一体どこにあるのだろう?」と、非常に懐疑的に思う。  多くの場合、慣れ親しんだアニメのビジュアルに対して、3D化されたキャラクターの造形にまず違和感を覚え、それはすぐに嫌悪感や気味悪さにまで発展することが多い。まともに鑑賞していないが、「STAND BY ME ドラえもん」などはその最たる例だろう。  そんなわけで、「クレヨンしんちゃん」の3Dアニメ化である本作も、まったく観るつもりは無かったのだけれど、ある休日の午後、暇を持て余した小4の息子がリビングで観始めたので、仕方なく遠目で鑑賞した。  結果的に、懸念していた3Dアニメに対する違和感や嫌悪感を覚えるには至らなかった。なぜなら、3Dアニメの造形に、オリジナルのアニメのキャラクター造形と比較して、それほど大きな差異が無かったからだろう。 無論、声優陣も同一なので、3Dアニメを観ているという感覚自体が薄かったように思う。  が、それならば、ということである。 それならば、何も3Dアニメにする意味があったのか?ということであり、詰まるところ「誰得?」という印象に着地する。 “超能力”を題材にして、ファンタジックでスペクタクルなストーリー展開は用意されていたけれど、元々「クレヨンしんちゃん」映画といえば、映画ならではのエキサイティングな世界観を展開させることが売りでもあるので、特に今作のみが特筆してエンターテイメント性が高まっているというわけでも無かった。  確かにクライマックスにおける、“特撮的対決”シーンには、3Dによる立体感やダイナミックなカメラアングルが効果を発していたのかもしれない。 でも、その点においても、クレしん映画においては、縦横無尽なアニメーション表現によりエキサイティングなアクションやアドベンチャーを創出し続けているので、特別さを感じるには至らなかった。  むしろ、3Dアニメ化による“労力”が通常よりも嵩んでいるのか、他作よりもストーリーテリングにおいては平坦で類型的だったと感じざるを得なかった。  監督は、Netflixドラマ「地面師たち」の記憶も新しい大根仁。 ラブコメからシリアス、アニメまで守備範囲の広さは、堤幸彦や秋元康のもとでキャリアを積んだこの監督ならではの特性であろう。 ただその一方で、ある種の節操の無さや、各作品における拭い去れない軽薄さみたいなものも、しっかりと受け継いでいるなあと感じる。
[インターネット(邦画)] 4点(2025-02-15 08:15:57)
3.  愛にイナズマ
とてもバランスが悪くて、本当に伝えたいメッセージを上手くは表現しきれていない映画。でも、愛さずにはいられない映画。
[インターネット(邦画)] 8点(2025-02-08 09:27:27)
4.  ヘルドッグス
長らく韓国映画に後塵を拝していたバイオレンスアクションにおいて、負けずとも劣らない快作。
[インターネット(邦画)] 8点(2025-01-03 23:53:01)
5.  男はつらいよ 純情篇
元日。今年の正月は諸々の理由から親族との新年会が控えめだったため、午後から映画を観始めた。
3年連続で新年一発目は“寅さん”でスタート。三が日特有の空気感と正月モードの思考状態に、「男はつらいよ」が織りなす人情喜劇は、時代を越え、この国の人々の心にぴたりと合う。  長崎の五島列島に渡っていた寅次郎が、ふと郷愁の念に駆られ、故郷浅草柴又に舞い戻る。毎度お決まりの展開ではあるが、寅さんの行方を心配しつつ、同時に彼の帰郷に戦々恐々とする“とらや”の面々の右往左往が面白い。 個人的には、渥美清演じる主人公以上に、森川信演じる“おいちゃん”や、三崎千恵子演じる“おばちゃん”、太宰久雄演じる“タコ社長”らの間の抜けた掛け合いが最高に愉快で、「ああ、今年もとらやに帰ってきたな」と、鑑賞作品6作目にして感じるようになった。  本作のメインストーリーでは、とある事情で“とらや”に下宿する美人人妻(若尾文子)に、例によって寅さんが一目惚れし、トラブルを巻き起こすという、これまたお決まりのパターン。
お決まりの展開自体は良いのだが、本作のマドンナに関わる描写は、少々おざなりだったように思う。売れない小説家の夫に辟易して家を飛び出し、結局何の解決も得られないまま、少々横柄な態度で迎えに来た夫に説得されて帰っていく様子は、仕方がないとはいえ前時代的で、溜飲が下がらない思いだった。 
それを見送る“さくら”の神妙な面持ちが表すように、「我を貫けない時代性」こそが、このエピソードが描き出したかったテーマなのかもしれない。しかし、それにしても描き方が類型的で面白みに欠けていた。
「妻は告白する」など、日本映画史を彩る大女優の一人である若尾文子がマドンナ役だっただけに、少し残念だった。  一方で、本作の人情物語要素を補い救っているのは、ある父娘によるオープニングとエピローグであろう。
子を抱えて家に戻ってきた家出娘を宮本信子が演じ、漁村で宿を営む年老いた父親を森繁久彌が演じている。
 数年ぶりに戻ってきた娘に対して、心の中では彼女の無事と生まれた孫の存在を愛おしく思いつつ、娘のこれからの人生を考え、あえて厳しく叱る父親の哀愁が印象的だった。
彼らのシークエンスがエピローグにも描き出され、本作が伝えたかったであろう人間関係や家族関係にまつわるテーマが、感動とともにしっかりと帰着している。
メインストーリーのマドンナ像が軽薄な印象だったため、むしろこの父娘のエピソードを主軸に描いたほうが良かったのではないかとさえ思えた。  ともあれ、2025年も寅さんと共に映画ライフがスタート。今年は、悲喜こもごものバラエティーに富んだラインナップを観ていこうと思う。
[インターネット(邦画)] 7点(2025-01-03 23:50:22)
6.  蜘蛛巣城
今年(2024年)は、日本の時代劇文化にとっては分岐点となり得る一年だった。 何と言っても最大のトピックスは、アメリカで真田広之が手掛けたドラマシリーズ「SHOGUN 将軍」が、エミー賞受賞をはじめ世界を席巻したことだろう。勿論、「SHOGUN 将軍」自体は日本産の時代劇ではないけれど、“時代劇”を経て俳優として大成した真田広之が、多大な熱量とこだわりをもって創り上げた作品が、国境も時代も越えて、人々の心を掴んだことは、やはり“時代劇”としての快挙だと思う。 一方日本国内でも、「十一人の賊軍」や、未見だけれど「侍タイムスリッパー」など意欲的な時代劇作品が制作され、評価を得ていることは、長年新旧の“時代劇”を好んで鑑賞してきた一映画ファンとしても嬉しい。  そんな折、秋深まる深夜、古い時代劇を観ようと、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」に行き着く。 ウィリアム・シェイクスピアの「マクベス」を、日本の時代劇に置き換えた本作は、まさにシェイクスピアの舞台劇そのものだった。(まあ、シェイクスピアの舞台なんて観たコトはないけど) 自然風景の描写の中を舞台劇のように幾度も行き交う演出や、三船敏郎をはじめとする俳優たちの意図的なオーバーアクトがとても印象的だった。独特のテンションやリズムは、強烈な違和感として観る者を引き付け、物語の主人公同様に異世界への引き込まれたような感覚に陥った。  三船敏郎演じる鷲津と、その妻・浅茅を演じる山田五十鈴が、掛け合うシーンは特に舞台劇のようであり、「能」の表現を取り入れた演出も融合し、異様な空気感を醸し出していた。 なかでも、山田五十鈴の風貌と演技が「奇怪」そのものであり、彼女の強硬な野心を秘めた助言と誘導が、主人公を破滅へと導く展開がとても不気味だった。  黒澤明監督らしい、自然のロケーションを最大限に用いて映し出される映像世界は、モノクロの古い映像でもありながらもその優雅さと豪華さを存分に感じさせる。 白眉だったのは、三船敏郎演じる主人公らが山林を馬で駆け巡るシーン。雨、風、霧といった自然的要素を画面の中に躊躇なく盛り込み、人物の心理を巧みに表現すると共に、当時の撮影技術の高さと俳優たちの力量を如実に感じさせてくれる。  ただし、その一方で、場面展開が鈍重で、深夜帯の鑑賞時間において瞼が重くなってしまったことも否定できない。 黒澤明らしい唯我独尊的な自然描写や独特な空気感が、ストーリー展開の停滞として感じてしまったのだろう。自分自身、もう少し体調も含めて鑑賞環境を整えて鑑賞すべきだったなと反省している。  とはいえ、“時代劇”の復権の兆しは嬉しい限りだ。今の時代に日本国内のみで、黒澤作品レベルの潤沢な製作環境を得ることは難しいだろう。しかい、逆に今の時代だからこそ、真田広之が成し遂げたように、海外資本を上手く利用して理想を実現するプロセスがあることも事実だと思う。 熱量に溢れた“時代劇”が再び量産されることを望まずにはいられない。
[インターネット(邦画)] 6点(2024-11-25 21:51:47)(良:1票)
7.  十一人の賊軍
「とても良いから、とても惜しい」というのが、鑑賞後、一定の満足感と共に生じた本音だ。  幕末という時代を背景に、小藩や中間管理職の悲哀と狂気、そして崩壊寸前の武家社会の愚かさを描いた本作は、久しぶりにエネルギッシュな娯楽時代劇を観たという満足感を与えてくれた。 本作の物語に描かれる群像劇は時代劇の枠を超え、現代社会の多様な人間関係や、あらゆる組織構造、さらには現在進行中の国際的な軋轢の数々とも重なる。 どの選択肢を選んだとしても、誰かにとっては「地獄」となるというジレンマは、どの時代においても普遍的であり、すべての人間が完全に満足する世界は存在しないという現実を改めて突きつけてくる。  物語構造上、十一人の罪人たちは絶体絶命の苦境を乗り越え、「生」を見出そうとする英雄のように描かれている。しかし、これは人間社会における狭小な一側面に過ぎない。 復讐のため冒頭で主人公にあっさり殺される侍や、砦を攻める倒幕軍の兵士たちにも、それぞれ親や子、家族がいるはずだ。名前もなく散っていくキャラクターたちにも、それぞれの正義や思いがあったことは想像に難くない。  その象徴的な存在が、阿部サダヲ演じる家老・溝口だ。 ストーリー上では悪役として描かれているが、彼の言動のすべては「家老」という職務に準じたものだと言える。確かに彼の謀略や非道な行為の数々は狂気的ではあるが、それも城下を取り仕切る“位”にある侍としては当然の行動だったのだろう。城下での戦を避け、町民から慕われる姿はそれを物語っている。 町民らに向けて乾いた笑顔を見せた後に訪れる彼自身の最大の「悲劇」が、この男が背負っていた中間管理職としての苦悩を何よりも雄弁に物語っていたと思う。  また、山田孝之や仲野太賀をはじめとする“賊軍”の面々を演じた俳優陣のパフォーマンスも見事だった。彼らは一面的なヒーローとしてではなく、それぞれが抱える罪や愚かさ、悲しみを通じて、社会とそこに巣食う人間の本質を体現していた。このアプローチが、本作の奥行きを大きく広げ、娯楽性に深みをもたらしていたと思う。  だからこそ「惜しい」と思うのだ。 映画全体に漂うエネルギー、現代にも通じる物語性、俳優たちの見事な演技、そして的確な演出力が光るだけに、一人ひとりのキャラクターに対する描き込みがもっと深ければ、さらに印象的な作品になったはずだ。 特に賊軍のキャラクターたちの背景描写が物足りなかったように感じた。 それぞれがとても人間臭く、魅力的な存在感を放っていたからこそ、彼らがどのようなバックグラウンドを経て、あの牢の中に閉じ込められていたのか。そのドラマ性がもう少し丁寧に描きこまれていたならば、彼ら最後に放つ命の灯火、その熱さと輝きが、さらに深く刻まれたことだろう。
[映画館(邦画)] 8点(2024-11-16 17:25:05)
8.  ルックバック
わずか58分という短い尺に凝縮された青春の輝き、そしてクリエイターとして生きることの覚悟と矜持。喜びの苦悩が入り交じる狂気の世界で、光と闇は共存し、互いがその輪郭を際立たせるために存在していることを雄弁に伝える極めて濃い58分間。 Amazonプライムで配信されたばかりの本作を満を持して観て、思わず2回連続で鑑賞してしまった。初めの58分間では整理がつかなかった、というよりも、作品世界から抜け出せず“ループ”してしまったという感覚が強い。  この夏、劇場での鑑賞を見送ってしまったことを激しく後悔した。しかし、その一方で、配信鑑賞だからこそ衝動的に2周目の鑑賞に至れたことも、また幸福だったと思える。 映画を観終えた深夜、感情の整理が追いつかぬまま、手中のスマホで原作漫画を注文した。そして、原作を読んで、この映画がなぜ58分という短い時間の中に収められたのか、その意図を深く理解した。 映画世界同様、漫画世界もまた、濃縮された密度とソリッドな描写で構成された表現だった。このタイトな映画が、原作漫画が伝える物語と、登場人物たちの心象風景を丁寧に汲み取り、そのすべてを表現しきったものであったことを、思い知った。  雪深い田舎町で出会った二人の若きクリエイター(藤野と京本)が、小さな世界の中で互いに肩を寄せ合い、互いの才能を補い伸ばし合い、広い世界への「道」を開いていく様は、藤子不二雄Aの「まんが道」を彷彿とさせる。この物語は、令和の時代に生まれたもう一つの「まんが道」とも言えるだろう。 短くシンプルな物語でありながら、その解釈や捉え方、揺れ動く感情の在り方は、無限に広がる。きっと鑑賞者一人ひとりの経験や価値観、生きてきた時代や環境、その他その人を象る様々な要因によって、この映画や彼女たちから受ける心象は大きく変わるだろう。  初鑑賞から一週間が経ち、私自身の感情においても様々な思いが駆け巡り、今なお作品世界から抜け出しきれずにいる。 あくまでも現時点で、私の心の中で帰着したものは、本作の作者自身の根幹に存在するのであろうクリエイターとしての覚悟、漫画家としての矜持だった。  作中でプロ漫画家となった主人公(藤野)は、掛け替えのないかつてのパートナー(京本)の喪失に伴い、多大な罪悪感に苛まれると同時に、クリエイターとしての存在意義を見失いそうになる。 そんな藤野の元に、異なる世界線から送られてきた一つの4コマ漫画が届く。それは、これまで“ストーリー”を紡ぎ出すことはなかった京本が、初めて生み出した“ストーリー”だった。 そのまるで自分自身の漫画の作風を模したような軽妙な4コマ漫画『背中を見て』が伝えるものは、本当は代わりなんて存在するはずものなかったかつてのパートナーからのメッセージであり、同時にこれからも生き続け、描き続けなければならない自分自身への叱咤でもあったように見えた。  小学校の卒業式のあの日、もし彼女の部屋の前まで行かなければ、思いつきのまま4コマ漫画を描いたりしなければ……。 主人公の部屋に飾られていた映画「バタフライ・エフェクト」のポスターが象徴するかのように、「もしあのときこうしていたら」という悔恨は尽きない。  それでも、それでもだ。 辛いことも、苦しいことも、悲しいことも、そのすべてを“糧”にしろ、そして“ネタ”にしろ。 「そして、どうか、どうか藤野ちゃんの漫画を描き続けて」 そんな京本の声が聞こえてくるようだった。  空白の4コマを窓に貼り付け、狂気の世界で、再び終わりなき創作活動に向き合う主人公の背中には、そんな声なき声に対する、プロ漫画家としての覚悟が滲み出ていた。    自室から抜け出せず、唯一絵を描き続けることでしかアイデンティティを見出だせなかった少女時代の京本にとって、ふいに届いた4コマ漫画は“救い”であり、それを生み出していた同級生の作者は、紛うことなき「神様」だった。 彼女は、最初から最後までその背中を見続け、世界を広げ、幸福な時間を生きた。(絶対にそうだと信じたい) 冒頭とラストにおいて、時間をかけて映し出される主人公の背中を“見続ける”カットは、彼女の視線そのものだったのかもしれない。
[インターネット(邦画)] 10点(2024-11-16 07:16:06)
9.  がんばっていきまっしょい(2024)
愛媛県松山市出身・在住の者としては、やはり「がんばっていきまっしょい」という作品はちょっと特別だった。 少女たちの人間模様にしても、彼女たちがたたずむ風景にしても、決して何か劇的なものが映し出されるわけではないけれど、自分たちが住んでいる街は「ああ、ちょっと良いんだな」と、思い出させてくれる。 すごく良いわけではないけれど、ちょっと良い。それは、“この街”の性質そのものをよくあらわしている。  思い出されるのは、1998年に公開された実写映画版だろう。 僕自身が高校生時分だったこともあり、主演の田中麗奈のフレッシュさも手伝って、とても瑞々しくて、愛らしい作品だった。 この映画が、その後の「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」、「シムソンズ」、「ちはやふる」など、マイナースポーツの運動部や文化部を題材にした青春映画の系譜に繋がっていることからも、存在感のある作品だったと思う。  そしてこのアニメ映画化。題材的にも、映し出されるビジュアル的にも、アニメーション化に相応しいものであることを容易に想像できる。むしろ今の今までアニメ化されていなかったことが不思議に思える。 舞台設定を現代に変え、秀麗なアニメーションで映し出された映画世界は、やはり瑞々しく、画面から爽やかな風が吹き抜けるようだった。  原作の世界観や、実写映画の系譜を踏まえた真っ当なアニメ映画だったとは思う。ただ、これはもはや個人的な趣味嗜好によるところが大きいが、CGアニメーションの“タイプ”が好みではなく、その部分がどうしても世界観にのめり込めない要因となってしまった。  とはいえ、前述の通りこの街の在住者としては「嬉しい」映画作品であることは間違いない。 今週末は、久しぶりに、あのきらめく水面を見に行こうと思う。
[試写会(邦画)] 6点(2024-10-27 15:25:31)
10.  ゴールデンカムイ
「ゴールデンカムイ」は、今年原作漫画を“大人買い”した作品の一つ。 もちろん、数年前からその独自性とスペクタクルな世界観についての評判はよく聞いていたのだが、例によってふと読み始めた漫画アプリの無料配信分にドハマリしてしまった。 漫画表現ならではの緊張と緩和、バイオレンスとグルメ(和み)、そして明治時代末期の北海道を舞台にした歴史観と冒険譚のバランスが絶妙で、抜群の娯楽性を創出していると思う。  私は、映画好きであるが、それと双璧を成す漫画好きでもあるので、漫画の映画化が必ずしも幸福に至らないことをよく知っている。いやむしろ、漫画作品としての完成度高まれば高まるほど、その映画化の辿り着く先は「地獄」であることが必然であろう。 だから、この手の漫画の映画化作品は、基本的に観ないようにしている。  それでも、そんな私を本作の鑑賞に至らしめた要因は、何と言っても実写化におけるキャラクターの造形力だ。原作の極めて“マンガ的”なキャラクターたちを、過不足無く、そして違和感無く、見事にクリエイトしていると思えた。 実際に鑑賞してみると、一人ひとりのキャラクターのヘアメイクや衣装の極めて高い精度が、本作の最大の成功要因であることがよく分かる。  そして演者たちも、制作スタッフたちの高い技術力に呼応するように、原作を読み込み、リスペクトした上でのキャラクター造形に努めていたと思う。 不安だったのは、主人公である“不死身の杉元”と“アイヌの少女アシㇼパ”を演じた、山崎賢人と山田杏奈だったのだが、この二人のキャラクターへのフィット感が、個人的な想定を大いに越えて良かった。 特に“アシㇼパ”は、原作漫画ではもっと見た目にもわかりやすく「少女」なので、大人の女優が演じる以上、違和感は禁じ得ないと思っていたが、演じた山田杏奈はそんな印象をほぼ感じさせず見事に演じきっていた。  本作全体の白眉なポイントでもあるが、この漫画に無くてはならない“グルメ描写”を丁寧にちゃんと映し出し、山田杏奈演じるアシㇼパの「ヒンナヒンナ」を多幸感溢れる“和み”と共に表現しきったことが、何よりも素晴らしかったと思う。(エンドクレジット中の“オソマ”入り鍋を食べるシーンなど最高じゃないか!)  あとは、過去最高の怪演を見せる玉木宏をはじめ、金塊争奪戦の群像を彩る各キャラクターたちの造形と表現もみな原作ファン納得の仕上がりだった。 これからの展開に登場するありとあらゆるキャラクターたちのクリエイトも当然期待できる。  が、個性豊かな囚人たちが続々登場する“囚人争奪編”は、なんとWOWOWドラマ化とな。 憎らしいくらいに“上手い”戦略に、WOWOW再加入を悩み始める今日このごろなのは言うまでもない。(桜井ユキ扮する家永が見たすぎる)
[インターネット(邦画)] 7点(2024-10-20 09:49:56)
11.  ヤクザと家族 The Family
「任侠映画」から、「Vシネ」そして「ドキュメンタリー」へ。アスペクト比の切り替わりは、そのままこの映画が描き出す“ヤクザ”の実態を丸裸にしてくようだった。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-10-13 00:45:26)
12.  ある男
“主人公”という概念に対する本作のミスリードを感じ取ったとき、途端にこの物語が持つ本質に引き込まれた。 “ある男”とは、結果として誰を指すタイトルだったのか。ラストの短いシークエンスでそれをあぶり出す本作の試みは、とても興味深く、とても感慨深かった。  鬱積した現代社会に関わらず、人間が織りなす社会に巣食う私たちは、少なからず何かを偽って、「自分」という仮面を被って生きている。 家庭人の仮面、仕事人の仮面、社会人の仮面、モラリストの仮面……、自らが築いた環境、または流れ着いた環境を保持し、必死にしがみつくように人は「仮面」を被り続けている。  結果、他ならぬ自分自身が、己の本当の「顔」を見失う。  本作で象徴的に映し出される“ルネ・マグリット”の絵画「複製禁止」は、そういう人間たちの愚かさを如実に表すものだったのだろうと思う。   石川慶監督の独特の映画の空気感と“間”の中で、安定感のあるキャスト陣がそれぞれ人間の脆さと弱さ、それでもなんとか存在し続けようとする人間の根幹的な執念のようなものを表現していた。 中でもやはり印象的だったのは、ストーリーがかなり進んでからようやく登場する“主人公”を演じた妻夫木聡だろう。  本作は安藤サクラ演じる未亡人の亡き夫(窪田正孝)の偽られた「正体」を、妻夫木聡演じる弁護士の男が追い求めるストーリーであるが、実のところあらわになるものは謎の男(=X)の正体ではなかった。 Xに対する追究、探訪を通じて、隠し秘め続けていた主人公のアイデンティティが丸裸にされていく。まさに“ルネ・マグリット”の絵画のように、見えている男の背中は、他のだれでもなく自分自身の背中だった。 妻夫木聡は、絶妙な人間的な希薄さと違和感を見事に表現して、その主人公像を創造し、演じきっていたと思う。   実は、主人公の弁護士は、謎の男Xの追究を始めるずっと前から、自身の「仮面」と直視できない本当の「顔」に気づいている。 すなわち、この映画を通じて本当に気付かされるのは、それ(ある男)を観ている私たち観客の“後ろ姿”だったのだと思う。 今この瞬間も、自分自身の後ろ姿を見続ける、決して相対することのない本当の自分が存在しているのかも知れない。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-10-13 00:42:47)
13.  ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ
ふと気がつくと、自分のSNSのタイムライン上には、本作の公式アカウントや、主演女優たちの投稿、そして“彼女たち”のファンのリポストが溢れていた。 能動性と受動性が相まったその情報の流入状態は、まさに“推し活”時のそれであり、「ああ、そうか」と気づく。“ちさまひ”は、既に私の“推し”なのだなと。  これまで、アイドルに対する“推し活”は経験していたけれど、映画やアニメや漫画の作品に登場するキャラクターを“推し”とする「感覚」が今ひとつよく分からなかった。 演じている俳優や声優の“ファン”ということであれば分かりやすいけれど、実在しない架空のキャラクターに対して、尊び、応援するという「状態」がピンときていなかったのだと思う。  のだが、本シリーズ3作目を喜び勇んで劇場鑑賞して、ようやくその「感覚」と「状態」を自分自身のものとして実感した。 作品自体も国産アクション映画として充分すぎる程に面白かったのだが、それ以上に、主人公である“杉本ちさと”と“深川まひろ”の言動そのものが愛おしくて尊かった。ネットスラングで言うところのまさに“てぇてぇ”を、自身の声として初めて発したくなった。  この映画シリーズの世界観らしく、ストーリー展開は良くも悪くもグダグダでユルユルなのだけれど、そんな世界観の中で、二人の女子殺し屋コンビがひたすらにキャッキャとふざけ合い、そしてひたすらに真剣に殺し合うという究極のアンバランスが、“刺激的”を越えてもはや心地いい。  無論そこには、両主演の女優たちの演者としての表現力と、卓越したアクションが確固たる説得力として存在している。 どこまでが台本通りのなのか分からないダラダラとした会話劇を、その会話の性質のままダラダラと演じてなお、そのダラダラとした空気感に我々観客を引き込むということは、実は普通のことではない。 髙石あかりと伊澤彩織の両女優の相性の良さと、映画世界内外を包括するような“バディ感”がその奇跡的な空気感を創出しているのだと思う。  そして、絶対的なアクション描写。スタント出身の伊澤彩織の体技はもはや言わずもがな。実際のところ、彼女は現時点で国内No.1の“アクション女優”だろう。 真田広之の「SHOGUN」によって時代劇をはじめとする日本の娯楽映画文化に注目が集まっている今、もっとこの国の映画界は“伊澤彩織”という才能を重宝し、世界に打って出るべきだと強く思う。 一方の、狂気性と猟奇性が滲み出る髙石あかりのアクション表現にも益々磨きがかかっていて、本作のアクション映画としての質を更に高めていると思えた。  前作「2ベイビー」では、コメディ要素に偏りすぎた印象が強く、主人公たちの「殺人」描写があまりにも希薄でおざなりだったことが大きなマイナス要因だったのだけれど、本作ではコメディ描写はしっかりと押さえつつ、“殺し”は“殺し”として変な忖度なく描き抜いていることが素晴らしかった。 この奇妙な映画世界の中で「殺し屋」として生きる彼女たちのアンビバレントと、それに伴う“陰と陽”が表現されていたと思う。   また、本作においてもう一つ特筆すべきは、最強の敵役を演じた池松壮亮だろう。 個人的に彼の出演作の演技に対してはどちらかと言うと否定的な印象が多く(「シン・仮面ライダー」を筆頭に……)、本作のキャスティングにも懐疑的だったのだけれど、ズバリ「最高」だった。 陰キャで異常な生真面目さを有する孤独な殺人者のエキセントリックな狂気性を見事に体現していた。きっとこのキャラクター性は、俳優池松壮亮の本質にも合致していたのだろう。伊澤彩織と対峙するアクション性も申し分なく、想像を大いに越えて“ハマり役”だったと思う。   ただ一つ苦言を呈するならば、オープニングクレジットとエンドクレジットをもっと凝ってほしいということ。アバンタイトルからのアガるオープニングクレジットや、映画の余韻を爆上げするエンドクレジットがあれば、本作はもっと推し活冥利に尽きる愛すべき作品になっていたと思う。  映画公開と同時に放映されているテレビドラマ版も含め、コンテンツとしての可能性は益々広がっていると思うので、引き続き精力的に“推し”ていきたい。
[映画館(邦画)] 8点(2024-10-13 00:40:52)
14.  グランツーリスモ
同名の“ゲーム”はプレイしたことはなく、ゲームファン向けに製作されたプロモーション色の強い映画なのだろうと高をくくって、劇場公開時は完全にスルーしていたのだが、ネット界隈の各映画レビューの評価がこぞって高く、気になっていた。 個人的に自宅リビングのテレビを買い替えたので、グレードアップして大きくなった画面での初の映画鑑賞を何にするか思案した結果、本作をチョイス。結果、最適な選択だったと思う。  まず端的な所感としては、想像以上に王道的なスポ根映画であり、レーシング映画だったなと思う。 “ゲームの映画化”という表面的なレッテルを貼ってしまっていたのか、もっとリアリティを度外視したぶっ飛んだ映像表現だったり、破天荒なストーリー展開が繰り広げられるのかと思っていが、しっかりと地に足のついた映画世界が構築されていた。  よく考えてみればそれは至極当然のことで、本作は実際にゲーマーからプロレーサーになった実在の人物ヤン・マーデンボローを描いた作品であり、現実の彼の成功譚をベースにして描いているのだから、リアリティラインが「現実」から逸脱することなく、真っ当に描き出されていたのだと思う。  併せて、ゲームに対して門外漢の僕には、「グランツーリスモ」というゲームの性質そのものに対する無理解が大いにあったのだと思う。 すなわち、このゲームは単なるレーシングゲームではなく、“レーシングシミュレーションゲーム”であるということ。 劇中主人公の台詞でも言及されている通り、このゲームは現実のレースを極限まで追究し、仮想現実に近いゲーム世界を構築していくことで、全世界的な人気シリーズになったということを、レースゲームと言えば「マリオカート」しかやったことがない僕は全く理解していなかった。  この題材自体が、実は極めて現実的で堅実なものだったということを、本作を実際に観てようやく理解した。だからこそ本作はとても王道的で真っ当なスポーツ映画として昇華されていたのだと思う。  また、スポーツ映画としての王道をしっかりと敷いた上で、唯一無二のレーシングシミュレーションゲームの映画化という要素を最大限活かし、映像的にも創意工夫をこらした表現が成されていた。 レース中における主人公や競争相手の車体の位置や順位、ラインをゲーム的に表現し、直感的な分かりやすさを実現したことは、この映画だからこそ可能な映像表現だった。  評判通り、満足度の高いレーシング映画だったとは思う。ただしその一方で、映画ファンとしては一抹の消化不良も残る。 それは本作の監督があのニール・ブロンカンプであるということ。 「第9地区」で一躍世界的成功を収め、その後も良い意味でも悪い意味でもアクの強いSF映画を生み出しているこの映画監督の作品として、本作はあまりにも“フツー”過ぎた。  実話ベースの映画製作において極端な“コースアウト”は無論避けるべきだったのだろうけれど、それでももう少しアクの強いキャラクター造形や、歪なストーリー展開が、この映画監督であればできただろうし、本当は彼自身やりたかったアプローチがあったのではないか。  才気ある映画監督が、スケールアップするキャリアの変遷に伴い、様々なしがらみによって低迷していくことはとても多い。ニール・ブロンカンプ監督がこの先再び自身のアイデンティティを貫く独創的な映画世界を構築できるかどうか、彼自身クリエイターとしての“分岐点”に立っているように感じた。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-09-22 08:32:55)
15.  デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章 《ネタバレ》 
原作漫画の第一巻を購読したは、ちょうど10年前。その後単行本を6巻まで買い進めたところで、購読がストップしていた。そして今年アニメ映画化された本作の「前章」を鑑賞。前章で描かれたストーリー展開は、ほぼ原作で読み進めていたところまでだったが、ラストは映画独自の前倒し展開もあり、「後章」への期待が最大限に高まっていた。 「後章」の鑑賞前に、未読だった単行本の残りを最終巻まで読み切ってしまおうかとも逡巡したけれど、「前章」のアニメ映画としての出来栄えは想像以上に素晴らしかったので、このまま原作漫画の結末を知らぬまま、映画作品としての「後章」を堪能しようと思い至った。  ……実はこの映画レビューを書き始めた時点では、既に単行本を最終巻まで買い揃えて、原作を読み終えている。 そのことを踏まえて、映画「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章」に対する結論をまず言ってしまいたい。  正直、「残念」の一言に尽きる。  アニメーション作品としての全体的なクオリティは、「前章」と同様に精度が高く素晴らしいと言っていい。作画的な素晴らしさは勿論、やっぱり特筆して良かったのは、二人の主人公を演じた幾田りら&あのちゃんの表現力だろう。漫画作品のアニメ化として、そのクリエイティブにおいては間違いなく成功していたと思う。  だからこそである。もう一度言うけれど、「残念」だ。  浅野いにおによる原作漫画を読み終えた後では、この「後章」に対して、「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」の漫画世界を描ききっているとはとてもじゃないが言い難い。 単行本の最終巻(12巻)を読み終えた瞬間、ちょっと整理がつかない「呆然」とした脳裏の中で渦巻いたものは、独創的なSF青春群像劇の帰着に対する充実感と、映画の結末に対する圧倒的な不可解さだった。  映画の結末は原作と異なるということは知っていたし、漫画と映画という性質がことなる媒体において表現方法やアプローチに差異が生じてしまうことはある程度仕方のないことだとは思う。 それにしても、何故、どうして、原作漫画の最終巻をほぼ丸ごとカットしてしまうという「暴挙」に至ってしまったのか。  原作漫画の後半の顛末を未読状態で「後章」を観終えた後も、「ああそういう終わり方なのか」と、いくばくかの尻切れトンボ感はあった。 世界の終末と多元宇宙を描き、大風呂敷を広げたストーリーの収束としては、やはり物足りなかったし、この映画の結末をハッピーエンドと捉えるべきなのか、それともバッドエンドと捉えるべきなのか、とてもモヤモヤした感情が残った。  原作漫画ではもう少し納得のいく結末があるのかもしれないと読破し、前述の「呆然」に至る。 そこにあったのは映画の結末に物足りなかった“ストーリーの収束”どころではなかった。 少女から大人になる“彼女たち”の過程における“ありえたかもしれない未来”、または、“今この現実の裏側に何層にも存在する別の現実”、そのすべてに存在する“彼女たち”の刹那的な輝きが溢れ出していた。 見紛うことなき世界の終末と、一人の少女の中に存在する多元宇宙の中で、無限に広がる彼女たちの絶望と希望に打ちのめされた。 それは、この物語が終始描き連ねてきた醍醐味であり、「見事」と言っていいSF的な帰着だった。   というわけで、原作漫画を読んでしまい、その結末に衝撃を受けてしまった以上、それを「無視」してしまったこの映画を評価するわけにはいかなくなった。 どういう意図や経緯で、「後章」の結末に至ってしまったのか、そうせざるを得なかったのかは知る由もないけれど、もし可能性が少しでもあるのならば、「新章」として原作の結末をこのアニメーションで描ききってほしい。と、切望する。
[映画館(邦画)] 6点(2024-06-02 18:36:00)
16.  シティーハンター(2024)
体現している人物が「冴羽獠」であることを信じて疑わせない鈴木亮平は、奇跡的ですらあった。それは、一般的な漫画の映画化作品における“忠実”とは一線を画していると言っていいくらいに、正真正銘の“実写化”だった。 何がスゴいって、漫画版、アニメ版の両方世界観における「冴羽獠」という架空のキャラクターを統合して一つの人格の中で表現していることだ。  男性でも惚れ惚れするしか無い肉体美を惜しげもなく披露したかと思えば、その“ほぼ全裸”状態のまま、ちょける、はじける。 普通、漫画やアニメの世界のテンションのまま実写版でふざけても、大体の場合は白けるし、失笑を避けられない。 けれど鈴木亮平の“獠ちゃん”は、漫画世界のキャラクター性とテンションそのままに、現実描写を成立させてしまっている。更に驚いたのは、ちょけたシーンの声色がアニメ版の声優・神谷明のそれにそっくりだったことだ。 そこには、実写版を観ていながら、アニメ版や漫画世界の境界線を超えて、三様の「シティーハンター」の世界線が入り混じり、違和感なく共存しているような感覚があった。 無論、真に迫っていたのはコメディシーンばかりではない。 説得力を伴った身体能力による格闘シーンもガンアクションも、世界最高のプロスイーパーである“シティーハンター”を過不足なくクリエイトしていた。  苛烈な過去を背負っている裏社会No.1のスイーパーが醸し出すハードボイルドと、“もっこり”がトレードマークの新宿の種馬という、あまりにも相反する両面のキャラクターを持つ主人公を、これほどまでに説得力を持って演じきれたのは、鈴木亮平という俳優自身が演じてきた役柄の振れ幅の広さに起因するだろう。 「HK 変態仮面」でお下劣なヒーローを演じたかと思えば、「孤狼の血 LEVEL2」では鬼畜の最凶ヤクザを狂気のままに演じきる。彼自身インタビューで語っていた通り、これまで決して型にはまることなくありとあらゆるキャラクターを演じきたことが、本作において圧倒的な説得力を伴った「冴羽獠」に繋がったことは明らかだ。  また「シティーハンター」という作品において、主人公と並んで重要度を持つヒロインであり相棒である「槇村香」を演じた森田望智も素晴らしかったと思う。 彼女は世代的に「シティーハンター」を知らなかったと言うが、おそらくはしっかりと原作やアニメを叩き込んで撮影に臨んだのだろう。ボーイッシュなビジュアルの再現はもちろん、重い荷物を担ぐ仕草だったり、ラストのジャケット&ジーンズ姿のフォルムに至るまで、こちらも鈴木亮平同様に細部に至るまで完璧に「香」を体現していた。 現在放映中の朝ドラ「虎に翼」でも印象的な役柄を好演しており、一躍いま最注目の女優の一人となっている。  兎にも角にも、過去最高に原作愛、アニメ愛に溢れた見事な実写化作品だ。 80年代生まれの生粋の原作ファンとして、ここまでのクリエイティブを見せてくれれば、もう文句は言えない。 まあ唯一注文をつけるとするならば、ラストかエンドクレジット後のカットで、“ラスボス”である「海原神」の存在をシルエット程度でいいので匂わしてほしかった。 要は、それくらい「続編」の存在を明示してほしかったということ。“海坊主”、“ミック・エンジェル”、この実写化で観たいキャラクターはまだまだ沢山いる。自信と確信を持ってシリーズ化してほしい。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-06-02 18:33:31)
17.  劇場版 からかい上手の高木さん
「からかい上手の高木さん」は、原作を長らく漫画アプリで無料で読んでいたのだけれど、四十路を超えた立派なおじさんである私は、次第に二人が織りなす甘酸っぱさと眩しさにたまらなくなってしまい、先日ついに単行本を購入し始めた。  動画配信サービスでも観られるTVアニメシリーズも気になってはいたのだけれど、アニメシリーズを観る習慣があまりないので、スルーしてしまっていた。 この劇場版で同作のアニメーションを初めて観て、瑞々しい二人の日常がアニメで観られる事自体は嬉しかったけれど、世界観の性質上、やはり長編作品には向いていないかもなという印象を覚えた。 原作自体がショートストーリーの連作なので、やっぱりアニメシリーズで展開される方が適していたのだろう。  授業中に教師の目を盗んでコソコソとするやり取り、放課後に一緒に帰る時間、休みの日に偶然出会った束の間、そんな短くて他愛もないささやかな“時間”を、丁寧に描き、連ねているからこそ、原作漫画は、何にも代え難い“価値”を創出しているのだと思う。  私自身の中学生時代に、彼らのようなキュートな記憶は無いはずだけれど、それでも遥か遠くに過ぎ去った大切な時間に思いをめぐらし、高木さんの“からかい”に対して西片目線でドギマギするのも悪くない。
[インターネット(邦画)] 5点(2024-04-28 23:39:41)
18.  名探偵コナン 紺青の拳
相変わらずというかなんというか、繰り広げられる事件、アクション、サスペンス、すべてにおいて「なんだそりゃ…」の連続。娘と二人で観ながら、終始ツッコミっぱなしだった。  映画作品に限らず、原作漫画の展開ももれなくそうだが、「名探偵コナン」というコンテンツは、もはやミステリーを楽しむものではなく、半笑いのツッコミを放ち続け、観終わった後もそれを共有した人たちと「いやーひどかったなあ」と言い合うまでが“セット”の娯楽なんだろう。  本作はシンガポールが舞台だが、例によって大仰なスペクタクル展開によって観光の象徴たるマリナーベイ・サンズがほぼ「崩壊」する。 最近では、映画の舞台に選ばれた街が、その崩壊を含めて観光PRとして歓迎しているフシすらある。 映画シリーズとしての品質はまったく評価できないけれど、1997年から劇場版を公開し続け、2コロナ禍真っ只中の2020年のただ一回を除いて、27作も連ねてきたことは純粋にスゴいと思う。  なんだかんだ言って単行本は全巻揃えているくせに、今までは積極的にコナン映画を避け続けてきたけれど、改めて“ツッコミ映画”として観ていこうかなとも思ったり思わなかったり。
[地上波(邦画)] 3点(2024-04-14 15:21:10)
19.  デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章
多様性という言葉のみが先行して、それを受け入れるための社会の成熟を成さぬまま、問題意識ばかりが蔓延する現代社会において、私たちは、いつしか見なければならない現実から目を背け、まるで気にもかけないように見えないふりをしている。 空に街を覆い隠すような巨大円盤が浮かんでいたって、仕事が大事、受験が大事、友情が大事、恋が大事、体裁やステータスが大事と、問題をすげ替える。 このアニメ映画は、本当は直視しなければならない「日常」の中に潜む「非日常」を、具現化して、切実に茶化して、女子高生たちを中心にした群像劇に落とし込む“くそやばい!”寓話だ。   今だからこそ多少ジョーク混じりに「闇落ちしていた」なんて思い出せるけれど、20代の私は諸々の環境が辛くてしんどくて、滅入っていた。専門学校を卒業して、フリーターを経て、ニートじみた時間を過ごして、ようやく就職した営業職に辟易とした日々を送っていた。 そんな折、いつも傍らにあったのは、浅野いにおの漫画だった。  「素晴らしい世界」「ひかりのまち」「ソラニン」「虹ヶ原ホログラフ」「世界の終わりと夜明け前」……と彼の作品はほぼ読んできた。 漫画作品としての面白さももちろん堪能していたけれど、特にその当時の私のフェイバリットになった「理由」は、同世代の作家が生み出してくれた「共感性」だったのではないかと、20年たった今思える。 自分と同じ20代の漫画家が、己の人生や社会に対する鬱積やジレンマを吐き出すように、そしてその先に一抹の光や希望を必死に求めるように、生々しく創造された漫画世界に、共感せずにはいられなかった。   そんな浅野いにお作品の初のアニメ映画化。そりゃあ観ないわけにはいられない。  「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」は、単行本を買っているけれど、途中で購入がストップしてしまっていた。(作品自体は非情に面白く、無論好きな世界観なのだが、ここ数年漫画本を購入する行為自体がすっかり消極的になってしまい、本屋に行かなくなってしまったことが最たる要因だろう) 既に完結している原作を読まずして、本作を観るのはいかがなものかとも逡巡したけれど、前章・後章構成ということもあり、とりあえず前章の鑑賞に至った。  原作ファンとしての警戒心はもちろんあったけれど、この前章を観る限りでは、ものすごく見事なアニメ映画に仕上がっていたと思える。 物語的には、おそらくは全体のストーリーの序盤から中盤に差し掛かるくらいの地点で終了してしまうので、尻切れトンボ感は拭えないが、それでもこの先何が起こるのかというワクワクドキドキは十二分に表現されていた。 何よりも、漫画世界の中で、特異なテンションと表情で悲喜こもごもの感情を爆発させていたキャラクターたちが、アニメーションの中でとても魅力的に躍動していたことが、素晴らしかったと思う。 主人公二人の声を演じた幾田りら&あのちゃんも、素晴らしい表現力と存在感で、門出とおんたんに息を吹き込んでいた。  この映画のストーリーが「後章」でどんな結実を見せるのか、まったくもって予想できないけれど、こうなればこのまま映画で結末を迎えたあとに、残りの単行本を買い揃えようと思う。 もちろん今も私の背後の本棚の一番近い段には、浅野いにおの作品が並んでいる。「後章」公開までは、保有済みの「デデデ」を読み返しながら、はにゃにゃフワーッと待つとしよう。
[映画館(邦画)] 8点(2024-04-09 20:37:57)
20.  アルキメデスの大戦
結論から言うと、とても面白い映画だった。 太平洋戦争開戦前の旧日本海軍における兵器開発をめぐる政治的攻防が、事実と虚構を織り交ぜながら娯楽性豊かに描き出される。 若き天才数学者が、軍人同士の喧々諤々の中に半ば無理矢理に引き込まれ、運命を狂わされていく。 いや、狂わされていくというのはいささか語弊があるかもしれない。主人公の数学者は、戦艦の建造費算出という任務にのめり込む連れ、次第に自らの数字に対する偏執的な思考性と美学をより一層に開眼させていく。そこには、天才数学者の或る種の「狂気」が確実に存在していた。  一方、旧日本海軍側の軍人たちにおいても、多様な「狂気」が無論蔓延っている。 旧時代的な威信と誇りを大義名分とし、戦争という破滅へと突き進んでいくかの時代の軍部は、その在り方そのものが狂気の極みであったことは、もはや言うまでもない。 強大で美しい戦艦の新造というまやかしの国威によって、兵や国民を無謀な戦争へと突き動かそうとする戦艦推進派の面々も狂気的だし、それに対立して、航空母艦の拡充によって航空戦に備えようとする劇中の山本五十六も軍人の狂気を孕んでいた。  数学者の狂気と、軍人の狂気が、ぶつかりそして入り交じる。  史実として太平洋戦争史が存在する以上、本作の主題である戦艦大和の建造とその末路は、揺るがない“結果”の筈だが、それでも先を読ませず、ミスリードや新解釈も含めながら展開するストーリーテリングが極めて興味深く娯楽性に富んでいた。 避けられない運命に対して、天才数学者のキャラクター創造による完全なフィクションに逃げることなく、彼自身の狂気性と軍人たちの狂気性の葛藤で物語を紡いでみせたことが、本作最大の成功要因だろう。  主人公を演じた菅田将暉は、時代にそぐわない“違和感”が天才数学者のキャラクター性に合致しておりベストキャスティングだったと思う。 新たなキャラクター造形で山本五十六を体現した舘ひろしや、海軍の上層部の面々を演じる橋爪功、國村隼、田中泯らの存在感は流石だった。特に主人公側と対立する平山造船中将を演じた田中泯は、圧倒的な説得力で各シーンを制圧し、本作の根幹たるテーマ性を見事に語りきっていた。 若手では、主人公のバディ役を演じた柄本佑がコメディリリーフとして良い存在感を放っていたし、ヒロインの浜辺美波は問答無用に美しかった(そりゃ体のありとあらゆる部位を計りたくなる)。  そして、山崎貴監督のVFXによる冒頭の巨大戦艦大和の撃沈シーンが、このストーリーテリングの推進力をより強固なものにしている。 プロローグシーンとしてはあまりにも大迫力で映し出されるあの「戦艦大和撃沈」があるからこそ、本作が織りなす人物たちの狂気とこの国の顛末、そして、「なぜそれでも大和は建造されたのか」というこの映画の真意がくっきりと際立ってくる。   数多の狂気によって、かつてこの国は戦争に突き進み、そして崩壊した。そこには、おびただしい数の犠牲と死屍累々が積み重なっている。 ただ、だからと言って、誰か一人の狂気を一方的に断罪することはできないだろう。なぜなら、その狂気は必ずしも軍部の人間たちや政治家、そして一部の天才たちだけが持っていたものではないからだ。 日本という国全体が、あらゆる現実から目をそらし、増長し、そして狂っていったのだ。  今一度そのことを思い返さなければ、必ず歴史は繰り返されてしまう。 平和ボケしてしまった日本人が、失われかけたその「記憶」を鮮明に思い返すために、山崎貴監督によるVFXが今求められているのかもしれない。 誰得のCG映画やファンタジー映画で茶を濁さずに、意義ある「映像化」に精を出してほしい。 
[インターネット(邦画)] 8点(2024-03-10 00:07:07)
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