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 > マーチェンカ さん
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プロフィール
コメント数 206
性別 男性
ブログのURL https://www.jtnews.jp/blog/22117/
年齢 43歳

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1.  シン・仮面ライダー 《ネタバレ》 
アクションエンタメとしての仮面ライダーを前提に、予備知識や先入観なしで評価するなら恐らく「5~6点」ぐらいではないかと正直思うのですが、僕は庵野監督の描く世界観(特に最近のもの)が好きなのと、陰はあるが誠実な本郷1号のキャラ造形が良かったこと、また素直に「かっこいい」と思える瞬間が確実にあったことなどから、僕としては最終的に「見て良かった」と思えました(ちなみに自分は仮面ライダーで言うと Black 世代です)。  まず「5~6点」と書いたのは、思った以上に庵野監督のカラ−が色濃く出ており、純粋に「仮面ライダー」としてこの映画を見た場合に付いていけない人が確実に出てくるだろうなと思ったからです。一方でモチーフや視覚イメージなど、個人的には「エヴァ」や「ナディア」を連想させる(つまり過去の庵野作品の中で既に見たことがあるような)展開も多く、そう言う意味では庵野作品をある程度見てきた僕のような観客にとっても、あまり大きな驚きはありませんでした。また全体的に「オーグ(怪人)を倒しに行く」ことを基軸にした、よく似た印象のエピソードを数珠繋ぎで連続させていて、「大きな起伏もなく淡々と劇が進んでいった」という印象であり、またそのことによって自分が意識無意識に「シンゴジラ」のような衝撃を期待していたのだということにも気づきました。「シン」シリーズに連なるものとして、例えばそれこそ「シンゴジラ」みたいな映画を期待すると、「付いていけない」度合いはより大きくなるのではないかと思います。  とはいえ、恐らく第一作ライダーへのリスペクトに基づいたダークな(陰のある)展開は好みでしたし、交流を深めるにつれてお互いに対する信頼が増していく本郷とルリ子との関係性は、見ていてそれなりに心暖まるものでした。また個人的には、西野七瀬さん演じるハチオーグのエピソードが、アクション映画としての「シン仮面ライダー」のハイライトとして、最ものめり込んで見ることができました(ハチオーグの造形は、多数出現したオーグの中でも一際スタイリッシュだと思いました。また日本刀によるバトルは仮面ライダーのアクションとしては非常に新鮮で素直にカッコいいと思えたし、短いエピソードの中でも垣間見えるルリ子とハチオーグとの屈折した、複雑な関係性や、完全な咬ませ犬だったサソリオーグのエピソードが綺麗に伏線として回収されていたのもとても面白かったです)。  全体としては、「仮面ライダーという箱を使って表現された庵野的世界観の総決算」だったというのが、この映画に対する僕の最終的な印象です。見る人は間違いなく選ぶでしょうが、庵野作品ファンで、かつ多くの少年と同様にかつて仮面ライダーが好きだった自分としては、しっかり楽しむことができました。
[映画館(邦画)] 8点(2023-03-19 22:18:21)
2.  思い出のマーニー 《ネタバレ》 
一度見た後に、杏奈とマーニーの本当の関係を思い起こしながら劇中の二人の様子を反芻し、二度目見る事があれば、その時には二人の関係を念頭に置きつつリアルタイムで彼らの内面に注目しながら見返す・・・そんな楽しみ方ができる映画だと思います。  劇中杏奈が見せるような「愛されていない」「見捨てられた」という意識は、まだまだ未成熟な年若い精神にとって、とても辛い、孤独で切実なものだと思います。  また冒頭の、公園で描いた絵を杏奈が先生に見せようとする時に、頬を赤らめながら、しかし何か期待するようにその絵を先生に差し出そうとした場面を考えると、杏奈は最初から「誰かに受け入れられること」を求めていたのではないかという風にも見えます。  その事と、養母が自分を養育するのに市から交付金を受け取っているという事実に深く傷ついた様子を考え合わせると、彼女は「誰かから愛され、また自分も愛したいのに、それが裏切られるのが怖い、そしてそんな裏切りを犯した対象を許せない」というメンタリティを持っていたようにも見えます。  そんな未成熟ながらも一生懸命に悩んでいる若い精神にとって、例えば劇中でのマーニーとの関係を通して杏奈が得たような「無条件に愛され、そして愛している、そしてその上で裏切られたと自分が感じても相手を許し、愛し続ける」という経験は、そのような辛さや孤独、そして「誰かを愛そうとして裏切られることへの怖れと怒り」を乗り越えるために必要な物だったのだと思います(実際杏奈は、マーニーと貴重な関係を築き、最終的に彼女を許すという経験を通して初めて、養母の愛に気付くことができました)。  「太っちょブタ」と杏奈から罵られたあの娘が傍から見れば普通に良い子であるはずなのに明確に美醜を基準にして悪者のように表現されているという手つきの安易さや、あるいは痛ましい虐待事件がしばしば報道される今の時代状況を考え合わせた上での、杏奈の「幸せさ」とその悩みの「生温さ」を指摘することも、もしかしたらできるかもしれません。  しかし僕自身はそれでも、この作品の中にある杏奈の悩みは、決して少なくない人たちが経験するものであり、そして彼女がその悩みを克服するうえで通過した「愛し愛される、そして相手を許す」という経験は、間違いなく人間にとって不可欠なものだと思います。この映画では、そのような「葛藤と浄化の過程」が、「祖母と孫の時を超えた交流」というドラマチックな要素も含めて、静かに、しかし確実に感動的に表現されていると思います。
[映画館(邦画)] 9点(2014-08-10 23:21:56)(良:2票)
3.  劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語 《ネタバレ》 
僕が見た限りでは、多くの映画作品の中には、「本当は死にたがっているのに『生きる事』を語る振りをしている」ようなもの、または「作品自体は『閉じた世界』を志向しているのに口先では『開いた世界』を語っているように見える」ようなものがあると思うのですが、その点このまどマギ劇場版に関しては、最初から「閉じた世界」を志向していることを明確に看板に掲げているだけ、そういった作品群より誠実だと思えました。ただし、そういった「閉じた(完結した)世界」の甘美さで観客に訴えかけようとすることによって、場合によっては観客もまたその「閉じた世界」の虜になってしまうのではないかという警戒心も感じるのですが。そしてこの作品に関しては、その「閉じた世界」の構築が極めて巧妙かつ魅力的になされているだけに、なおさらそう感じるのです。  個人的な話になってしまいますが、そのような「甘美さ」をここでことさら指摘するのも、恐らく僕自身が心の奥底ではそういう「閉じた世界の甘美さ」が大好きで、少しでも気を許したら自分自身がそのような世界にいつまでも中毒的に耽溺したがってしまうからなのだろうと思います。そんな自分にとってこの『叛逆の物語』は、はっきり言って「僕自身が一番見てはいけない類のもの」だと思わせる作品です。  細かい設定に関しては正直言って僕の中で消化しきれなかった部分があるものの、少なくとも作品に存在する感情面に関しては、ある程度受け止める事ができたのではないかと思っています。TV版の時もそうでしたが、この作品のベースにあるものは「報われなかった願い」や「優しさへの希求」を基調としたある種の渇望感であり、それに対する「自己犠牲」を基調とした甘美極まりない(言ってしまうと現実離れした)「善意」であり「思いやり」です。そしてそれらの要素に加えて、最後までその願望が完全に報われることの無いほむらという少女の個人的な渇望感が強烈に観客に焼き付けられるために、余計に劇中に存在する、まどかという少女に象徴される「優しさ」への渇望感もまた掻き立てられるのです。見当違いな例えである可能性を認めたうえであえて僕の感じた通りのことを言わせてもらうなら、それはちょうど劇中存在する「円環の理」という表現と対応するかのように、「優しさ・甘美さ」と「それへの渇望感」がまさに円環構造をなしているように見えます。  ここまで独特な世界を構築したその手腕は本当に凄いと率直に思うものの、見る者にただただ強烈な「渇望感」を植え付け、その上で「閉じた・完結した世界」を見せつけるその手法に関しては、僕は素直にそれを受け入れる気にはなれません。はっきり言って製作者の意図を測りかねる部分もあるのですが、少なくとも僕自身は、劇中ほむらが選択したような円環的な「閉じた世界」に留まっていたところで、結局どこにも行く事はできないと思うからです。自分自身とても楽しめたという事実と、その「甘さ」に耽溺してはいけないという警戒心と自戒の双方を込めて、この点数とさせてもらいました。
[映画館(邦画)] 5点(2014-01-02 03:29:15)(良:1票)
4.  かぐや姫の物語 《ネタバレ》 
高畑監督による力強い「生命賛歌」だと思います。ここには人が感じる喜怒哀楽や「生きる事の喜び」、そして「人に『生命』が与えられ、それぞれの生命を『生きている』」ということの根源的な不思議さや貴重さが、「自らの生を貫き全うすることの難しさ、罪深さ」というものも巻き込んだうえで、これ以上無いと思えるほどに高い純度で表現されていると思います。  劇中でのかぐや姫の「成長ぶりと月への帰還」、ひいては映画全体と二重写しにされているのは、まさに我々人間の「生と死の様相」そのものではないかと見ていて思いました。  人間に与えられた生命は余りにも短くはかないものであるにもかかわらず、我々はしばしば、「人は何のために生きているのか、そもそも生きるとはどういうことなのか」ということを見失いがちです。  そんな中、この映画は本来人間が持っているはずの「生きる事」の根源的な手触りというものを、繊細かつ奔放なアニメーション表現によって、とても鮮やかに観客に示します・・・と言うよりも、劇中あるようなあのアニメーション表現「そのもの」が、生き生きとした「生命感」の純粋な表現である、ということなのかもしれません。  エンドロールに流れる二階堂和美さんの歌は、情熱的な盛り上がりと共存するその静かさや真っ黒なエンドロールの背景も相まって、まるで将来闇に返っていく事を避ける事のできない我々の生命を、闇に灯る一筋の煌めきとして歌い上げるかのようです。そこに僕は同時に「死の影の静寂と冷たさ」(それは個人的には劇中ラストの、姫の月への帰還と重なるのですが)を感じる思いがしますが、そのような忍び寄る「死の影」をも含めて「人間の命」であるのだという事を、それまで見ていた生命感溢れる映画は同時に指し示しているように感じます。  そのような冷たい「死の感触」も含めて、我々は力を尽くして生きねばならないし、またそのように生きるに値するという、静かだがしっかりした思いを観客に残していく映画だと思います。個人的には、今はただただ「日本人で良かった」としみじみ思います。
[映画館(邦画)] 10点(2013-11-24 19:21:31)(良:3票)
5.  じゃりン子チエ 《ネタバレ》 
高畑監督の人間への目線の暖かさが感じられる作品だと思います。  主人公であるチエちゃんの、大人びたところと子供らしいところの混在した人物造形はもとより、あのテツでさえ、作中では何とも人間味に溢れる愛すべきろくでなしといった趣です。そして作品は、そんな型破りなテツの生き方をも、「こいつはそういう人間なんだ」といった風に、大らかに受け入れているかのようです。  恐らくテツは、何かにつけて人並み以上に「過剰」なのでしょう。だから堅気の生活は、彼には余りにも窮屈過ぎるのです。バクチやケンカへののめり込み方も過剰なら、一人娘であるチエへの溺愛振りもまた過剰です。  自分の考え方でしかチエを愛せないテツにとって、「ワイはこんなにチエのことを愛してるのになぜチエは怒っているのか」と、チエが考えていることをしばしば理解できません。そしてそんな不器用なテツの愛情を知ってか知らずか、チエちゃんは時に腹も立てつつ、「しゃあないな、ウチがおらんとテツはどないもならんねん」といった趣で受け入れているのです。  そんな愛すべき人々とは別に、過剰なテツの生き方のその破天荒さや、エネルギッシュな大阪の下町の人々(それとたくましいネコたち)の様子を見ていると、そういう荒々しさを痛快な思いで眺めつつ、それに対してどこか憧れの気持ちを持ってしまいます。  一応関西育ちではあり、TV版の再放送もしょっちゅうされていたので、子供の頃は好んで良く見ていたものの、劇場版についてはラストの小鉄とジュニアの対決が子供心に痛々しく感じられたという印象も手伝って今まで特に見返す事もなかったのですが、こうして見てみると本当に良い作品だと思います。
[ブルーレイ(邦画)] 9点(2013-10-18 23:41:03)(良:1票)
6.  冷たい熱帯魚 《ネタバレ》 
人間の幸せや平穏というのはある種の暴力を前にすると木端のように砕け散ってしまい、人間の存在そのものも何も高尚なものではなく所詮はただの肉片でしかないという、普段は意識しない(忘れようとしている)ことを改めて見せつけられるような、強烈な映画でした。  人が辿る人生と言うのは決してお花畑ではありえず、それも一皮むけば(半歩でも間違えようものなら)こういう暴力や悲惨が蠢いている(あるいはこういうものに自分も足を突っ込んでしまう)という事を改めて思い知らされたような気がします。そんな暴力や悲惨に妙なカタルシスを感じてしまうのがまた始末が悪いのですが・・・。やってることの良し悪しはともかく、本能のままに行動する村田達や(後半の)社本のその様子が、とことん突き抜けまくった解放感を見る者に与えるからでしょうか。  「人生ってのは痛いもんなんだよ」と社本は命を懸けて娘に言葉を絞り出しますが、それを向けられた娘は「やっと死にやがったかクソジジイ!」と彼を足蹴にし嘲笑します。あの救いようもないラストによって、この映画は観客の心にその「人生の痛み」を具現化してザックリと刻み付けたのだろうと思います。  そこに「人生と言うのはとことん冷たく、人間は脆いものなんだよ、仕方がないもんだね」とそっと教えてくれているような「制作側の愛情」を見る思いがするのは、僕自身の弱い心がそこにあるはずのない希望を見ようとしているせいなのか、それはわかりません。しかし僕自身はこの映画の中に、「人間という脆く弱い存在への愛」を確かに感じました。
[DVD(邦画)] 9点(2013-03-11 00:12:43)
7.  ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 《ネタバレ》 
<2014・9・17、内容を全面的に書き換えました。また点数を9点から10点に変えました>  本当に我ながらおこがましいことだとは思うのですが、庵野監督は一貫して、ご自身のその時その時の率直な「心情」と言うものを、その時その時で携わっておられる作品に惜しみなくさらけだすような作家なのだなと思います。それは例えば、この一連の新劇場版を作られる前の段階、つまり旧作のエヴァンゲリオン(二つの劇場版を含む)を作っておられた頃から全く変わっていないのではないかと、僕自身は思うのです。  ではこの『Q』において率直に現れている心情とは何かという事になりますが、個人的にはそれは、庵野監督自身における、「旧作エヴァ劇場版(特に『まごころを、君に』)の頃と比べて大いに変わったその心境」ということになるのではないかと思います。  具体的に作品に即して言うなら、例えばシンジを徹底的に「ガキ」扱いし、ゲンドウやミサト、そしてアスカたちといった、一言も泣き言を言わずに「やるべきこと」をやっているだけで実は何ら「シンジ」を敵対視しているわけではない人々をただ「やるべきことをやっているだけの人」として描写している点において、庵野監督自身大いに「旧作エヴァ」の頃から心境が大きく変化したのだなと、個人的には思うのです。  新劇場版に関しては、「シンジ自身が一体どうしたいのか」という事は、実は最終的には誰もシンジ自身に強制してはおらず、一貫してシンジ自身の意志に委ねられています。確かにそもそも論としてシンジはエヴァに乗るためにネルフに連れてこられたという事実は存在しますが、だからと言って最後までそのような生き方がシンジに「強制」されている訳ではありません。  またシンジがやらかしてしまったことに関して、誰も「元に戻す」ことを求めてはいません。ただただ彼に求められているのは、シンジが選択したことを「起こってしまったこと」として受け入れたうえで(つまり誰もシンジの選択そのものは否定していないのです)、その延長線上において発生した状況に対してシンジ自身が「なすべき最善の態度」を取る事なのです。そしてこの場合、シンジに求められているのは、いみじくもミサトやアスカが言ったように「何もしない」事であり、鈴原サクラが言ったように「エヴァにだけは乗ら」ないという事なのだったと思います。  それに対して、シンジは自分のやらかしてしまったことに対してうまく向き合うことができず(つまり自分が「選択」したことに対して、その選択したことを主体的な自分自身の行動と捉えて「不可逆な物」として受け入れたうえでどう対処するべきかという事を考えず)、ただただ退行的に「間違った選択であったのならやり直せばいい」という安易な方法に逃げようとしてしまいました。この点において、彼はこの新劇場版に登場する人物と比べて誰よりも「ガキ」であるとしか言いようのない人物となるのです。またこのようなシンジ自身の「弱さ」が、結果的に一番取ってはならない「エヴァに乗る」という選択をこの『Q』において取ってしまった直接的な原因ではないかと思うのです。  この点、つまり「ある種の選択に対してそれを自分自身のものとして受け入れたうえで、それに対して主体的に向き合って次にどう対処するべきかを考える」という点に関して、庵野監督の認識はとても深まっており、その結果としてこの『Q』における「バカガキとしてのシンジ」の描写が徹底されたのではないかと僕は思うのです。  シンジ君(と、ここで僕は君付けで彼の事を呼びたいと思うのですが)は、この『Q』において自分自身の「ガキさ」加減を嫌と言うほど自覚させられたと思います。そして願わくば、このように徹底的に心を折られ、頭をかち割られたシンジ君が、次作である完結篇において、何らかの「向き合い」、すなわち「自覚」に辿り着いてくれればと、自分自身の弱さを棚に上げても思わずにはいられません。
[映画館(邦画)] 10点(2012-11-18 16:56:17)
8.  ゲド戦記 《ネタバレ》 
あくまで個人的な感想として採点をさせてもらうと、「劇場公開当時にしっかり2度見に行き、その後DVDも買い、また最近TV放送で見返してもある種の感銘を受けた」くらい好きな作品であるという意味で、この点数としました。  作品の内容やテーマといった事以前に、僕自身はこの映画に関して何より「作品世界の構築のなされ方」それ自体が大好きなのです。例えばゲドとアレンがたどり着くホートタウンや、テナーとテルーが住む家、そして畑の描写など、いずれも「街」としての、あるいは「村中の家」としての生活感が漂う、「生々しい」とも言えるほどの精緻な造形がとても印象的でした。  そして僕自身は、それらの丁寧な作品世界の構築により、見ていて実際にその土地を踏み、その空気を吸っているかのような臨場感を得ることができました。何よりそれら一つ一つの「街」や「村」を含めた、一つの世界としての「手触り」が、作品から感じられる点が素晴らしいと思います。  もちろんこのような「世界観の構築」にあたっては、ル=グウィンによる原作の存在や、あるいは原案としての『シュナの旅』(作者は他ならぬ宮崎駿監督)の存在が、大いに参考になっている面もあるとは思います(例えば上記ホートタウンの描写など)。しかしそういった「オリジナル」があるとはいえ、最終的にそれを映像化し、一つの「世界」としてのまとまりを与えるのは、他ならぬ監督の手腕によるのではないかと思います。  それは恐らく、上記「原作」の注意深い吟味と、そして吟味する側のある種の「主体性」といったもの無しには、成し遂げられないものでしょう。そして吾朗監督は、宮崎駿やル=グウィンといった「偉大な先人」の手による原作に臆することなく取り組み、「自分自身でそれらから読み取ったもの」を、やはり臆さずに作品に注ぎ込んでいると思いました。そしてその結果としての、あの「独自の手触りのある世界観の造形」なのだと思います。  また肝心の「内容そのもの」に関しても、僕自身はその「生と死の認識」に、ある種の感銘を受けました。原作にも存在するこの重要なテーマを吾朗監督は正確に読み取り、それをジブリらしい少年少女の物語に置き換えることにより、印象的に表現していると思います。あるいはその表現の仕方の「強度」からすると、こういう「生と死」の問題意識は、もともと吾朗監督の中にも存在していたのかもしれません。  ただし表現に教条的な部分があったり、言葉での説明に重きが置かれ過ぎている部分が存在する一方で、ある部分では内的イメージが何の説明もなく全面的に打ち出されていて作りがかなりアンバランスであるなど、僭越ながら「未熟」という言葉がちらついてしまう瞬間があるのも事実です。  そして個人的に現状のこのような激しい批判・非難の原因として、こういう内省的(あるいは内向的)な作風を一本の娯楽映画の中で、よりによって「ジブリ映画」という看板を背負いながら貫いてしまった点があるのではないかと思います。  しかし個人的には、「二世監督」といった世間の目や、あるいは原作「ゲド戦記」の偉大さといった要因をものともせずに、泥臭く真摯に原作と取り組み、自分なりの表現で作品を完成させた吾朗監督に、無条件で敬意を表したいと思います(「ぐるぐる」さん、締めの段落が微妙にかぶってしまいました・・・どうしても言いたかったことなので申し訳ないです(^^;))
[地上波(邦画)] 9点(2011-08-09 15:19:20)
9.  コクリコ坂から 《ネタバレ》 
大変爽やかな映画だと思いました。作中で発生する、とある(俊言うところの「メロドラマみたい」な)展開も、この爽やかな物語に起伏を持たせるためにはある意味相応しかったと、個人的には思います(以下原作未読でレビューします)。  僕自身はこの映画で描かれている時代を経験しているわけではありませんが、それだけに作中の風物や、あるいは登場人物の物の言い方なども、結構新鮮に見ることができました。  例えば作中、カルチエラタンの取り壊し反対のための討論集会の場面など、恐らく見る方の世代によっては「このシーンは学生運動を経過した頃の時代の空気を反映している」という風に受け取る方もいらっしゃるかと思います。僕も一応知識としては「そういうことがあった」という事を知ってはいますし、中にはそんな作中の描写を「単なる懐古趣味だ」と批判的に受け取る方もいらっしゃるかもしれません。  もちろんそういう意見を否定するつもりは全くありません。そしてそのシーンに対する、(知識としてしかそういう時代が存在したことを知らない)僕自身の感想を言えば、その集会のシーン全体からは、「我は我である」といった一癖ある人物たちが、何の屈託も無く自分の足場に立って自己の主張を展開し、また周囲もそんな曲者を「個人」として認め、その存在を許容しているという、何とも鷹揚な清々しさを感じました。それはまたあの印象的なカルチエラタンの個性的な住人たちが初めて紹介される一連のシーンでも感じたことでした。  こういう「楽天的な鷹揚さ」や、あるいは海と俊の爽やかな恋愛模様といった内容は、もしかしたら今のような時代に望むのは困難なものかもしれません。あるいはまた、上記一連のカルチエラタンのエピソードに代表される「屈託のない理想主義」といった内容は、実際にかつての1960年代の日本に(あるいは世界中、人類の歴史始まって以来延々と)人々から望まれ、あるいは挫折してしまった事柄かもしれません。  しかし過去に一度存在した(そして挫折してしまった)からと言って、「それを現代で望んでいけない」という決りは無いと思います。そして何より、過去に材を取ろうが、挫折をしていようが、「何かを望み、実現する」という様子を、どんな形であれ映像化し、またそれを目の当たりにするのは、いつの時代も変わらず心地よく、また感動的なのではないかと思います。  「自分自身宮崎駿作品のファンだった」と公言する吾朗監督だけに、端々に過去の宮崎駿作品へのオマージュと見られるシーンがありますが、そんなシーンの存在と、高校生の青春映画としての体裁、そしてスムーズな物語展開といった要素が相まって、僕はまるで一編のファンタジーを楽しむかのように、この別時代(別世界)の爽快な物語を楽しみました。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-24 16:43:02)(良:1票)
10.  スカイ・クロラ The Sky Crawlers 《ネタバレ》 
押井作品に関しては、『天使のたまご』は見ているものの『ビューティフル・ドリーマー』は見ていないという中途半端なフォローしかしていませんので、この作品にコメントをするのもおこがましいとは思うのですが、あくまで「この作品を見た限りにおいて感じたこと」として、レビューをさせてもらいたいと思います。  まず個人的な感想として、「明らかにこれまでの押井作品と比べて、前進しようとする『意志』は強く感じられる」と思いました。誰しも「日々の生活の『ループ感』」と言うのは、程度の大小こそあれ感じることだとは思うのですが、「それを耐えられるようになってこそ大人なんだ」という風にばっさりと切り捨てるのではなく、ドン・キホーテ的な無益さを承知の上で「そうではない」とはっきり言っているところに、押井監督の「真剣さ」といったものを感じました。この点に関しては、僕は何も言うつもりはありませんし、無条件で敬意を表したいと思います。  しかし僕が気になるのは、そういう「ループ感」に捉われている人々の描写と言うのが、あまりにも「その状況に耽溺しすぎている」という風に見えてしまい、それがまた劇中BGMの切なさも相まって何とも甘美に感じられてしまう点です。具体的に言うなら、前~中盤のそういう「状況に捉われた」描写が、「結局は何をやっても負け戦になる」という前提になっているように見えてしまい、それゆえに終盤のあの展開に否応なく「敗者の美学」みたいな、何か危険な「甘さ」のようなものが付いて回るように見えてしまうのです。  ここからは完全に(未経験な若輩者である)僕のわがままになってしまうのですが、せめて映画の中では(と言うより現実をはるかに飛び越える可能性もある映画の中だからこそ)、そういう「甘美さ」を抜きにして、「敗者になること」を前提とした勝ち目の無いものではなく、せめて拮抗しているか、あるいはそういう「勝ち負け」をポンと飛び越した状況を経た上で、「人間性の勝利」みたいなものが垣間見える瞬間を見てみたいのです・・・と言うより、今現在の僕の個人的な嗜好として、製作者自身も「何とかそういう方向を手放さずに格闘する」ような作品をより多く見てみたいと思います。  (とは言え、こういう種類の「甘さ」と言うのは、僕が見てきた数少ない押井作品の数々(とりわけ『天使のたまご』)の中からも感じられた、言ってみれば「押井作品の持ち味」と言っても良いものなのかもしれませんが・・・)  そういう意味では、この作品は僕にとって「決して駄作ではないが、かといって無条件に礼賛するのも危険な作品である」という位置づけになります。  しかしそうは言いながらもこういう「甘美さ」には、個人的に抗いがたい魅力を感じますし、また最後まで見てみれば、この作品が決してそういう風に「耽溺する」つもりで終わっているわけではない事も窺えます。従って僕自身は、この映画に備わる「甘美さ」に関しては、ごくたまに味わう高級なお酒みたいなものとして捉える事にし、ラストに存在する「前進する意志」だけを、極力心に留めておきたいと思いました。   そういう「前進する意志」という意味において、ラストでスイトが煙草を吸わなかったシーンが大変力強く印象に残ります。それまでの「日々のルーティン」から意識的に抜け出し「煙草を吸わなくなった」上司として、この後新たにカンナミの後任に就いた人物に対して、彼女が一体何を言おうとするのか、想像したくなります。
[ブルーレイ(邦画)] 8点(2010-08-17 00:30:53)(良:3票)
11.  告白(2010) 《ネタバレ》 
大変話題になっているこの状況であり、ずっと気になっていた作品だったのですが、そろそろ上映館も少なくなってくる頃かもしれないと思い、劇場で見るなら今しかないと思い定めて、この前見てみました。ちなみに原作未読、中島監督の作品を見るのもこれが初めてです。  結論から言うと、最終的にはそれなりに楽しめたと思います。ただし個人的には、「かなり無茶苦茶なフィルターを通して」という感じでないと(これは映画が無茶苦茶だから再構成しなければならない、という意味ではなく、あくまで自分自身の感じ方の事を言いたいのですが)この作品を受け入れられなかった、といった所です。  例えば少年Aの言ってることが「旧作エヴァンゲリオンのエピゴーネン」と言うか、旧作エヴァの「トラウマに支配される少年少女」といった構図を無批判に受け売りしているようにしか見えず、あまり良い印象を持ちませんでした。  しかし見ている途中から、不思議なことにだんだん映画で展開されている陰惨な出来事から、現実味が薄れていくように感じられてきました。これは決して批判的に言っているのではなく、作中の出来事を「映画の中だけの特殊な現象」という形で幻想的に封じ込めている、という印象を持ちました。その結果、少年少女の「悪意」やあの先生の「復讐心」は(その純度の高さゆえに)現実離れした非常に抽象的な物のように感じられ、劇中の事件は前述のような「動機(と映像表現)のエキセントリック度合い」により、たとえて言うなら『スターウォーズ』の空戦シーンやライトセイバーの決闘シーンといったもののように感じられました。「個人的に無茶苦茶なフィルターを通している」と言いたかったのはこの部分です。  言ってみれば「エキセントリックに徹して妙な現実味をそぎ落とすことによって、『復讐心や悪意』を娯楽映画の素材として上手く使用している」という風に見えたのです。そして個人的にはその点に、中島監督の「バランス感覚」と言うか「大人の感覚」といったものを感じます。  個人的には作中人物たちの心情に寄り添った上で捉えたこれ見よがしの「悪意」や「復讐心」、それと主に少年AおよびBの「悪意」の幼さに本気で付き合うような事をしたくないのですが、その「映画的表現によって純化された形でのそれらの感情の発露」に関しては、変な言い方ですが大変爽快な気持ちで見ていたような気がします。  
[映画館(邦画)] 7点(2010-08-02 23:39:59)(良:1票)
12.  借りぐらしのアリエッティ 《ネタバレ》 
かつて宮崎駿監督の息子さんである吾朗監督が、父親である宮崎氏からその『ゲド戦記』製作中に辛辣な批判を浴びせられ続け、あるいは映画完成後に、その作品の原作者であるル=グウィン氏からも非常に手厳しい批判を受け、それでもその『ゲド戦記』の中に自分の思うことを盛り込み、また自分の思った通りに映画を作りとおした(それが良いか悪いかはもちろん個々の方々の感じ方によるでしょう)事を思い起こすと、この『アリエッティ』は何とも素直な作品となっていると思います。  柔らかくファンタスティックな世界観づくりや、美麗極まりない背景の描きこみはまさしく「ジブリ品質」といったところでしょう。また主人公アリエッティ役の女優さんが何とも上手に役を演じられていたのも印象的でした。僕自身は色々な理由から、必ずしもこれまでのジブリの「俳優起用」の傾向を批判的に見るつもりは無いのですが、それでもこの『アリエッティ』の配役全体に関して、「これまでのジブリ作品と比べてもひときわ成功している」と言いたい気になります。  ただし作品の内容に関して上記映像(あるいは世界観)・配役といった点を除いた場合、個人的な印象を控えめに言うなら「強烈な作家性を感じさせる過去の作品と比べると、その点でやや希薄である」という印象をぬぐい去れません。  映画のパンフレットを読んだ限りでは、監督は絵コンテを切るにあたって途中から「宮崎監督の顔色は窺わないようになっていった」らしいのですが、僕が見た限りでは、その絵コンテを切るにあたってその「イメージ」は確かに独自にふくらませたように感じる一方、少なくとも「脚本」にはかなり忠実に従っているのでは、という印象を受けました。お手伝い役のおばさんの役どころが何だか後味の悪い「いかにもな悪役」といった感じであり、その点に関して監督が吟味して修正を加えた様子も見受けられません。その点も個人的にはちょっと残念でした。  もともとこの作品が(ジブリ内部で)どういう位置づけの元に製作されたのか不明であり(そもそも最初から「肩肘張らずにジブリの世界観を提供する」という目的があるのかもしれませんし)、そういう作品に「作家性」(と言うか「個人的な動機」といったもの)を求めるのも最初からお門違いなのかもしれません。しかし僕自身はそれでも、その辺が個人的にはちょっと物足りなかったかなと感じたのが正直なところです。   5点か6点か迷ったのですが、内容的には納得いかない点があるものの、何だかんだ言ってジブリ品質のあの世界観は魅力的ですし、何よりアリエッティの演技と健気さ可愛らしさが印象的だったので、5.3~4点の切り上げ6点としたいと思います。
[映画館(邦画)] 6点(2010-07-29 00:42:15)
13.  崖の上のポニョ 《ネタバレ》 
劇場公開当時、久しぶりの宮崎作品と言うことで、座席でワクワクしながら上映開始を待っていた時のことです。僕の左手からジュースを載せたトレイを手に、一人の女の子が僕の方に近づいて来ました。その子は僕の右隣の席を指定されていたのですが、そのトレイを持つ手が何とも危なっかしくプルプルと震えているのです。  「あの子大丈夫かな」と思った瞬間、その子は僕のズボンに派手にジュースをぶちまけました。  すぐに「うわっ、ごめんなさい!」とその子は謝ってくれたのですが、ズボンも座席もビショビショで気持ち悪く、正直言って返答する気には全くなりませんでした。それを見かねたのでしょう、僕の左隣に座っていたカップルのうちの彼氏さんが、「これ良かったらどうぞ」とポケットティッシュを手渡してくれました(本当に有難かったです)。その後重ねてその女の子から「本当にごめんなさい」ともう一度謝罪の言葉がありましたが、さすがに無視する訳にも行かなかったので今回は一応返答したものの、それも「あ~ハイハイ」という素気ない響きでしかできませんでした。  「よりによってこんな時に。ホント最悪だ」とムシャクシャした気持ちで上映開始を迎えました。そして上映開始からしばらくして、そんな自分の状態の全てが吹っ飛んでしまう程に、作品に圧倒されることになりました。  もう本当に、映画の中で展開される、「原初的」としか表現しようのない純粋な喜びやイメージの奔流を前に、「空いた口が塞がらない」という状態を初めて経験しました。僕自身は浅く短い映画鑑賞歴しか持ち合わせていませんが、それでも僕は、これまで見てきた映画の中でも、これだけシンプルに心を動かす力強い作品には出会ったことがないと、そう言いたい気持ちになります。物語の後半、グランマンマーレが海に戻っていくあの感動的な場面に至っては、正直な話僕は涙を堪え切れず、手に持っていたポニョの団扇で顔を隠していたこともよく覚えています。  前置きの部分が長くなってしまいましたが、自分にとって色々な意味で思い出深い初鑑賞の日だったので、色々書かせてもらいました。ちなみに上映終了時には、僕の機嫌はすっかり治ってしまっていました。あの女の子に対する態度についても、ちょっと素気無さ過ぎたかなとも思いました。手元にある『ポニョ』のDVDのイラストを見たりすると、その子のことも少し思い出したりします。
[映画館(邦画)] 10点(2009-10-03 13:11:14)(良:2票)
14.  THE END OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に 《ネタバレ》 
「問題作」とも言われているこの旧劇場版、新劇場版の内容とも微妙に関っているとの噂を聞いて、覚悟を決めて見てみました。  見る前までの印象は、とにかく「庵野監督が無責任に作品完成を投げ出してしまっている」というものでした。しかしこうしてきっちりと見てみた結果、そういう印象とは別の感想を抱きました。  作品のみを元に(その制作にかかわった中心的な)人物を評する事の無謀さや傲慢さは百も承知なのですが、あえて個人的な感想としてそれを書かせてもらうと、庵野監督はこの旧劇場版の中で、その制作当時の自分自身というのを(悪いところは悪いところとはっきり認めたうえで)非常に率直にさらけ出しているという風に感じたのです。  大いなる自己欺瞞のもとに病的な活力を得るアスカ、グロテスクに成長し続ける綾波レイ、そして何よりひたすら状況に流されてすっかり弱い子供となってしまったシンジ君・・・追いつめられた人物たちの状況を暴きだす庵野監督の手腕(と言っていいものかわからないのですが)は、間違いなく容赦のないものです。  しかしそれらの、非常に尖った、ある場合にはとてつもなくグロテスクな描写は、(少なくとも庵野監督自身の中では)ごまかしの一切ないものであると僕は感じました。良くも悪くも単純に映像表現として衝撃的であるという点も僕にとって印象的だったのですが、僕自身は、それらの映像の背後にある、自分の醜さを「醜さ」と認めて一切の自己弁護をしない、潔いくらいに率直なその心情表現に、決して悪い印象を持たなかったのです。  つまり僕自身は(これまた傲慢と言われても仕方ないのを承知で僕の感想を書かせてもらうと)、劇中人物たちが追いつめられているのと同じくらいに(もしかしたらそれ以上に)、監督自身の状況も非常に追いつめられたものだったのではないかと思うのです。  こんなのんきな事を言えるのも、もしかしたら、登場人物たちが大きな変化を遂げつつある新劇場版を見た後だから言えることなのかもしれません。しかし僕が個人的に感じた上記のような「率直さ」は、仮に新劇場版を経ずにこの作品を見たとしても、同じように感じたのではないかと思います。
[DVD(邦画)] 8点(2009-08-13 01:59:31)
15.  ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 《ネタバレ》 
『序』の内容が本当に素晴らしかったので、今回のこの『破』も、大変期待しながら劇場に足を運びました。そしてその期待は、個人的に全く裏切られることがありませんでした。  例えばミサトとリョウジの関係から「ただれた」「腐れ縁」的なにおいが綺麗に洗い流された事なども印象的でしたし、終盤の展開も大変感動的だったのですが、ここでは特に劇中での「音楽の扱い」について書きたいと思います。  旧TV版では「遠景」的にしか流れなかった挿入歌が、この『破』では人物たちの生活に食い込む形で積極的に扱われています。懐メロ(外界)が否応なく人物たちの生活(内面)に食い込んでくるさまは新鮮なものでした(この点旧TV版の場合、街中などで流れている歌はあくまで背景という感じであり、作中人物たちの心情とも殆どリンクしていません。個人的にはTV版における、外界と人物の内面との隔たりを強く感じさせられる瞬間でもありました)。  個人的に「内面に閉じこもってばかり」という印象を残しがちだった旧TV版とは違い、その「閉じこもる」方向を根本から打ち消す「外界」としての役割を与えられた劇中音楽に違和感を感じることはありませんでしたし、そのような「外部の音」を自然に受け入れるシンジやミサト達の姿に、ある種のたくましさや強さを感じたりもしました。  そしてその延長線上にある演出として、劇中での「今日の日はさようなら」や「翼をください」の使用があるのだと思います。僕は実は「(某人物)が3号機に乗る」事の重要性を、劇場鑑賞後に確認するまで気が付きませんでした。また物語後半における有名な「最強の使徒」戦の場合、耳学問という形でしか旧TV版の展開を知りませんでした。しかしそれにも関らず、上記2曲の効果的な使用とも相まって、僕自身はそれらのシーンを、この『破』単独の見所として楽しめました。  旧TV版を良く知っている方なら、「一粒で二度おいしい」的な楽しみ方をすることができると思います(むしろ個人的には、庵野監督は旧作からエヴァをフォローし続けている古くからのファンにこそサービスをしたいという意図もあって、このエヴァの「破」壊を試みられたのではないかという気がします)。しかしそれと同時に僕自身は、「旧作との比較」という点で極めて不十分な形でしか鑑賞できなかったこの『破』に対して、作品単独で非常に満足できたことも重ねて書いておきたいと思います。
[映画館(邦画)] 10点(2009-07-19 01:23:07)(良:1票)
16.  ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 《ネタバレ》 
最近になって庵野監督の奥様である安野モヨコさんの結婚生活マンガ(「監督不行届」)を読んだのですが、その後書きで、庵野監督が「大きな心境の変化」を吐露されていることを知ったこともあって、この劇場版「ヱヴァ」に興味が湧いた次第です。  ある程度TV版「エヴァ」の流れを踏まえた上でこの「ヱヴァ」を見返してみると、一番強く感じるのは劇場版の方がより「開かれた」ものになっている・・・と言うより「人と人の繋がり」と「その暖かみ」がより直接的に描かれている、という点です。この点、とかくシンジ君の孤独な心象が強調されるTV版「エヴァ」とは対照的だと思います(電信柱やビルはシンジ君には何の関係もなく突っ立っており、時にシンジ君はそこに無言の重圧を感じますし、街の喧騒やクラスメイトの暢気な軽口はますますシンジ君を追い詰めます)。  上記庵野監督の「心情の変化」というのもこういう所からうかがえるのかな、と僕自身は感じます。この「ヱヴァ」では、シンジ君の引き受ける「運命」は非常に重いものとして描かれ、それだけに彼のその「運命」を(暖かく、というのが大きなポイントなのでしょう)見守る周囲の人々の気持ちの変化も、TV版と比べて(さりげなくではあるものの)より鮮明に描かれているように感じます。鑑賞中に「『自分』と『外』を隔てる扉がふっと開かれる」ような、何か暖かい気持ちになる瞬間を何度か感じたのも、恐らくこのシンジ君の周囲の人々の心情に強く関係しているからなのだと、僕は思います。  そしてその重い運命を引き受けるシンジ君の主体性と強い意志が、この劇場版でははっきりと見て取る事ができました。正直言って僕は、この劇場版のシンジ君程に強い気持ちを持つ事ができるのか(あるいは今の時点で持っているのか)、自信がありません。それ程に、僕はこの劇場版の方のシンジ君に強く心引かれるのです(今の僕にとって、この劇場版のシンジ君は非常に眩しい、魅力的な少年に見えます)。   個人的な、そして極めて勝手な感想ですが、TV版のシンジ君は、この劇場版のシンジ君になる可能性を秘めた発展途上のシンジ君だったのではないかと、僕は思うのです。庵野監督は、小さくてか弱く、しかし極めて偉大な少年像を、もしかしたら生み出しているのかもしれません。
[映画館(邦画)] 9点(2007-11-07 00:05:02)(良:1票)
17.  おもひでぽろぽろ 《ネタバレ》 
レビューを書くにあたって一つだけ、自分が初めて劇場で見たジブリ映画がこれだった、というごく個人的な「おもひで」を書いておきたいと思います(^^;)。  主人公である27歳のタエコは、親元を離れて就職を経験するなど、一応は自分自身の人生を自分だけの手で所有する事になり、その結果、自分自身の気持ちと自然に向き合うようになったのだと、僕には見えました。その結果、彼女の胸には数々の「おもひで」が去来するようになったのだと思います。  その彼女の「おもひで」の数々が、今回見返してみて、まるで自分自身のかつての「おもひで」に接しているかのように親しく感じられたのです・・・と言うよりも、自分自身の気持ちに素直に向き合うようになった27歳のタエコが、彼女にとって最も親しい、自分にとっての中心となる大事な感情が秘められた「おもひで」を一つ一つたどって行くそのプロセスが、僕にとってとても素直に響いた、ということかもしれません。  子どもらしい些細な感情を基調に淡い色調で描かれているので非常にマイルドな印象を受けますが、小学校時代のタエコの「おもひで」で描かれているのは(もちろん観ていて微笑ましいものも含まれるものの)、いずれも自分自身の本質的な「疑問」や「感情」を押し殺されるような、実はタエコにとってとても過酷な経験ばかりです(例えばタエコはその後、「分数の割り算」に対する本質的な疑問を解く事はできませんでしたし、劇団の子役になることも叶わず、何より転校生に対しての「後ろめたさ」を長い間引きずらなければなりませんでした)。  その数々の「おもひで」に接して、27歳のタエコはある時は、そこから自分自身の大事な気持ちを(つまり、疑問や喜びなど、様々なことに対して自然に、素直に心を動かしていた自分自身のありようを)振り返り、またある時には「トラウマ」とも言える深刻な後ろめたさと真剣に向き合うのですが、そんな彼女の姿が、僕にとってとても力づけられるように感じられたのです。ラストシーンで初めて、27歳のタエコと小5のタエコが(恐らく27歳のタエコは気づいていないままで)「出会い」を経験しますが、少し大げさな言い方をすると、僕はこのシーンで27歳のタエコがようやく、数々の「モヤモヤ」を抱えた小5のタエコ(つまりかつての自分自身)と「和解」をすることができたように見えて、とても心温まる思いがしました。
[地上波(邦画)] 10点(2007-10-20 00:19:51)(良:1票)
18.  BLOOD THE LAST VAMPIRE 《ネタバレ》 
何しろ50分程度という短さですから、物足りなさを感じてしまうのは仕方のないところですが、それでもかっちりと作りこまれた作品内容となっていますので見ごたえは十分でした。あの「オニ」の造形(「人外」という言葉があるんですね、皆さんのレビューで初めて知りました)も面白かったし、最後にどうしてそれらが基地に向かっていたのかというオチも、僕自身は納得できるものでした(不謹慎かもしれませんが、これまでの大きな戦が生み出した死屍累々の中に、あのオニに襲われた死体が含まれ、また古今東西の戦場でそれらもまた密かに人を襲っていたという事は、何となくありそうなことだと思わされます)。  その一方で、確かに小夜の過去に関して掘り下げが足りないという印象も拭いきれませんが、それはそれで観る者の想像力を刺激しないわけでもありません。まぁこの点は、これから始まるTVシリーズで徐々に明らかにされることかもしれませんが。  工藤夕貴の吹き替えは、僕の予想を遥かに超えて優れていました。僕自身は、吹き替えに危惧を感じていてこの作品をなかなか見る気にならなかったのですが、今回見てみてそれが全くの間違いだったことがわかりました。意外と太いその声が、作品のハードボイルドな雰囲気ととてもよく合っていたと思います。
[地上波(字幕)] 7点(2005-10-10 01:22:45)
19.  ハウルの動く城 《ネタバレ》 
この作品について強く感じたのは、前作『千と千尋』から引き続いて「生きる力」が、描かれているという事でした・・・これは以前に書いたレビューの冒頭ですが、今回見返してみて、この感想をより自分の実感に即した、生き生きとしたものとして感じ取ることができました。  作中ではあまりにもさりげなく描かれていますが、冒頭のソフィーのどこかすっきりしない様子は、この作品の重要なモチーフとなっている「人の心」を表しているのではないかと思います。父親の店を自分が継がなければならないという義務感から自分を抑圧していたソフィーは、いつの間にか生き生きとした「自分だけの」心の動きをも、見失っていたのです。  そしてソフィーとハウルの二人を結ぶのも、この「心」というキーワードであるように見えました。ハウルは幼い頃に星を飲み込み、「自分の心」と引き換えに大きな力を手に入れますし、またハウルの心には「怪物」が潜んでいます(と言うより心の一部が怪物である、ということでしょうか)。そして自分の心の生き生きとした動きを取り戻したソフィーは、「あなたが怪物でも良い」と言い切って、ハウルを愛するのです。  この作品は、人の心がどれだけその生き生きとした動きを知らない間に失っているのか、そしてその動きを取り戻した時にどれだけ人が強くなれるのかという事が描かれていると感じました。親の店の引継ぎを振り切って、「心臓を取ってしまう」という恐ろしい噂がついてまわる男を愛し、徹底して自分自身の心に素直に行動するソフィーを形にした宮崎監督は、実は「人は心の動きを失いうる存在であり、一度それを取り戻すと世界の常識や決まりが無意味になってしまう」ということを浮き彫りにした、とても大胆な作品を作り出したのではないかと思います。
[映画館(字幕)] 10点(2004-11-30 18:22:46)
20.  イノセンス 《ネタバレ》 
恐らく押井監督はこの作品において、「人形」と「人間」を区別せず、そして(人間自身を含んだ)「動物」に対する愛と「人形」に対する愛をも区別しないという姿勢を取り、そこから見えてくるものをこの作品で表現しようとしたのではないかと思います。  個人的に印象に残っているセリフで、「鏡は瞥見するものであり熟視するものではない」というものがあるのですが、これに関しては、作中に出てくるような精巧な「人形」が登場するようになれば、人間と人形との境界が曖昧になっていくばかりであり、そのような状況であえて人間と人形の区別を問うことは、それこそ人間の存在基盤を曖昧にしてしまう恐れがある、従って我々はあえてこのような問いを発するべきではない、すなわち「鏡を熟視」すべきではない・・・こういう意味があるのではと思っています。  僕はこういう主張に対しては、ある程度共感すると共に、「ちょっとそれは考えすぎではないのか」という気がしないでもありません(もし上に書いたような主張が本当にこの作品に込められているのだとすればですが)。例えば作中での「子育て=人造人間製造の欲望」という考えに関しては、実感としてピンと来ない上に、このような考え方が余りにも論理的であり、人間の「人間臭い」面を軽視しているのではないかと思えてなりません。  もっとも、この点に関しても、押井監督は監督なりに回答を用意しているのかもしれませんが。そしてその回答が、ラストにおける少佐とバトーとの再会シーンに込められているのかもしれません。個人的に異論もあるとは言え、結局この点数にしたのは、このラストの展開がやたらに感動的だったからです。   <追記>久しぶりに見返してみて、その時もラストに至ってやたらに感動してしまいました。そしてその時になって、その原因が作品の構造にあるのではないかということに思い当たりました。  この映画は、物語が進むにつれて、人間の人間たる基盤みたいなものを揺るがしていく(もっともこれは押井監督の意地悪ではなくて、あくまでご本人の問題意識の表れなのでしょうが)という構造を持っていますが、ラストに至って少佐が「登場」し、そこでようやく徹底的に揺るがされた「人間性」に訴えかける事により、見る者(と言うかこの場合僕自身ですが)に何とも言えない、虚無的な寂寥感を伴う感動を与えるのではないか・・・こんなことを思いました。
9点(2004-03-12 22:53:10)(良:1票)
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