1. アンノウン(2011)
例えば写真展のシーンなど、ヒッチコック的なショットを交えながら、決してオマージュにとどまらない自分の画面としているあたり実に大人だし、ブルーノ・ガンツとフランク・ランジェラのやりとりをフルショット主体で捉える、ダイアン・クルーガーのとまどいや恐怖を不意に挿入する等、繊細な演出も光る。「蝋人形」「エスター」に続いて、ジャウム・コレット=セラ、なかなかやる。 [映画館(字幕)] 10点(2011-05-25 10:11:27)(良:1票) |
2. 白いリボン
閉鎖的な村社会、恐るべき子どもたちといった陳腐なネタを、重厚な芸術作に仕立て上げる様は滑稽としか言いようがない。「死霊の町」や「悪を呼ぶ少年」が1ショットで成したことを、2時間30分かけることの退屈。 [映画館(字幕)] 0点(2011-02-18 10:24:45) |
3. ブロンド少女は過激に美しく
純粋な映画、映画の核。こういう映画が観たかったんだよ~。 [映画館(字幕)] 10点(2010-10-13 11:34:13) |
4. バベル
私が観たいのは、現実では起こりそうにない不幸であって、現実に起こりうる不幸を現実そのままに描いたものではない。現実の不幸をそのままに描くことの困難と安易を、この監督ははき違え、それで良しとするのみならず、悦に浸る監督のにやにや笑いに反吐が出る。ニュース番組で事足りる何かを映画館で観させられる観客こそ不幸である。 [映画館(字幕)] 0点(2007-05-04 23:57:25)(良:2票) |
5. ドミノ(2005)
やはりトニー・スコットの映画はキャスティングがいい。そしてトニーはすべてのキャラを立てる。役者たちがのりにのっている。のりにのるシチュエーションを与える、あるいはごく短い1ショットでさえ、役者たちの顔がそのキャラを際立たせる。ジャクリーン・ビセットとウォーケンの丁々発止のやり取りにわくわくしていただきたい、ビバヒル二人組に「運が良かったな」と言い放つマフィアの手下、そのさりげなくも強烈な一瞬の風情に感動していただきたい。その中で、キーラ・ナイトレイがとりわけ良い。■さらにお話が面白い。お話がわかりやすく、的確かどうかは知らないが、とにかくわかりやすく語られる。「トゥルーロマンス」のリメイクだったり、ガイ・リッチー風今どきだったりするんだけど、ま、いいじゃんと。いい加減、トニーもおっさんなんだから、もちっと丸くなろうぜ、とも思うが、ま、いいかと。■で、この過剰に過ぎるエフェクトなんだが、まいっか、ですますにはちょっと擁護しきれぬな、と思っていたのだが、ふと気づいた。これってゴダールじゃん。それがどうしたって話ではあるが。 [映画館(字幕)] 10点(2005-11-08 10:17:26)(良:1票) |
6. 告白(1970)
国家が本気になったら個人なんてどうとでもなる。当然と言えば当然な事実を厳然と突きつけられると、国家に対する恐怖というよりは、国家というシステムの合理性にしびれる。いや、ほんとにかっこいいんだ。クライマックス、法廷の裏側に簡易尋問室が並べられ、イヴ・モンタンをはじめとする囚人たちがいっせいに「管理官はどこ?」と騒ぎだすシーンのなんと恐ろしくもかっこよいことか。ファシズムに身を任せることの快楽。 [DVD(字幕)] 10点(2005-11-06 23:33:58)(良:1票) |
7. ランド・オブ・ザ・デッド
確かにこの映画は革命についての映画であり、「テロ」(@ジョージ・ブッシュ)についての映画であり、ジャンルとしてのゾンビ映画である。しかし、それ以上にこれは男泣きアクション映画、団塊の世代アクション、革命アクション、つまりカーペンターの「ニューヨーク1997」だ。あるいは「ワイルドバンチ」だ。「ゾンビになるのも悪かない」チョロに私は泣いた。■しかし、どうも演出に馬力がない。一人線路を歩いていくチョロの後ろ姿に、ダッダ~ン、ダダ~ン(←「「ニューヨーク1997」のテーマ」)みたいなシンセを入れろ、という問題でもなく、フィックス主体の古典的な画面構成が今どきの映画にそぐわない、という問題でもない。なんというか、粘りがない、気合いがない、抽象的で申し訳ないのだが、どうも普通。■思えば、ロメロは今まで男泣きアクションを撮ったことがない。彼が撮ったのは、ホラーに名を借りた社会派であり人間ドラマであった。今回の男泣きアクション宣言、その志やよし、しかし、残念なことに、悲しいことに、ロメロは旬を過ぎてしまったのではないか、と思う。 [映画館(字幕)] 5点(2005-08-29 18:36:10)(良:1票) |
8. 男の子の名前はみんなパトリックっていうの
可愛い可愛い可愛い映画。大好きっす。 10点(2004-03-08 12:55:48) |
9. ミニミニ大作戦(2003)
ラストのノートンの扱いなどかなり残酷だし、故買屋の雰囲気など、ちょいとドキュメンタリー風。セロンの扱いも結構深刻だ。ところが、そんなノワールな雰囲気と「ミニ」を使った軽快な泥棒映画が、まるで、あってない。「ミニ」を使う意味もないし、クライマックスで、冒頭と同じトリックを使うのもいただけない。セロンが金庫破りのプロって設定もまるで生きてない。要するにネタがなさすぎるのだ、この映画。実に中途半端。 3点(2004-02-22 04:26:48) |
10. O侯爵夫人
感情や、気持ちや、心理や、よーする、映画で描かねばならないとされてるあれこれを全く排し、ただ「お話」を語ることだけに特化した映画。だから、ここにカメラを置き、このレンズを使い、このような照明をし、役者はこう歩き、カットはこう割らねばならないのだ。「お話」がそうすることを求めているから、私は正しく、厳格に、夾雑物を排し、映画を創っただけだ。「説明」ショットだけっす、私は。ロメールがそう言うかどうかはわからないが、まず、この映画が素晴らしいのは、その「正しさ」にある。「正しい」ポジションに収まったカメラや照明や役者や編集を見続けることの快感。しかし、なぜ、このストイックな映画が、例えば「トム・ソーヤーの冒険」のようなわくわくを与えてくれるのか。ロメールで3本選べ、そう言われたら、私は迷わずこれを入れる。いや、映画史上の10本に入れるな。 10点(2004-02-21 23:59:01) |
11. プラットホーム
ホウ・シャオ・シェンなら然るべき位置にカメラを据えると、そのフレームの中で静かに恋人たちは佇み、あるいは緩やかに自然に、フィルムが回されているその時々の感情に応じて体を移動させるだろう。 しかし、この監督はあくまでも構図の中に立ち位置を設定する、役者たちに動き方を演出する。スクリーンの左半分を占める壁の中に役者たちを行き来させながら会話を成立させ、双子の姉妹は完璧な構図の中に立ち、カメラはその片方をフォローしながらパンすると、彼女は再び完璧な構図の中にやや逆光気味で立ち止まる。 それだけではない。映画の前半の主要舞台である城壁に似た壁、その見事なロケーション。客観ショットと主観ショットの錯綜、ラスト2ショットの時制を越えたつなぎ、トラックから顔を出す役者の動きとそのショット内でのタイミング、長く会わなかった父の不在、そして、父が経営する店で、父の愛人であろう女が登場する、その長い長い間。 つまり、過剰なる「演出」。 例えばカサベテスならば構図などどうでもよい、映画的な演出などどうでもいい、と言い放つだろう。最も大切なのはシーンシーンで醸し出される人間の感情なのだ、物語などは後からやってくるのだ、と。 ところが、である。この30そこそこの映画監督は、そんな映画史など知ったことじゃないようだ。 主人公の別れた彼女が踊るシーン、フラメンコ、従兄が差し出す金、主題をシンボライズする楽曲、街を遠ざかるカメラ。それらのあからさまな抒情を映画に導入するためには、余程の覚悟と勇気、そして才能が必要とされるはず。 しかしジャ・ジャンクーはカサベテスやホウ・シャオ・シェンが無効にしたはずの「演出」を楽天的なまでに信じている。それがいいことなのかどうなのか私にはよくわからない。ただ、映画の力への確信が「プラットホーム」をかくも感動的に、完璧な作品としていることだけは確かだと思う。 涙果てるまで泣いた。20世紀の追尾を飾る傑作。 10点(2004-01-17 11:56:20)(良:1票) |
12. 藍色夏恋
このタイトルで、台湾映画で、ってなると、自然光を生かしたロングショット、望遠レンズを多用し、長まわし、と、ホウ・シャオ・シェンの縮小再生産かい、って感じで、どーも観る気が起こらず、で、観たら、案の定そうで、しかも、深夜のプールやら、がらんとした体育館やら、自転車の高校生やら、登場するイメージがどうも陳腐で安直。やれやれと思ってみていたら、物語上のある仕掛けが妙に利きはじめ、そうなると、今まで陳腐だと思っていたイメージが俄然普遍性をもちはじめる。うむ、よくできた青春映画だ。よーする、こーゆーの好きな人にはこたえられまへん。「がんばっていきまっしょい」が好きな人は必見ですな。 7点(2004-01-17 02:51:20) |
13. ミレニアム・マンボ
日常の1シーンをただ切りとったかのような、何の作為も演出もみられない画が続く。観客は何を見てとればよいのか、ただ途方に暮れ、スー・チーの長い手足にのみ何らかの「感動」の残滓を読みとろうとする。その果てに、感情移入や物語や主題や演出や、つまり「映画」を巡るあれこれを突き抜けた、「透明」としか形容の出来ない叙情がある。これは感動的だ。身震いがとまらない。ホウ・シャオ・シェンの到達点であり、これは映画の臨界点だと思う。大傑作です。 10点(2003-12-30 14:52:34)(良:1票) |
14. フレンチ・カンカン
「感情移入できない」とか「主人公の性格が嫌」といった映画批評でよくみられる言葉は、ルノワールの前で全く無効となる。「人にはそれぞれ言い分がある」のだし、そもそも映画って万人が愛する人物像を描かなければならないの?この映画のジャン・ギャバンも相当嫌な奴だ。アルヌールはただの浮気者だし、その恋人も女々しい嫌な野郎だ。ところが、それがぜ~んぶチャラになる素晴らしさ。このカンカンを前にしたら、あなた、もう何の言葉も浮かびません。途中、一度曲が途切れ、アルヌールがポーズを決めた時、「え、もう終わるの?」のため息が観客から一斉にこぼれる。再び音楽が始まると、ほっとした空気が流れる、「ああ、まだ見れるんだ」。そして再び、観客の予想を遙かに超えた踊りが繰り広げられる。もっともっともっとこの踊りを観ていたい。できることなら一生見続けていたい、と思う。しかしエンドマークはやってくる。映画と自分との間に広がる果てしない距離を思い、絶望的になるのはその時だ。 10点(2003-12-08 00:50:51)(良:1票) |
15. 永遠のマリア・カラス
企業紹介ビデオのようなわかりやすい説明と、演出不在のお芝居と、運動感や躍動感の欠如した空疎に豪華なオペラの再現と、文化祭のポスターに「凄い絵だ」と魅了されるわけわかんない人々と、「マリア・カラスはなんでこんな倫理に欠ける企画にのっちゃうわけ?あ、やっぱラストはこうなるのか。最初から無理ない?」といった空虚な物語があるばかりで、肝心の「映画」はどこを探しても見つかりません。オペラが観たいならオペラを観ましょう。 0点(2003-12-07 21:02:29) |
16. 復活
テレビドラマのようなピカピカテカテカの照明と官僚的な演出。アフレコ台詞が、テレビドラマ感をさらに助長する。あのタヴィアーニ兄弟はどこへ行ってしまったの?ただし、タヴィアーニ兄弟作品だと思わずに見れば、お話は過不足なく面白いし、スケールも大きく、3時間はまぁまぁ退屈はしません。途中、休息の字幕が入るのだが、日本では休息時間をとってくれないのが不可解。 1点(2003-12-07 20:48:10) |
17. 汚れた血
カラックスは子供のように、駄々っ子のように、ただ「映画が好き」「あの娘が好き」とだけ言い続ける。SF的設定も、ビノシュを抱えて道路を渡りたかっただけなのだ。“ライムライト”も、なんとか許してあげて欲しい。彼はただ「映画」と「あの娘」に近づきたいだけなのだ、欲望のままに撮ってるだけなのだ。しかし、「映画」も「あの娘」もそんなカラックスを決して愛してはくれない。どんどん離れていってしまうばかりだ。スピルバーグなら適当なところで折り合いをつけるかもしれない、それが大人の分別だから。でもカラックスはとことん子供なのでその術を知らない。「嫌い」と言われても「好き」と言い続け、一人膝を抱えるだけだ。文字通り、そして恥ずかしいほどの青春映画です。。傑作と言うには痛切すぎる。失恋した時に観るといいよ、きっと。 10点(2003-12-07 12:52:04)(良:4票) |
18. 木と市長と文化会館/または七つの偶然
ロメールで一本を選べ、そんなこと言ったって…。今日の気分ではこの映画です。たわいない政治談義を適当に撮ったのに、どういうわけか、カメラはここに置き、この台詞でカットを割るのが唯一の正解に思える。映画史がそうしなさい、と言ってるかのように思えるのがロメールの凄さです。しかもミュージカル映画だっつうんだから、何だか、黄金時代のハリウッドはロメールにしか継承されてないみたいです。 10点(2003-12-03 22:00:41)(良:1票) |