Menu
 > レビュワー
 > 鱗歌 さん
鱗歌さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 3983
性別 男性
年齢 54歳

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : ソ連 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順1
投稿日付順1
変更日付順1
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  ひまわり(1970)
可憐なロシア娘を選ぶか、南イタリアの豪快なオバチャンを選ぶか、それが問題だ。 って、一体それのどこが問題なのよ、と言いたくもなるだろうけれど、そう簡単に割り切れないのが人生なのです。 戦争から帰らぬ夫を探し求め、ソ連を訪れた妻の前に、夫は彼の地で妻子を設けていたという事実が突きつけられる。戦争のもたらした悲劇。 冒頭、無数のひまわりが咲き乱れる中で、カメラがその一つの花へとズームしてゆくのが、あたかも、この映画で取り上げる物語は、無数の悲劇の中の一つに過ぎないんだよ、とでも言っているかのような。ラストも、無数のひまわりの花へと再びカメラが帰っていき、映画が終わる。 しかも、映画中盤でもひまわり畑が登場しますが、このイメージは、その少し後に登場する、林立する墓標のイメージにも重ねられます。本来であれば、「ひまわり」とは、陽光あるいは生命力を象徴するような花、にもかかわらず。 映画に何度か列車が登場しますが、画面の左から右に向かう方向への動きは不安な未来へ、右から左へ向かう動きは安寧の過去へ、の動きのように、感じられます。ロシアからの復員者を乗せた汽車は右から左へ。ロシアでマストロヤンニの姿を見たソフィア・ローレンが飛び乗る汽車は左から右へ。 そんな中で、ラストの別れは、左⇒右ではなく、右⇒左の動きであることに、ギクリとさせられます。もはや、すべてが取返しのつかない、過去へと封印されていくかのような・・・
[CS・衛星(字幕)] 10点(2019-02-12 22:20:20)(良:2票)
2.  ワーテルロー
フランス人の役ならフランス語でセリフをしゃべるべき、とは必ずしも思いませんけれども、本作の場合は、そういう言語でのコントラストを両軍につけてもよかったかなあ、と。あのボソボソとした冴えない独白がまったく効果を上げていなくって、だったらもう、せめて、ウェリントンが英語、ナポレオンがフランス語と、描き分けてくれたらもう少しサマになったのではないかと(もっとも、コルシカ島出身のナポレオンがフランス語で独り言を言うものやらどうなのやら、知りませんけどね)。 ま、そもそも、この作品に独白を導入したのは失敗だと思うし、ナポレオンという人物の描き方自体、あまりうまくいってるようには思われません。 しかし本作、何せ、売りは人海戦術。後半、これでもかと大量の人員を投入した、ウォータールーの戦いの描写が続きます。これもまあ、うまく撮れているかというと、むしろ「何を撮ってるのか自分でもわからなくなってるんじゃないの?」と思えてくるくらい、駆け巡る騎馬隊やら、戦場の空撮やらがあまり脈絡なく並べ立てられてます。この、制御しきれなくなって映画がカオスとなってしまっているのが、はからずも本作の独特の迫力に結びつき、魅力とすら結びついてしまっている、ってのが、これぞディノ・デ・ラウレンティス・マジックとでも言いますか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2018-11-23 03:36:21)
3.  デルス・ウザーラ
たき火を囲む人々、物音がして、デルス・ウザーラが現れる冒頭のシーン、ここを見たら「うわー(異国テイスト全開でもやっぱし)クロサワだぁ」とか思っちゃうんだけど、この作品、“上手く”撮られている映画、というタイプの作品ではなく(美しくは撮られているけれども)、自然の荒々しさをそのまま伝えるような、荒削りの感覚。ひたすらロングショット、時には人物がほとんどシルエットに近い状態にもなり、誰が誰やら、はっきり言って終盤のハバロフスクの隊長宅の場面になってようやく「ああ隊長ってこんな顔だったのか」とか思っちゃうんだけど(笑)、デルスの顔だけは、鮮明に脳裏に焼きつき、忘れられない。あまりにもいい味のオヤジ。厳しい自然を生き抜く自然児、ということで超人的な才能を発揮したりもするんだけど、その自然児ぶりたるや、あの『まあだだよ』の百閒先生に繋がるものが。しかしこちらの作品は厳しい。ひたすら厳しい。物語の中の登場人物のみならず、俳優、スタッフみな命がけ。第一部のクライマックス、夕闇が迫る中で草を刈り続けるシーン、息遣いをそのまま取り入れたもの凄い緊迫感。沈みゆく太陽の恐ろしいほどの効果、いや実際は何カットにも分け、何日もかけて撮影されたのかも知れないけれど、そんなこと考えも及ばない、寒さと恐怖を共感し、無事に朝を迎えられた時にはひたすらホッとする。これほどまでに自然は厳しいのに、しかも我々は映画冒頭でデルスに死を知らされているのに、彼は都会に住めないと言い、山へ帰っていく。その後の展開の、省略された描写が実に鮮烈。厳しい映画です。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2011-12-28 22:57:57)
4.  ベルリン陥落
キミョー奇天烈なる戦争映画。まず冒頭、アリョーシャとナターシャのラブラブな場面が描かれる(って言っても、このアリョーシャがまた冴えないオッサンなんだ、これが)。草原でラブラブな二人、と、そこに唐突に襲いかかるドイツ軍(ホントに唐突なんだ、これが)。ナターシャはドイツ軍の囚われの身に!復讐に燃えるアリョーシャ、と思いきや、彼は脇役に転落、映画はなんだか歴史ドキュメンタリみたいな様相に一変して、どっちかっつーと、途中からヒトラーが主人公になっちゃったみたいな印象(似てるんだ、これが)。変なニホンジンも登場したりして、トホホホホ。第2部ではいよいよソ連軍の猛反撃!って言っても、ソ連軍の快進撃ばかりで、派手な割にはいまいち盛り上がらない戦闘シーン。あれよあれよと言う間に、ベルリンは陥落、スターリン様ありがとう、マンセー!じゃなくてウラー!ってな映画でした(スターリンもまた、似てるんだ、これが)。スターリンが英雄視されてる、っちゅうより、もはや神格化されちゃってますね~。音楽はショスタコーヴィチ。交響曲7番なんかも挿入されたりするんだけど、はっきり言って、つまらな過ぎ。このぬる過ぎる音楽には辟易します。勿論、時代背景とショスタコの曲者ぶりを考え併せると、このヌルさをそのまま額面通り受け取るわけにもいかないのでしょうけど、「これがショスタコだと思ってほしくない」音楽であることは間違いないでしょう。というわけでまあ、変な映画には違いないんですけども、逆に、プロパガンダのためにはこんな変な映画を作っちゃうという驚き、この驚きだけは、時代を超えた普遍性を感じさせるわけで、これも映画の魔力の一種には違いありません。人に、国に、ここまでさせちゃう“映画”って、いったい何なんでしょうね。
[DVD(字幕)] 5点(2008-11-03 12:02:58)
5.  ノスタルジア
この映画に感じる、映画音楽「として」の強い印象。ここでいう映画音楽とは、作品内で引用されるヴェルディ(レクイエム)やベートーヴェン(第九)だけを意味するのではありません。映画の背景に流れるすべての物音、あるいは静寂までもが、音楽なのですね。と、これだけ言うと何だかジョン・ケージの受け売りみたいでアホ丸出しだけど、どっちかというと、私はこの映画「音楽」から、ルイジ・ノーノの作品などを思い出してしまうのです。断続する微かな音と静寂。この作品を表現するのに、「映像的な音楽」と言っても当たらないし、「音楽的な映像」と言っても違和感がある。水、炎、霧といった原宗教的な映像と、さまざまな音、微かな音が織り成す独特の流れの世界。この映画がイタリアを舞台にしているのは、「音」としてイタリア語の響きが必要であったから、とすら思えてしまうのですが、これはさすがに穿ち過ぎでしょうか。そして、その流れの先にあるのは、静かなる高揚と、あまりにも美しい徒労。・・・・・・そういえば、この映画「音楽」より思いが馳せるルイジ・ノーノ作品のひとつ、彼の晩年の作品に、以下のようなものがありました。『進むべき道はない、だが進まねばならない・・・アンドレイ・タルコフスキー』
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-04-20 16:26:44)
6.  スターリングラード大攻防戦
淡々と続く雪中行軍、そしてこれまた激烈ながら、どこか乾いた戦闘シーン。何だか無愛想で、それだけに映像はしっかり目に焼き付きます。当時の製作者の意図がどこにあったにせよ、国や時代によって受け止め方も異なり、今の我々が観れば、この映画から感じ取るのは厭戦気分。よってこれも立派な反戦映画。部下を危険な前線に追いやり、たまたま生き残った者には「よくやった」と、勲章をポイポイッとくれてやる。うーむ、まさに現代の企業における成果主義とそっくりではないか・・・(ブツブツ)。ところで、この映画、音楽を担当しているのは、20世紀を代表する大作曲家---と言っていいのかどうか最早よくわからなくなった---あのシュニトケですね。私も一時は彼の作品のCDを買い集めたり、彼の曲が取り上げられたコンサートに足を運んだりしたもんです。この映画の作られた72年と言えば、まだ彼が「多様式主義」へと足を踏み入れて間もない頃(丁度、音楽院の教職を退いた年でもあります)。彼の代名詞とも言うべき合奏協奏曲シリーズもまだ作曲されていない・・・。彼の曲と言えば、「交響曲○番」とか「弦楽四重奏曲○番」とか言う、いかにも絶対音楽っぽい、愛想の無いタイトル(?)が思い出されるわけですけど・・・内容的にはむしろ標題性が強く感じられるのは「多様式主義」の必然なのか(彼の交響曲からは、何となくショスタコの4番を連想してしまう)。そもそも彼は、そういう絶対音楽モドキの作曲者である以上に、かなりの時間を映画の仕事に費やした、映画音楽作曲家でもあるわけで。むむむ。あの「多様式主義」ってのは結局、有調無調何でもゴザレの、“映画サウンドトラック的音楽”に過ぎなかったんではないのかい、と思えてきちゃう。そう言うと何だか安っぽい。でも確かに、その安っぽさに、私が惹かれたということも認めざるを得ない。彼の作風もまた当然のごとく変化していき、私も戸惑いつつ、それを受け入れつつ、しかし結局は彼の音楽から遠ざかっていっちゃった。そして彼はすでにこの世にはいない。シュニトケの音楽は今後、どのように評価されていくのか。一時のモテハヤサレぶりはやはり過大評価だったのか、それとも映画音楽と純音楽を結ぶ記念碑的な作品群として再注目を浴びるのか。この映画の音楽を耳にしながら、改めてそんなことをフト思っちゃったりしたのです。
[DVD(字幕)] 7点(2007-02-22 00:19:33)
7.  戦艦ポチョムキン
1925年でコレですから、撮影技術自体は欧米よりは低かったのかもしれませんが、この驚くべき演出! ダイ・ハード観てるのかと思ったよ。ごめんそれはウソ。しかしこの時代にすでにこんな事までやってたのかと思うと、少し薄気味悪くすらなります。逆に言うと、これまで音楽や美術の表現方法のトレンドが激しく移り変わってきた事に比べたら、映画って、実は膠着してるのかも???
8点(2003-08-15 22:07:51)
8.  イワン雷帝
映画は総合芸術だ、なんてよく言われますが、総合芸術「だった」と言う方が正しいのかも。そりゃま、今の映画の方が絶対バランス良くて洗練されてますけどね。本作などは、あらゆる表現が何だかなりふり構わぬ全力投球という感じで、その神経の使い方は鬼気せまる程。もうア然ガク然。音楽はやっぱり、かのプロコフィエフだし。映画の極限の姿の一つだと思います。こんなの二度と作れないでしょ。しかし突然のカラーフィルム登場はビックリするね(これってもしやネタバレ?)。
9点(2003-08-14 19:29:07)
9.  アレクサンドル・ネフスキー
大作曲家セルゲイ・プロコフィエフが音楽を書いてることでも有名ですね。この分厚い音楽に乗って展開される戦闘シーンはなかなかの迫力。一部、「勢いのまるで無い弓矢」、「敵とチャンバラしながら振り向いて仲間と会話」などの脱力シーンもありますが、御愛嬌。
7点(2003-04-30 00:08:32)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS