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プロフィール
コメント数 1305
性別 男性
ブログのURL https://www.jtnews.jp/blog/20066/
ホームページ http://w.livedoor.jp/mushokamondai/
年齢 51歳
メールアドレス gurugurian@hotmail.com
自己紹介 ♪わたしの小さい時 ママにききました

 美しい娘に なれるでしょうか

 ケ・セラ・セラ なるようになるわ

 さきのことなど わからない


 大人になってから あの人にききました

 毎日が幸福に なれるでしょうか

 ケ・セラ・セラ なるようになるさ
 
 さきのことなど わからない


 子供が出来たら そのベビーがききます

 美しい娘に なれるでしょうか

 ケ・セラ・セラ なるようになるわ
 
 さきのことなど わからない ケ・セラ・セラ~


(2010.4.16記)


現在、ダイエットちう。腹筋、割れてるでー。




力を入れると。

(2011.8.28記)


↑ホームページのリンクを「朝鮮学校無償化問題FAQ」に張り替えました。特に「パッチギ!」ファンは、見てね。




これからもよろすく。





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1.  シベリア超特急
いや、皆さんの仰るとおり、出来としては最低で、反戦映画としてもサスペンスとしても破綻しているし、ツッコミ所も満載。んが、あの二回目の「どんでん返し」を観ながら、僕は何故だか妙に爽快・痛快な気分になってしまったのです。ちょっと話がずれるけど、現代ってとっても「自意識過剰」の時代だと思うんですよ。多くの人が他人の目を気にしてて、カッコ悪く見られる事を極度に嫌うし、だからやりたい事があってもなかなか出来なかったり、もしくは誰かの安直なモノマネになってしまったり。そんな風潮にあって、ここまで天真爛漫(いや、傍若無人か?)にやりたい事をやってしまう水野氏の姿には、何だかとても清々しさを感じてしまうのです。ある意味水野晴郎って、現代のドン・キホーテなんじゃないかな(当然ぼんちゃんがお供のサンチョ・パンサ)。本来のドン・キホーテが当時の世相に対する風刺であったように、ニコニコ笑いながら「シベ超」シリーズを作り続ける水野氏の姿は、その存在自体が「批評」になり得てる。そりゃ、風車に闘いを挑もうとするオッサンは滑稽だし、それを嘲笑う事は簡単だけど、でも多くの人が闘おうともしてないじゃん?と僕なんかは思います。あー、それにこの作品って実は水野監督の「映画」に対する熱~い想いがこもった「恋愛」映画でもあるんじゃないかな。つまり、昔からずうっと好きだった相手に、還暦も過ぎてからやっとの思いで出したラブ・レター。確かに文章はトンデモだし字もヘッタクソだけど、そんな「老いらくの恋」を嘲笑する事は、僕には出来んです。きっと「シベ超祭り」にも参加してるファンの方々の少なくない人たちがそんな水野監督の「想い」に打たれてるんじゃないかな…ちょっと真面目に書き過ぎたかもしんないけど、マジでそう思う。
7点(2004-08-12 19:09:16)(良:12票)
2.  パッチギ! 《ネタバレ》 
やられた!やられたチギよ、井筒監督!年初めからこんな素晴らしい青春映画を見せてくれるなんて!もーワタクシはアンタについて行くッチギ!でも実は、結構不安もあったチギ。個人的に井筒作品の中でもケンカ青春モノ(「ガキ帝国」と「岸和田少年愚連隊」)は苦手だったし、ひょっとして「スパイ・ゾルゲ」みたいな妙に啓蒙臭い、説明的な映画だったらどうしよう、と思ってたのだけど、そんなのは全くの杞憂だったチギ。確かに日朝の歴史とかに関して説明的な台詞もあったりしたけど、チッチッチ、そんなアラ探しをしていては本質は見えないチギよ。これは何よりもまず、あっつーい、ぬくーい青春映画であり、恋愛映画なのだチギ。恋を阻む障害を前にした若者が悩み、傷つき、壁を乗り越えようと奮闘する・・・その姿はいつの時代、どこの場所でもある普遍的なテーマだし、この作品はたまたま在日朝鮮人の少女に恋をした高校生の話だったというだけの事。そしてこの映画では沢山ケンカのシーンが出てくるけど、このケンカは往年の名作「トラック野郎」シリーズと同じく、決してただの「暴力」ではなく(その証拠?に鉄棒とかも使ってるけど決して頭は殴ってない)、「祭り」であり「コミュニケーション」であり「生きている証」なのだチギ。だからこそ何度も出てくる頭突き(パッチギ)や飛び蹴りが爽快で感動的で泣けるチギ。若手の俳優の演技もやたら熱いし(特に朝鮮高校の番長役の高岡蒼佑が主役を食う勢いで素晴らしい)、クライマックスシーンも大いに泣けるチギ。そうそう、これは他の井筒作品にも言える事だけど、この作品には絶対的な悪人が登場しないチギ。井筒監督は主役たちだけでなく、例えば朝鮮高校を目の敵にするいかにも体育会系右翼みたいな空手部大西も、或いは毛沢東かぶれのダメ教師も、後に学生運動に傾倒していく主人公の友人もそれぞれ愛情のある描き方をしてるチギ。登場人物たちの未来を暗示するラストに込められていたもの、それは「みんなそれぞれ考え方も違うから、生き方も違うし、時にはぶつかり合ったりもするやろ。でもそれぞれが、それぞれなりに精一杯生きていこうや。そりゃ生きてく中で色んな困難もあるわなあ。そーゆー時はな、パッチギかましたれ!」という力強ーいメッセージ、すなわち「生」に対する強烈な「イエス!」なのだ。おっしゃあ、俺も行くぜ、パッチギるぜ!
10点(2005-01-23 19:01:26)(良:11票)
3.  チェブラーシカ(1969)
<ある日の日記より>《○月×日》・・・また自転車を盗まれた。前の奴を盗られて買い換えてから、まだ十日足らずなのに・・・。犯人に対する怒りで体中が燃えるようだ。まるで「デビルマン」の、人類の残虐性を目の当たりにした時の不動明のような気持ちだ。心の中ではブランキー・ジェット・シティの「☆☆☆☆☆☆☆」がヘヴィーローテーションだ。いかん、このままの気持ちで街中を歩いたら、何をしでかすか分からない。こういう時は映画でも観て気分を紛らわせるのが一番。しかしハリウッド映画はいけない。最近のハリウッド作品は無駄に人を殺しすぎる。「マーズアタック!」も嫌いではないが、こういう気分の時に観る映画ではない。そもそも「狂気」を娯楽として消費できるのは、自分が狂気に取り憑かれていない時だけなのだ。・・・そうだ「チェブラーシカ」を観よう。裏切りと密告と官僚主義が跋扈していた旧ソ連で、なおも人間の善性を信じた男ロマン・カチャーノフが作った映画だ。きっと今の、人間不信の気持ちでいっぱいになったこの気持ちを浄化してくれるだろう・・・・・・「チェブラーシカ」に登場する人物に、一人として悪人はいない。ただ、それぞれが孤独を抱えている。チェブラーシカは自分が何者かもわからないまま見知らぬ土地に放り出されるし、ワニのゲーナは寂しさのあまり友達募集の広告を出す。そうして出会った彼らは寄り添いながら、自分の孤独を埋めていく。そう、あの意地悪な老婆シャパクリクでさえ、悪事を働くのは、ただ人に構って欲しいが故なのだ・・・・・・観終わると、知らぬうちに涙が溢れていた。そうだ、きっと自転車を盗んだ人も、ただちょっと寂しかっただけなのだ。もう少しだけ、人類の未来を信じてみよう。そして、次に自転車を買う時は、丈夫な鍵をつけよう。
8点(2003-12-06 15:36:38)(笑:1票) (良:8票)
4.  ゲド戦記
元々70年代に三部作として一旦完結した「ゲド戦記」の第四部「帰還」が91年に、更にその続編「アースシーの嵐」が01年に出版された。原作者ル=グウィンはそこで、元の三部作で構築した価値観を相対化・解体し、新たにジェンダーの問題や男性原理としての知の体系に対する疑問を提示した。言い換えれば、従来完結していた「ゲド戦記」の世界観をあえて揺さぶり破綻させた(そのため多くのファンを驚かせ、戸惑わせた)。ル=グウィンはなぜそのような、自らの実績を破壊しかねない無謀な試みをしたのか?一言で言えば、彼女が「ゲド戦記」を単なる現実逃避としてのファンタジーではなく、常に移ろう「現在」を映し出す鏡と捉えていたからだと思う。■さて、その映画化作品である本作は第三部「さいはての島へ」をベースにしつつも、単に筋を忠実になぞるのではなく、一度原作(第一部~五部と「外伝」)を解体した上で再構築している。第一部「影との戦い」で本来少年時代のゲドが演じた「自らの心の闇と格闘し、やがてそれを受け入れる」という役割をアレンに託し、更に彼に「父を殺め、死に怯えるあまり生を実感できずにいる」という設定を加える事で、本作をより現代的に発展させた(付け加えるなら、ゲドの仇敵クモは「成熟できずに肥大化した自我」という、これも現代的な問題の象徴かもしれない)。■つまり何が言いたいのかというと、この作品が「原作には忠実ではないが、原作者の真意には極めて忠実な映画」だということ。■更に本作をアニメ作品として捉えた時、そこには父・宮崎駿の存在がハッキリと見て取れる。テルーの演じた「健気で勇敢なヒロイン」という役割はかつての宮崎アニメには不可欠だったし、アレンとテルーが手を取り合って敵に立ち向かう姿は「ラピュタ」を想起させる。更に「生きることの意味」への問いかけ、という文脈で見るならば「もののけ姫」のテーマを継承しているとも言えるだろう(もちろん「エヴァンゲリオン」の影響も見逃せないが)。■嘲笑されることを承知であえて端的に言うならば「宮崎吾朗は宮崎駿ではなく、しかし宮崎駿の息子である」ということなのだと思う。■決して「傑作中の傑作」であるとは言えない。世界観の広がりのなさなど、欠点も指摘できる。しかしながら「偉大な監督の息子である」というプレッシャーがありながら監督を引き受け、作品を完成させたその勇気と決断に敬意を表したい。
[映画館(邦画)] 10点(2006-08-02 15:13:11)(良:8票)
5.  X-MEN2
昨日(5/9)の「虎ノ門」でさんざんこき下ろされてたこの「X-メン2」。曰く「こんなのは映画でもエンタテインメントでもない、ただのアトラクションで、観ても何も心に残らない」。ううっ、ひどいよ井筒監督ぅ~「スパイダーマン」は結構評価してたじゃないかあ。せめて前作観てから評価してよ。「X-メン」のところでも書いたんですけど、ミュータントっていうのは現代世界情勢の中の差別されていたり迫害されている国や民族の象徴だと思うんですよ。マグニートー(前作の悪の親玉。ミュータント)が実はナチに迫害されたユダヤ人ってところがミソなんです。ずっと迫害され、やっとの思いで自分たちの国を作ったユダヤ人が、じゃあ他人の痛みのわかる人々になったかって言うと、パレスチナの人々に対してかつて自分達がされたような迫害をしてたりするわけですよね(←別に僕はユダヤ人に対して悪意を持っているわけじゃないです。念のため)。そういう、なんていうのかなあ、単純にどっちが正義でどっちが悪とか、どっちが被害者でどっちが加害者とか(←何しろこの両者、時には劇的に逆転したりするんですから)単純に割り切れないこの世界を、かなり荒唐無稽で漫画チックとはいえ、表現してると思うんですよ、「X-メン」シリーズって。今回の映画でも(以下部分的ネタばれ)人間に対する怒りのあまりマグニートーについていく決意をした生徒が出てくるんですけど、これも僕にはテロリストとかゲリラに(やむにやまれず)なってしまう人たちとダブって見えるんですよ(別にテロ行為を是認するわけじゃないですよ、重ねて念のため)。そういう意味で、ホントいい映画だと思うけどなあ。・・・なんだか映画評なのに堅苦しいことばっかり書いちゃいましたけど、純粋に娯楽として、それこそ「アトラクション」としても楽しめると思います。これ、もう完全に「スタートレック」みたいなシリーズものとして作られてますね。凄く楽しみ(でも反面「キャラクター商品とかもいっぱい売れるんだろうなあ。高度資本主義社会って一体・・・」とか思ったりもしますが)。そうだ、キャラクターの中では、僕もはがっちさんと同じでナイトクロウラー(この人、「スパイキッズ」でテレビ番組の司会者やってた人かな?勘違いだったらごめんなさい)が良かったです。なんかすごく哀しい感じがして、キュンと来ちゃいました。ともあれ、これから観る人は是非前作で予習してから。
8点(2003-05-10 21:23:27)(良:6票)
6.  チャップリンの独裁者
こんな事言うと誤解されちゃいそうだけど、チャップリンはホントはこんな映画作りたくなかったんじゃないかと思う。もしナチスの台頭→第二次世界大戦という歴史の悲劇がなければ、彼は多分この作品や「殺人狂時代」は撮らずに、ずっと涙と笑いで溢れた呑気で素敵な作品だけを作り続けた筈だ。この、映画史上最も勇敢な作品によってチャップリンは英雄視(偶像視)されるようになったけれど、それは彼の本意ではなかったと思う。彼は立派な英雄になんてなりたくはなかった。ただ単に彼の愛するもの―ささやかな平和や人々の笑顔―を守りたかっただけなんじゃないだろうか。「独裁者」というとどうしてもナチスに対する風刺やラストの「世紀の六分間」の事ばかり大きく取り上げられ過ぎて、ともすれば他の場面はどうでも良いかの様に思われがちだ。しかし、例えばヒンケルの一時的なユダヤ人迫害緩和政策によって訪れた束の間の平和のある日、床屋とアンナとの初デートを皆が祝福しているシーン。アンナに「彼の様子を見て来て」と言われた女の子が仕事中の床屋を見に行って、アンナに叫ぶ。「まだ、はげあたまをみがいてるわよ!」。僕はこの作品の、こんな何気ないシーンも大好きだ。そもそもチャップリンが好んで描いたのは、偉人でも英雄でもない、しかし善良で愛すべき市井の人々ではなかったか。冷静に「映画」としての出来を見れば、この作品は特に優れているとは言えない。何人の方が指摘されているように全体的なバランスが悪いように思う。しかしそれは、彼の「止むに止まれぬ衝動」によって生まれた「作らざるを得なかった」作品だからだ。僕はチャップリンも、この作品も大好きだ。でもそれは決して彼が英雄だからでも「喜劇王」だからでもない。彼の数々の映画が、僕のようなボンクラにも「夢を見ることの大切さ」を(少し恥ずかしそうな笑顔で)語りかけてくれるからだ。
[ビデオ(字幕)] 10点(2005-08-15 16:08:51)(良:6票)
7.  ラスト サムライ 《ネタバレ》 
皆さん仰られてる様に時代考証的なミス・ツッコみ所は満載。でもいいじゃん、別に。映画鑑賞は「間違い探し」じゃないんだし(そういう観方も否定はしないけど)、それを言えば「座頭市物語」だって非現実的だし、「七人の侍」だって史実的間違いはある。要は「何を描こうとしたか」を観客に届けることが出来れば、映画としては成功なんじゃないでしょうか?・・・・・・何ですって、それでも「ツッコみゴコロ」を抑えることが出来ないと仰る?そういう場合はこれを時代劇ではなく、日本に良く似た国を舞台にしたファンタジーだと思えばいいんです!以上(とは言え、流石にニンジャの登場と「総土下座」のシーンにはちょっとビックリしたけど)。さて、本題。本作の主役はやはり、トム・クルーズではなく、やはり渡辺謙であり、真田広之であり、又は役名すら与えられていない侍たちであり、もっと言えば「古き物に殉じて死んでいった者達の魂」なのだと思います。結局最後はトム・クルーズだけが生き残るので一見美味しい役のようだけれど、やはり印象に残るのは華々しく散っていった男たちの姿。トム・クルーズもその辺は承知していて、敢えて「一見美味しいけど実は引き立て役」を引き受けたのでは?と感じるのは深読みのしすぎでしょうか?刀だけでなく肉体全体を使った大迫力の殺陣のシーンも素晴らしかったけれど、あの、背筋をピンと伸ばして馬に乗る武士たちのシーン!涙なしには観られませんでした。これを良い刺激材料として、日本も面白い時代劇を沢山作ってほしいものです。
8点(2004-02-03 17:42:49)(良:5票)
8.  フライトプラン 《ネタバレ》 
んえ!?何で?普通にハラハラドキドキ、面白かったじゃなーい。娘を探し出そうと、恥も外聞も他人の迷惑も顧みずに孤軍奮闘するジョディ・フォスターの姿には素直に感動したし、クライマックスの攻防戦は「エイリアン2」のシガニー・ウィーバーのようでした。やっぱ子を守る母はつおいのだ。「トリック」が杜撰だという意見もあるけど、んでもあんまり緻密で完璧なトリックにしちゃって、実際に真似されたら困るじゃん、ねえ?アラブ系の人の扱い方も、あれで良かったと思います。ただ、、敢えて難を言うとラスト、娘を抱えながら毅然と歩むジョディ・フォスターを周りの乗客が「すげえな」とか言いながらザワザワするというシーンになってたけど、あそこでもう一回「拍手」させればより良かったんじゃないかなあ。つまり中盤の「拍手」と全く意味合いの違う拍手を繰り返すことで、より感動的になったんじゃないかな(ただしBGMはそのままで。音楽まで感動的にしちゃうと安っぽくなるから)、とちょびっと思いました。■<おまけ>:少し前読んだ鴻上尚史のエッセイに、イラク人捕虜を虐待した容疑で処分された米軍人の妻が、処分に対する不満を訴えた、という話と、イラクで人質になった日本人の家族が日本政府に自衛隊のイラクからの撤退を求めてバッシングされた話を例に、「個人と集団(≒共同体。日本的な言い方をすれば『世間』)」という概念の、日本人とアメリカ人との違いみたいなことを論じていた。乱暴な言い方をすれば、アメリカ人は「集団」と「個人」を対等なもの、時には対立しうるものと見なすのに対し、日本人は「世間」を前にするとどうしても萎縮し、個人よりも優先させてしまいがち、という事。だからって別にアメリカ人が日本人よりも成熟した「個」を確立しているとか、日本人の方が公共意識が高いとか、そーゆー単純な話ではないんだろうけど、この映画のジョディ・フォスターの振る舞いに対して不快感を示す人が多いというのも、ひょっとするとお国柄の表れなのかな?と、思いました(もっともアメリカ人の一般的な観客がどう感じたか知らないので、比較は出来ないのだけれど)。  
[DVD(字幕)] 9点(2006-10-13 18:42:23)(笑:1票) (良:4票)
9.  スチームボーイ STEAM BOY
すごく乱暴で大雑把な言い方をすれば、作家(映画監督に限らず、だけど)は1.受け手に対するサービス精神が作品に現れる、「大衆性」を持ったタイプと、2.自らの「表現衝動」をまんま作品にブチ込んでしまう、「カルト性」を持ったタイプの二種類に大別出来ると思う(これは別にどっちが良いとか悪いとかではないです、念のため)。例えば(少なくとも80年代までの)宮崎駿なんかは前者で、大友克洋は明らかに後者だ。で、今回の作品でも大友克洋がもっとも表現したかったのは噴き出す蒸気や各種のメカ・兵器、そして父親と一体化し英国の街を蹂躙するスチーム城(だけ)で、実は「少年が主人公の冒険活劇」とか「科学は果たして人に幸福をもたらすのか?」といったテーマはどーでもいい、というのは言い過ぎかもしれないが、あくまで「あと付け」だったのではないかと思う。実際大友監督はインタビューで、「少年が主人公の冒険活劇」をテーマにした理由について「新作ではコンピューターを導入したりすることで予算がかかるので、(資金を回収するため)マニアックなものではなく、低年齢層にもウケるような間口の広い作品にしたかった」という趣旨のことを語っている。しかし、例えば「イノセンス」は決して間口の広い作品ではないにもかかわらずヒットしたし、少し前の作品だが「エヴァンゲリオン」も(興行成績的には)大成功だった筈だ。そう考えると妙に「ウケ」を狙った「ラピュタ」の二番煎じのような作品よりも、「ウルァ!こっれっがっ大友克洋ワールドじゃあああ!」ってな感じの作品のほうが良かったし、ちゃんとヒットもしたのではないかなーと思う。多分今って「アキラ」の頃より「世界のオタク化」が進んでるしね、良くも悪くも。
5点(2004-07-27 15:51:14)(良:5票)
10.  グッバイ、レーニン! 《ネタバレ》 
ストーリーの前半の情報(ピクルスや偽ニュース番組など)を観る前に知ってしまっていたせいか、中盤は少しかったるく感じてしまった所もあったのだけれど、主人公が最後に作った「偽ニュース番組」での演説シーンで、あふれる涙を抑えることが出来なかった。元々母親にまだ社会主義体制が存続していると信じさせるために作っていたニュース番組は、最後には主人公の理想社会―強欲を捨て、他人に対する思いやりを持とう―を(実は観客にも)訴えかけている。この演説シーンを観ていて「独裁者」のあの演説が脳裏に浮かんだ、と言えば怒られるだろうか?確かにナチが台頭する中でのチャップリンのあの主張は非常に勇気あるもので、それに比べるとこの作品での演説はごく控えめで、ささやかなものだ。しかし、世界がグローバリズム化(総アメリカ化)の方向に向かい、誰も彼もが「勝ち組」になろうと醜い椅子取りゲームに明け暮れている現代、その主張は素朴かつシンプルであるが故に観客の心を強く打つ・・・・・・って、おっとっと、いつのまにか文章に力が入りすぎちまったぜい。要はとても良い映画なのでみんな観てねーって事です。蛇足ながら個人的には、大好きなチュルパン・ハマートヴァがヒロイン役で出演していたのが、予想外の嬉しいオマケでした。<追記>はうっ!いつの間にかこんなに「良」評価が・・・最近DVDで観直しました。映画館で観た時はプロットの面白さに目が行ってしまったのですが、改めて観ると息子の母を想う気持ちが伝わってきて心に沁みました。良い作品は、観る度に新たな発見・感動があります。
9点(2004-04-02 20:37:40)(良:5票)
11.  素晴らしき哉、人生!(1946)
・・・・・・また、素晴らしい映画に出会ってしまった。「美味しんぼ」の京極さん風にいうと「なんちゅうもんを見せてくれるんや・・・」ですわ。10代の頃は「冷酷な死神」と呼ばれていたワタクシも(嘘)、この頃は年のせいかすっかり涙脆くなって(これは本当)、ちょっといいシーンとかでもウルッときちゃう今日この頃ですが、えぐえぐと号泣したのは久しぶりです。そりゃあ世の中そんな甘くないよ。こんなのファンタジーよ。でもだからって人生のマイナス面ばっかり見なくてもいいじゃん!たまには甘い夢もいいじゃない!そりゃ、人のマイナス面や人生の辛さを描いた作品で素晴らしいのもあるけどさ、そればっかりだと疲れちゃうよ(淀川長治さんによると、キャプラの理想主義的作風は、時にキャプラ・コーン=甘ったるい砂糖菓子と揶揄されることもあったとか。そんなに辛口が好きならキムチにタバスコかけて食ってろ!と言いたい)。とにかく心あったまるし、おしゃれな笑いもあるし、切ないところもあるし最高!まさに“It`s a wonderful movie!"素晴らしき哉、映画!
10点(2003-05-14 22:01:15)(笑:3票) (良:2票)
12.  華氏911
マイケル・ムーアという人はドキュメンタリー作家というより寧ろ、既成の素材を編集して独自の解釈を示すコラージュ的手法(戦場の悲惨な現実の後に政治家のコメントを挿入したりするのが良い例)、あるいはヒップホップにおけるサンプリングに良く似た手法に秀でた作家だと思う。この作品で扱われている映像は、確かに「事実」の断片ではあるが、あくまでムーアの「解釈」が介在しており、全体的な「事実」とは言えない。例えば同様の手法を用いて(あまり良い喩えではないが)「夜の渋谷をたむろする女子高校生はほとんどが売春している」とか「北朝鮮は喜びと幸せに満ちた、素晴らしい国だ」というような「ドキュメンタリー」も(理屈の上では)作ろうと思えば作れる。だからこの作品で提示される「事実」とマイケル・ムーアの「解釈」を鵜呑みにして「アメリカひでー!ファックブッシュ!」というのはあまりに安易で危険だ、と僕も思う。 駄菓子華氏!そういう点を差っ引いてこの作品を観ても、その「事実の断片」に現れているあまりにグロテスクな現実―イラク復興を完全に「ビジネス」と捉えている企業家の発言や、「ムーアの強引なこじつけ」というには余りにもキナ臭い、ブッシュ一族とサウジ王家のつながり等々―に衝撃を受けずにはおれない。僕は日本で出版されているマイケル・ムーアの著書は全て読んでいるし、その中で書かれている事も映画に数多く登場したが、やはり文章で読むのと映像を観るのとでは、感情に訴えかけるインパクトが全く違う。 また本作はブッシュ叩きの作品というよりも、寧ろ非常にエモーショナルで即効性のある反戦映画として秀でていると思う。被害にあった一般イラク人の悲痛な叫び、米兵の率直な物言い、また彼らの感情が次第に壊れていく過程は、どんな軍事評論家の論説よりも戦争の悲惨さを物語っている。ニール・ヤングのエンディングテーマも非常に効果的で、例えばボブ・マーリィの「立ち上がれ、自らの権利の為に。闘いを投げ出すな」というメッセージが聴く者を高揚させ、奮い立たせるのと同様、観る者の心を強く揺さぶる。その結果、(アメリカ国民なら)ブッシュ以外に投票するか、あるいはもっと積極的に反ブッシュキャンペーンや反戦運動に関わるか、事実をより知るべく様々な本を読むか、また「果たして自分には何ができるのか」と考えるか。それはあくまで各々の観客に委ねられているのだと思う。
10点(2004-09-01 20:26:54)(良:4票)
13.  グエムル/漢江の怪物
なによりもまずこの作品は、「モンスターパニックもの」として高水準のエンタテインメントに仕上がっている。怪物<グエムル>を「熊やワニよりはるかに大きいが、ゴジラよりは小さい」サイズに設定した事で、迫力や恐怖感に説得力が生まれているし、国や軍隊ではなく個人に焦点を当てて等身大の物語を描いたのも正解だったと思う。つまり「普通に面白い」。■加えて、随所に見られる「ポン・ジュノ」印。例えば合同葬儀会場のシーン。一家が報道陣に囲まれ、フラッシュがたかれる中、ペ・ドゥナのジャージの背中が「ぺろん」とめくれる。孫の死を嘆き悲しみながら、父親は思わず娘のジャージを引き下げ、横暴なマスコミに怒る。「悲しみ」と「羞恥心」と「怒り」という、普通同時に並列し得ないものが並列する面白さ。■また、人物描写の豊かさ、それを通じて韓国の社会や歴史をさりげなく見せる巧さ。例えば軍政時代を経験しているであろう父親は、警官に対して媚びた笑顔を浮かべながら「袖の下」を渡そうとするし、学生による民主化運動をくぐり抜けた次男は逃げることと火炎瓶の扱いに長けている。■さらには一作目「ほえる犬は噛まない」にも見られた、話の流れをありがちな展開からずらし、観客の予想を良い意味で裏切る、ある種のユーモアも、いかにもポン・ジュノらしい。■ポン・ジュノらしいと言えば、容易に観客に感情移入させない、「抑えた」表現も個人的には好ましい。彼はいかにも「お涙頂戴」的な感情表現を使わない代わりに登場人物にひたすら「行動」させる。雨の中、或いは下水の中、彼らは己が行動を台詞で説明することなく、ただただ逃げるために走り、追うために走り、しばしば転びつつも、怪物に対して勇敢に立ち向かう。つまり「ベタ」ではないが「エモーショナル」なのだ。■ラストに関しては、賛否分かれる、というより「否」の意見が多いかもしれないが、個人的にはあれで良かったと思う。ポン・ジュノは常に「違和感」と「居心地の悪さ」を異化効果的に駆使する、確信犯的作家なのだから。
[映画館(字幕)] 9点(2006-09-03 18:16:49)(良:4票)
14.  モンスター(2003) 《ネタバレ》 
不幸な境遇の為、娼婦として生きていかざるを得なくなるアイリーン。劇中でも語られていたが、彼女にとって社会は「戦場」であり、男たちは「敵(もしくは“獲物”」でしかなかった。客観的に見れば身分不相応に思える典型的「アメリカン・ドリーム」を抱き、教育を十分に受けられなかったため娼婦以外の生き方が出来ず(彼女が弁護士の秘書の面接に行くシーンは、とてつもなく滑稽で、残酷だ)、やがて連続殺人という「魔道」に堕ちてゆく彼女の人生は痛ましい。しかしもっとも悲痛なのは恋人セルビーとの関係。アイリーンは「自分を必要とする人間」が必要で、それはセルビー以外にありえなかったし、なおかつ彼女には自分の存在以外に失うものは何もなかった。一方のセルビーは、「自分を認め、庇護する存在」を必要としていたが、それはアイリーンでなくても良かった。そして彼女はアイリーンと違い、(同性愛には無理解であるにせよ)両親がいたし、それなりの将来性があった。最終的にはその違いが二人を分かつことになる。この、埋めがたい断絶、それがこの上なく哀しい。劇中でアイリーンが好きだといっていた曲がエンドロールで流れるが、それがまるで彼女に対する鎮魂歌のように思えた。なんだかいかにも80年代的な軽いノリのヒットソングという感じではあるのだけれど、彼女の哀し過ぎる一生には妙に似つかわしい。
9点(2004-10-24 18:52:19)(良:4票)
15.  パッチギ! LOVE&PEACE 《ネタバレ》 
今思うと、前作「パッチギ!」は(井筒作品としては例外的と言えるほど)ウェルメイドな作品だった。だからこそ井筒作品に触れたことのなかった観客にも受け入れられた。それゆえ今回の作品に同様のものを(意識的・無意識的に)期待した観客の中には期待や予想を裏切られ、失望した人もいると思う。かく言う自分も最初に観た時は唖然とした。前作以上に映画に盛られたいわゆる社会的・思想的要素。露骨に、赤裸々に「差別」が語られる(余談だが、ここまで差別を正面から扱った邦画は、皆無とは言わないまでもそれほど多くはない。アメリカ映画では珍しくないのだが、邦画の枠で考えると突出して見えるのかもしれない)。そして、多くの要素―朝鮮人差別や戦争、芸能界、家族、孤独、絶望、そして「難病モノ(!)」―がこれでもかとばかりにブチ込まれていることもあり、前作と比較すると物語や整合性が破綻しているし、混乱しているとさえ言える(ネタバレになるが一例を挙げれば、結局難病の子供は死ぬ訳でもなく治る訳でもない。つまり何らかの分かり易い決着もなく、「投げられっぱなし」なのだ)。■井筒はなぜ、前作以上に予算も公開規模も増え、また観客の期待も上がった作品でこのような「暴投」をしたのか。たぶん、彼が本当に喧嘩を売っているのは石原慎太郎などではなく前作に“安住”する「観客」に対してなのだ。前述した様々な要素を「どやねん!」とばかりに無造作に、ぶっきらぼうに提示し、挑発する(まるで「怒劇」の森崎東のように)。インタビューで彼は「日本の歴史」やら「家族の絆」やらテーマめいたものを語っているが、本当に言いたかったことはそんな言葉で語れるものではない(言葉で語れるものを表現するなら、映画なんぞ撮る必要はない。「ゲルニカ」が単に「反戦」を訴えたいだけのものなら、ピカソは「戦争反対!」と描けば良かったのだ)。彼は「日本の歴史」「家族の絆」「差別の実態」といった言葉では表現できないもの(或いはそれら全てを含んだもの)、映画でしか表現し得ないものを「映画的」としか言いようがないやり方であぶり出し、さらけ出そうとした。この作品で「思想」や「メッセージ」はあくまで表層的なものでしかない。■この作品は「読む」映画ではなく「観る」映画。つまり本当の「映画」。誰が何と言おうと断然支持します。
[映画館(邦画)] 10点(2007-05-24 16:42:13)(良:4票)
16.  幻の湖
実は登録した時点では未見だったのですが(ゴメンナサイ)、今年のクリスマス・イブの夜、オールナイト上映で観ました。確かこの作品の上映は十時時半位からだったのですが、その時点でかなり眠くなっていて、その状態で無意味にねちっこくてかったるい描写を延々と見せられるのははっきり言って苦痛、いや拷問で、何度も気を失いそうになりました。しかし、主人公が東京で愛犬の仇・日夏と対決(?)するシーンですぱーんと目が覚め、場内もそれまでテンションが低かったのがここで一気にヒートアップ。場内は爆笑・歓声・拍手の渦、果ては走りつかれ、息も絶え絶えのヒロインに「頑張れぇ!」の掛け声まで。しかしそこから再びトーンダウン、やはりだらだらと続く戦国時代のシーンで再び襲い掛かる睡魔。しかしヒロインと日夏がトルコで再会し、白熱のリベンジマッチの幕が切って下ろされる所から再び盛り上がる場内。二人が良く分からない独白をつぶやきながら延々と続く不毛な追いかけっこ、いやクライマックス、そしていよいよ日夏を追い詰めた!背中の包丁を両の手に握り締め、日夏に詰め寄るヒロイン、そしてブスッ!ドーーーーン!・・・・・・「そ、そうか、、あの拷問のような時間は、この瞬間のためのものだったんだ・・・」という、カタルシス、いやエクスタシー!ワタクシはこの時、冗談ではなく「映画的瞬間」を味わったのでありました。・・・まあこの作品の駄目な所を挙げればキリがないのは充分承知しているし、駄作を殊更褒め上げてスノッブを気取るつもりも毛頭ないのだけれど、映画を「客観的に鑑賞」して語るのではなく「個人的な体験」として語る事こそ正しいレビューのあり方だろう(あくまで、自分個人の話ですが)と思うし、あんな場内の観客の一体感を味わったのも初めての体験だったので(もし家で一人で観ていたら、全然印象が違うと思うのだけれど)、この点数です。・・・しかし、今年最後のレビューが、こんなんで良いのだろうか?
[映画館(字幕)] 9点(2005-12-27 16:20:59)(笑:2票) (良:2票)
17.  ジョゼと虎と魚たち(2003) 《ネタバレ》 
ごめん、俺この映画好き過ぎて、いつもみたいにはよぉ語られへん(だから今回は「ゲロッパ!」以来の擬似関西弁。【なにわ君】さん、文体パクってすんません)。何かなぁ、よく映画の登場人物に感情移入しすぎてなり切っちゃうのってよくあるやん?「ロッキー」とかブルース・リーの映画とか。んでな、俺この映画見終わった後、まるで自分が常夫になってジョゼと永遠のお別れをしたような気持ちンなって、しばーらくの間ごっつ哀しくて切ない気持ちだったんよ(笑てもええよ)。あのラストの「ドサッ」と、くるりのエンディング・テーマ、思い出すだけで泣けてきて・・・何やろね、俺そんな恋愛経験豊富じゃないけど、あの映画で描かれてる男の身勝手さ、ずるさ、情けなさがごっつ身に沁みた。ジョゼは強いよなー、ほんで男は弱いよなー。前、渋谷陽一がラジオでジャニス・ジョプリンの「クライ・ベイビー」をかける時「男は恋愛では絶対女に勝てない。何故なら恋愛に関して男はアマチュアで女はプロで、アマチュアはプロに絶対勝てないから」と言ってたけど、ホンマそうかもしれん。あ、あと映画に関してもう一個だけ。この映画、ヌードやベッドシーンがいらんっていう意見が結構あるけど、俺はあれ、必要やったと思う。基本的にこの映画、ある種ファンタジーっぽいとこもあるから、ちゃんと「性」に関して描かないと、地に足の着いてない絵空事みたくなって、説得力減ったんと違うかな。初めてジョゼと常夫が結ばれるシーンで、夕焼けの中ジョゼが布団を敷く所とか、凄く生々しくてドキッとさせられたし。説得力といえば、あのジョゼの住んでたトタン住宅とか、近所の幼い姉妹とかも、やけに生活感があってリアルに思えたな・・・あれ、俺「よぉ語られへん」とか言うときながら、結局語っとるやん。やっぱ、一生野暮天なんやろなぁ。野暮ついでに最後に一言、これ、ひょっとして若い人よりもある程度年いってはる人のほうがグッと来るかも知れん。「取り戻せない、かけがえのない日々」の映画だから。あーでも痛い失恋してまだ立ち直ってない人にはキツすぎるかもな。<追記>その後、原作も読んだんやけど、映画化に際して原作の雰囲気を損なわずに物語を再構築した脚本に改めて感服。脚本の渡辺あやさんは、この作品が実質的デビュー作らしい。犬童監督とは作風が合っていると思うので、今後も二人のコラボ作品を観てみたいです。
10点(2004-09-03 18:18:14)(良:4票)
18.  靖国 YASUKUNI 《ネタバレ》 
結論から言うと、非常に面白かった。観る前に内容に関する情報を色々見聞きしていたのだけれど、それでも面白さが損なわれなかったのは、ひとえに映画の力、作り手の力量だろう。そもそも「靖国」という題材、「靖国」をめぐる状況が(不謹慎と思われるかもしれないが)非常に面白い。例えば、靖国に抗議して式典に乱入する若者が登場する。彼は靖国支持者たちに取り押さえられ、ボコボコにされる。彼は日本人なのだが、中国人と勘違いした中年の支持者は彼に対し延々と「中国へ帰れ、この野郎」と(最初は怒鳴るように、徐々に呪文でも呟くかのように)繰り返す。一方リンチにあった若者は「救急車に乗ったら」という周りの声にも耳を貸さず「こんなの(日本の侵略によって被害国にもたらされた傷に比べれば)大したことない」と激昂しながら叫ぶ。そのような凄惨な状況の中、式典会場の「君が代斉唱」が粛々と鳴り響く・・・というシーンはまるでよく出来た不条理劇のようだし、非常に「映画的」だ。また、この映画に登場する人物の、例えば先に述べた若者、終戦記念日に軍服姿で参拝する右翼風の人々や元軍人と思しき老人たちの姿。彼らはいたって真剣なのだが、一方でその真剣さゆえにどこか滑稽さも漂わせている。■こうした要素だけで映画を作れば、或いはキワモノ的な作品にもなったかもしれない。しかし、そうした靖国神社をめぐる喧騒とは対照的な「靖国刀」を打つ老刀匠の姿を登場させることで、そのような作品になることは回避される。長きに渡って刀を打ち続けた「職人」に監督は静かに語りかけ、カメラはあまり饒舌でない刀匠の姿をじっくりと捉える。彼のいわば「静」的なシーンと、前述の「動」のシーンとが交互に登場することで、映画にメリハリと躍動感を与えている。■そしてこの映画は、靖国神社が「お国の為に戦って」死んだ人々、批判的立場から言えば「侵略戦争に加担した」人々の魂を祀り、顕彰するための神社である、という側面にも当然言及する。それこそが上映前に物議をかもし、一部の人々に「反日映画」と言わしめた部分なのだが、少なくとも自分にはこの作品が「反日」とは思えなかった(そもそも「反日」という表現が多分に恣意的で曖昧だし、仮に「反日」映画であったとしても構わないとは思うが)。確かにこの作品には、遺族の合祀に反対する台湾人や僧侶も登場するが、一方でごくごく普通のおじさん、おばさんが靖国神社や小泉元首相の支持を語るシーンもあり、単純に靖国神社や日本という国を非難し断罪するような作品にはなっていない。■この映画をめぐる議論で「はたして中立的な映画と言えるのか?」という主張が見られたが、そもそも映画(だけでなく様々なジャンルで)が「中立的」である必要はないし、実際厳密な意味で中立的であることは不可能であろう。この作品もその意味において「中立的」ではないが、多面的・重層的な作りになっていると思う。「英霊」を祀る靖国に涙する人がいる一方で、怒りの涙を流す人がいる。刀匠が打つ刀は優れた芸術品であると同時にかつては多くの人々をあやめた道具でもある。こうした様々な側面を捉えたからこそ、この「靖国」は「映画」として素晴らしいし、かつ観た者を「靖国」という、非常に込み入った状況と向かい合わせる、エンタテインメント性と社会性を見事に両立させた稀有なドキュメンタリー映画になり得たのだろう。
[映画館(邦画)] 9点(2008-06-02 19:39:20)(良:4票)
19.  太平洋奇跡の作戦 キスカ
うにゃあ~、先にあまみさんのような方にレビューを書いていて頂けると、楽ちんです~。後はただ「面白かったです」だけでもオッケーなんだけど、そぉだなあ…この、針に糸を通すような、或いはピアノ線の上を綱渡りするような作戦を遂行するというドキドキハラハラなドラマ、実に見応えありました。あと、この手の第二次世界大戦を舞台にした戦記映画って何となく右翼っぽいというか、悪い意味での懐古主義みたいなものがあるような気がして敬遠してたのだけれど、ちょっと意識が変わりました。少なくともこの作品は、戦争や戦時中の日本軍を美化しているのではなく、戦時という(殺し合い、奪い合う事が目的の)極限状況の中でも人は生きようとし、そして生かそうとした、というドラマがあったのだ、という「人間賛歌」のひとつの形ではないだろうか、と思われました。・・・ところであの気象官、児玉清が演じてたんですねー・・・なぜ、角を取らない・・・いや、ちょっと言ってみたくなっただけです(笑)。
[ビデオ(字幕)] 8点(2005-06-04 16:07:42)(良:4票)
20.  ダンボ(1941)
さいしょダンボが、みみがおおきいからといってばかにされるところがすごくかわいそうでした。ダンボのおかあさんはダンボをまもろうとしたのにろうやみたいなとこにいれられてしまうのはひどいとおもいました。おかあさんといっしょにいられなくなったダンボをほかのぞうがいじめるところはすごくはらがたちました。ぼくはよわいものいじめをするひとがだいきらいです。だからおはなしのなかにはいってダンボをたすけたくなって、おかあさんにいったら「それは、ぎゃくさだこだね。」といわれました。でもやさしいねずみがダンボをたすけてくれたのでよかったです。あととりたちも、さいしょはいじわるだったけど、ダンボのみかたをしてとぶのをてつだってあげたのでえらいとおもいます。ダンボはほんばんでまほうのはねをなくしちゃうけどそれでもとべたのは、ダンボがさいしょからとぶちからをもっていたからです。ひととちがってても、ひとよりすごいことができるのはすごいとおもいます。とてもいいえいがだったので、みたあとおさけをいっぱいのんで、ピンクのぞうをみました。/先生のコメント:ダンボはとても可愛いですよね。でも幼稚園生がお酒を飲んではいけませんよ。
8点(2003-06-01 22:18:29)(笑:3票)

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