1. グラン・トリノ
《ネタバレ》 俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。 ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。 そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。 ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。 それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。 彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。 やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。 そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。 戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。 タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。 俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。 [映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 12:14:04)(良:7票) |
2. ゼロ・グラビティ
《ネタバレ》 全くの無音から無線音への音のグラデーション、 相変わらずのレンズ前に付着させる水滴、 客観から主観への移り変わり、 これらは映画であるということの証明であり、 また圧倒的な映像力で見せる長回しは、 時間を断絶させないリアリティへの追求。 全くもって事実ではないことを尤もらしい事実のように描ききる巧みさ、 これがアルフォンソ・キュアロンの映画である。 サンドラ・ブロックの涙は無重力空間で水滴の塊となり浮遊する。 浮遊する水滴の塊は徐々に彼女から離れる。 フォーカスは水滴に送られる。 この現実的ではあるが(宇宙空間という舞台が現実的かどうかはさて置き)、 これはカメラが撮っている映画である ということへの固執こそがキュアロンであり、 このショットは、この映画は3Dで観なければならない ということを最も訴えているだろう。 なによりもこれはサンドラ・ブロックが「掴む」映画だ。 必死に生きようとするために掴む。 ジョージ・クルーニーとを結ぶロープを、 宇宙船の外壁を、突起物を、消化器を。 何かを掴み、何としてでも生きようとする。 そして彼女が最後に掴むもの、それは土、地球の地面の土。 やっとの思いで水中から陸地へと這い上がり土を掴み握り締める。 そして立ち上がろうとする。 しかし重力に屈する。 しかし彼女は笑うだろう。 何故ならば重力を感じているからだ。 生きて地球に帰ってきたという証だからだ。 そして再び立ち上がろうとする。 そして地球の大地を二本の脚で踏みしめる。 そしてタイトル「GRAVITY」 [映画館(字幕)] 9点(2013-12-14 00:32:40)(良:7票) |
3. トゥルー・グリット
《ネタバレ》 父の復讐という正当さを盾にしようとも、幾つもの骸を生み出す契約を結んだ彼女に、契約の代償という名の矛は突き刺さるのは当然であり、またそれを受け入れること、それを受け入れた力強さこそが、あのラストショットの背中なのだ。 彼女が蛇に咬まれた以降こそがこの映画で最も重要であることは誰にでもわかるだろう。彼女はコグバーンに馬に乗せられ、幾つもの骸を見つめ、峠を越え、そして愛馬をも失う。果たして復讐とは一体何なのかと自問自答するのだ。正当な交渉と契約をも無効にしてしまう復讐に意味はあったのであろうかと。 しかし過去は取り返せない。復讐を果たした彼女の宿命、それは片腕を失い、孤独となり、また過去の戦友と再会することをも許されない。それでも彼女は凛と力強く歩いて行ける。そんな彼女をいつまでも見守っているかの様にコグバーンの墓石が彼女の背中を見つめている。この時のショットの力強さに圧倒され、この力強さにはイーストウッドと似たものを感じた。 [映画館(字幕)] 8点(2011-04-13 11:27:56)(良:6票) |
4. サブウェイ123 激突
《ネタバレ》 デンゼル・ワシントンが笑顔で我が家の門を押した瞬間にすべてが終わるが、またしてもストップモーションで幕を閉じてしまうという潔さだ。 結局ガーバーと彼の妻はこの映画で一度たりとも同じフレームに収まることはなかった。何故、最後、ふたりは抱擁しないのか。そんなことはこの映画においてどーでもいいことだからだ。ミルクを買って家に帰るという約束を果たせるか果たせないかということが重要で、ふたりの愛を確認し合う作業などトニー・スコット含め我々観客も全く興味がない。だからこそ、帰り道にミルクのパックが入っているであろう白いビニール袋を右手に持って歩くデンゼル・ワシントンというショットと彼のクロースアップのストップモーションが感動的なのだ。その後の抱擁し合うふたりなど幾らも感動的ではない。これこそがトニー・スコットなのだ。 また市長の描き方など絶品で、いかにも金の虫のような風体を晒しながらも、憎めない人の良さも醸し出し、犯人の割り出しも自らやってしまう、善でも悪でもない人物を平然と登場させる。罪悪感からか正義感からかで突っ走りだすガーバーや、金だけのライダーなどに比べ、あまりにも平凡な人物という描き方が素晴らしい。故に不倫というワードこそが現実的で必要不可欠なものとなり、そのためには市長を囲むマスコミすらもトニー・スコットには重要な登場人物たちなのだ。 現金輸送中のパトカーの事故、鼠のせいの誤射、PCによる映像、こんなものほとんど無駄な羅列にも見えるが、それらはただ「偶然」あるいは「運命」という得体の知れない厄介なものによって、ペラム123に連結され地下を疾走しているに過ぎない。だからこそその連結をいつ切り離そうが所詮それは「偶然」や「運命」であり、そうなったという事象のみがそこには存在することとなるのだ。 ガーバーとライダーの橋の上での対峙なども素晴らしい。いくらガーバーが警察官たちを呼べども全くもって近づいている感じがしない。その都合の良さこそ映画であり、その都合の良さが、ライダーのいつものカウントダウンでガーバーに極限の選択を迫らせるのだ。そしてこの時の単純なふたりのカットバックが見事な物語を構築している。 それでいての106分。スクリーンに映し出されるすべてを必要な情報として処理し、途轍もないスピードで走り抜ける、この潔さはトニー・スコットが唯一無二の存在になっていく証だ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-09-05 02:41:00)(良:5票) |
5. ターミネーター4
《ネタバレ》 やたらマーカス・ライトの心臓であーだこーだやるなと思っていた。川辺では鼓動も聞いた。半分マシーン半分人間ということの強調かと思った。ところがジョン・コナーの胸部にT-800が金属片を突き立てた瞬間に移植という展開が一気に露呈した。 そして終盤、スクリーンに映し出されるすべてを疑った。この戦争の指導者は死ぬわけにはいかないから心臓を移植しましたでは、マシーンと人間との差異を描いてきたこのシリーズの根底を覆すことになるだろ。マシーンのパーツ交換じゃねーんだよ。「2」では修理すれば生きれたシュワちゃんだって自ら死を選んでんだぞ。シリーズを通しての物語の整合性など興味はないが、本質的に何を描くのかを見失っているのではないか。 そして「1」「2」の不安感は一体どこへ行ったのか。「1」「2」には、日常世界に見た目は人間だが中身がマシーンの殺戮兵器が未来から来て、反撃しようともくたばらず、執拗なまでに寡黙に追い掛けてくるという、底知れぬ恐怖とサスペンスが滲み出ていた。審判の日を経たため日常世界は消滅したのだから、同じことを求めるのは阿呆な話だが、あまりにも無意味で能天気なアクションシーンに緊迫感や不安感はなく、何よりもターミネーターに対する恐怖感が皆無だ。サラ・コナーが半狂乱になってまで恐れた終末世界ってこんなもんなのか。 これは戦争映画だ。それは正しい。マシーンは離脱や融合を繰り返し人々を襲う。これも正しい。しかし恐怖はない。ただの迫力のあるシーンだ。でかいマシーンはスピルバーグの「宇宙戦争」のトライポッドと同じ音を発し、これもまたトライポッドと同じ行動だが、人々を掴み籠へと入れるが、「宇宙戦争」にはあった不安感がここにはない。ジョンがカイルを救出するために端末をいじりながら侵入するが「ミッション:インポッシブル」のイーサン・ハントかと思う。モトターミネーターの目を使うところなどは「マイノリティ・リポート」じゃん。ジョンをトム・クルーズがやったらとんでもなかったろうに。 T-800とのバトルで、高低差のある工場内のような場所をわざわざ選んだのは「2」のバトルシーンへのオマージュだが、ここでの緊迫感はジェームズ・キャメロンのあのシーンには到底及んでいない。 悪いところばかりではないが、「ターミネーター」はシュワちゃんと、だっだっ、だっ、だだん!があればいいわけではない。 [映画館(字幕)] 4点(2009-06-15 23:58:11)(笑:1票) (良:4票) |
6. スペル
《ネタバレ》 サム・ライミという監督が登場した当時のUNIVERSALのロゴマークで始まる本作は、彼がこの映画で何を描きたいのかということの表明だ。「死霊のはらわた」が処女作の彼は、ホラーというジャンル映画の監督の枠で収まることなく、西部劇や野球ものを描き、そして「スパイダーマン」という大衆向け商業映画を大成功に導いた。そうやって培ってきた映画的感性を自分の原点にフィードバックさせた、原点回帰がこの映画である。 風や物音、カーテンに映るシルエット、蠅などの虫や、体内から吹き出るどろどろな液体の数々など、もはや使い古された手段ばかりがスクリーンを駆け巡るが、彼の円熟の域に達した演出力は決してそれを飽きさせない。 白い封筒の中に丸い何かが入っているというそれだけでラストのサスペンスを盛り上げていく巧さなど見事だ。車中でアリソン・ローマン演じるクリスティンが誤った封筒を手にした瞬間、誰もがそれに入っているのはボタンではないくコインであると気付く。その真実を知るのは観客のみであるというところにサスペンスの巧さがある。つまりコインは重要で、だからこそ、ジャスティン・ロング演じるクレイと彼の父親との会話の中にもさりげなく登場させ、その存在を決して観客に忘れさせないのだ。 またクリスティンがローナ・レイヴァー演じるガーナシュ老婆の口に白い封筒を突き刺す泥々のシーンを雨で浄化させていき、そのままフェードでシャワーシーンに移行するところから始まり、彼女のハッピーエンドを期待させるような明るいシーンの連続はホラー映画だけを撮り続ける監督では出来ない晴れ晴れしさであり、また、地獄への素晴らしい前ふりであった。 そして彼女がいきなりコートを買う。これがおかしい。このシーンを見ているとき、何故ここでこんなシーン挿むのか不思議でならなかった。確かにとても大切な旅行だ。しかし突拍子もない。だがそれは、ボタンが入った封筒を出すきっかけへの絶妙な伏線だったのだ。あざとさをまったく感じさせない巧さだ。 そして謝れば許されるという結論には決して辿り着かせない潔さ。何があってもクリスティンを守ると誓ったはずなのに、彼女を守れなかったクレイのクロースアップ。そしてスクリーンいっぱいに映し出される「DRAG ME TO HELL」の文字。「俺も地獄に連れて行ってくれ!」素晴らしいではないか。 真のアメリカ映画とはこういう映画のことだ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-11-29 01:47:24)(良:4票) |
7. イングロリアス・バスターズ
《ネタバレ》 大傑作。 スクリーンに映し出される多量の空薬莢とその前に積み上げられたナイトレイト・フィルム。 フィルムが発火し、スクリーンが燃え上がり、観客は撃ち殺され、映画館は爆破される。 映画そのものが燃えて、すべてが灰と化していくのだ。 映画への冒涜、あるいは尊崇。 崩壊していく館内、ショシャナの高笑いだけがサウンドトラックを通して響き渡る。 しかし映画は決して死なない。 やがてスクリーンがあった場所にかつては映画であった残骸たちが白煙となり舞い上がる。 そして蒼白な光が投影される。 そのショシャナの顔は幽霊そのものであるが、またそれと同時に優麗でもある。 これは彼女の復讐劇であり、映画の復讐劇でもある。 糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに滅多打ち、血生臭いフィクションをその上に張り付ける。 生と死の上に積み上げられた、新たなる歴史という名のフィルムは正に映画である。 間違いなくこれが彼の最高傑作。 [映画館(字幕)] 10点(2009-12-01 19:15:49)(良:4票) |
8. レディ・イン・ザ・ウォーター
《ネタバレ》 つまり、物語とまなざしという、映画の本質的な何かを見た気がしたのだ。 それはブライス・ダラス・ハワードという女優のまなざしだけで、映画として足り得てしまっているという事実だけではなく、この映画における人々のまなざしの向け方、更にはクリストファー・ドイルのキャメラのまなざしの向け方を見ればそれは明かだった。そのまなざしの連鎖は、外を見せずに外を見させることだ。この映画にはアパートの外部は存在していない。またどこか狭いフレーミングで撮られたショットが多い。これらは決して窮屈であるということではなく、フレームやアパートの外の何かを映さずに、つまり見せずに見せているということだ。外があるのだから、そこには何かがあるのだ。それは世界であるし、あの獣でもあるだろう。フレームで切り取るということをよく言うが、これは間違いだと言い切りたい。フレームは全体から部分を切り取るためにあるのではなく、部分から全体を見せるためにあるのだ。 またシャマランは、水の妖精にあえてそして潔くも堂々と "ストーリー" という名をつけた。物語が映画において何であるのか。果たして物語は映画で一番重要なことなのか。物語があるから映画なのか。違う。物語は "導き" であるに過ぎない。映画を見せるために物語はある。誰か人が行動することを、考えることを見せるために物語はある。物語は原因に過ぎない。結果は映画であり、それを俳優であり、職人であり、監督が産み出す。観客が観るのは結果=映画であり、物語ではないのだから。つまり、シャマラン自らが過去に描いたような観客が仰天するような結末や、予想を裏切る展開などは、映画において大して重要なことではないのだ。重要なのは、そのような結末や展開の物語を映画としてどう見せるかであり、物語に引き摺られ続ける映画は映画ではないのだ。またそれと同様にこの映画がVFXにて(またそれを駆使しすぎずに)あの獣を描くのは、VFX(の乱用)が物語の足を引っ張っているのだという明示であり、物語をVFXから守らなければならないという答えでもある。紋切型の批評家は物語にすら参加することが出来ず、終いには敵視するVFXに喰い殺されてしまう。ただシャマランがVFXを否定していないというのは、ラスト、ストーリーがVFXに包まれVFXの宙へと飛び立っていくのを見れば明らかだろう。 何だか最近のシャマランは泣けるよなぁ [映画館(字幕)] 7点(2006-10-02 00:40:29)(良:4票) |
9. アウトレイジ(2010)
《ネタバレ》 黒塗りの車が幾台も通り過ぎていく。少し間隔を空けて2台の黒塗りの車がやってくる。カメラは徐々にバンクしながらクレーンダウンして行き、丁度車がカメラに対しての真俯瞰の位置に来た時、流れていた映像がストップモーションとなり、北野映画初となったシネマスコープサイズのスクリーンいっぱいが車一台で埋め尽くされ、タイトル「OUTRAGE」が刻み込まれる。そして映像は再び流れ出し、2台の車が走り抜けて行く後姿を映す。その背景には、樹々が生い茂っているのだが、更にその奥には都心部のビル群が建ち並んでいる。この映画でこれから起こる抗争の舞台となる「都会」だ。このワンショットを観ればこの映画が傑作であり、これが北野映画の上手さだと誰もが直ぐにわかる。 この映画の畳み掛ける台詞と暴力の応酬は、物語など殆ど宙吊りにし、途轍もない速さで映画を展開していく。しかし物語を忘れているわけではなく、物語は物語として成立している。つまり物語を引っ張っていく映像なのだ。映像が物語を形成するという、映画として最も正しい形をこの映画は導き出す。 そして顔だ。常に笑みを浮かび続ける椎名桔平、それと対照的に色眼鏡を掛け笑みを見せない加瀬亮、北村総一朗にひっ叩かれたとき絶妙の表情をみせる三浦友和、そしていかにもずるさが滲み出ている北村総一朗と國村隼、喜劇役者と化した石橋蓮司、成功を夢見るも決して成功を得られそうにない杉本哲太、また真逆に成功を得るために生きていくかのような小日向文世、など主要キャストのみならず映画に登場するすべての役者、彼らの顔がクロースアップのワンショットとして幾度となく繰り返されるが、そのどの顔もすべて完璧であり、彼らはその為に最高の芝居をしている。 北野武久々のやくざ映画「アウトレイジ」は、北野映画が日本映画の中でも間違いなく最高峰であり、そして賢く、そして何より上手く、更には無駄な意味など持たせずともただ単純に面白い映画を作れるのだという証明である。 「会長、オレには?」「バカヤロウ」ストップモーション、最高の終幕である。 [映画館(邦画)] 9点(2010-06-14 00:47:52)(良:4票) |
10. 息もできない
《ネタバレ》 暴力を振るう者はいつしか必ず暴力を振るわれる側になるのだということを、この映画はタイトルが出る前で既に語り、そして台詞として語り、そして全編を通して語り尽くす。暴力は暴力を生むこと、暴力の連鎖を食い止めることの困難さを示す。暴力を捨てたサンフンに彼が今まで振るい続けた暴力がまとめて返って来るのだし、それは実質的な暴力のみならず、辿り着きたい所に辿り着けなくなるという、暴力より遥かに過酷な罰となり我に返って来る。この映画もやはり暴力を振るった者である場合、愛や家族、そういったものであれど、彼を暴力という柵からは解き放つことは出来ないと示す。 しかしそれはそれであるが、そうであって欲しくはないというのが、希望や許しであり、勿論この映画もそれを描かずにはいられない。 ヨニはサンフンが何故泣くのか理由を知らないのだし、またサンフンもヨニが何故泣くのかを知らない。互いの理由を知らぬふたりが、全く違う理由のようで、根底は実は同じである理由で、共に涙をする姿をワンショットで撮る。つまりワンショットの中には結果のみが集約されているのだが、それと同時に観客のみがそのどちらの理由をも知っているということがこの漢江でのシーンの美しさを際立たせる。 そして焼肉店でのクロースアップ、クロースアップ、クロースアップ・・の連続は、サンフンの視点である。彼の姿形こそそこには存在し得ないのだが、彼の望んだ結末を、彼が望んだ光景を、彼に代わり、我々観客が目の当たりにする。その幸福感を共有した我々は涙を流さずにはいられない。その涙は勿論我々の涙だが、同時にその涙はサンフンの涙となる。この瞬間、映画はスクリーンなどというものを飛び出し、観客と一体化するのだ。傑作。 [映画館(字幕)] 9点(2010-04-19 23:57:41)(良:3票) |
11. リミッツ・オブ・コントロール
《ネタバレ》 拳銃を使わない映画 セックスをしない映画 携帯電話を使わない映画 復讐すらも無意味な映画 そこにあるのはふたつのカップに注がれたエスプレッソ そして幾度も同じ台詞が繰り返される 目的はひとつ「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送る」こと そんな殺し屋の映画 物語の起伏となる要素をすべて排し ただただ淡々と時間だけが直線上に流れていく イザック・ド・バンコレ演じる孤独な殺し屋は 仕事中の堕落を一切禁じる またパス・デ・ラ・ウェルタ演じるヌードの女は すべてを破滅に導くファム・ファタールのような素振りだが ファム・ファタールとしてはまったく機能していない そしてティルダ・スウィントン演じるブロンドの女は 「上海から来た女」の話をし始める しかしラストのビル・マーレイと対峙するシーン 一面鏡張りの部屋にしたりはしない つまりこの映画はフィルム・ノワール的要素を散りばめながらも それらを一切禁欲する 新たなるフィルム・ノワールと言えるだろう ジム・ジャームッシュのスタイリッシュさはとても正しく どのアングルも どのカットの繋ぎも どのハイスピード撮影も どの音楽の挿入も すべて納得させられるものだ 想像力さえあれば 映画には限界はないし 映画の行く路を決めることなどできない [映画館(字幕)] 8点(2009-10-01 16:40:52)(良:3票) |
12. トウキョウソナタ
《ネタバレ》 映画で人が走っている瞬間は素晴らしい。 この映画の主人公三人は、もう一度やり直したい、どうすればこの柵から抜け出せるかということをきっかけに、唐突に走り出す。 オープンカーの屋根を開けることで女の決意となった瞬間の美しさや、妻に見つかったことでの後ろめたさで狼狽する醜さや、大人に対する嫌悪感や子供であることの無力感、それらが一気に膨れ上がり映画そのものも走り出す。 そして彼らは「どこか」に向かう。家族という社会での最小単位のコミニュティから、救いがあるかもしれない「どこか」に辿り着くために外へ出る。しかし小泉今日子演じる佐々木恵が目にしたものは、海であり、海の向こうには陸だか船だかそれがあるのかもわからないくらいにまだ海が広がり続ける。 結局、三者とも、どこかに辿り着けそうで、どこにも辿り着けないのだ。 実際に存在したかもわからない橙色の光を見つめ涙したり、一度は死んでみたり、子供ながらに大人と同じ扱いを受けてみたり、果たしてそれが何か救いになるのか。 そして彼らは結局もとの位置に戻るしかないのだ。 恵は、自身を傷つけようとしている役所広司演じる泥棒に、最後に信じられるのは自分自身でしかないと言う。 井川遥が演じるピアノの金子先生は離婚するのだが、もともと他人だったのがまた他人同士に戻ったと言う。 所詮、個人は個人、他人は他人に過ぎない。自分ですらもうひとりの他人である。しかし一番信じられるのは自分でしかない。 この三人は静かに自分を信じ始めたからこそ家に帰り、お母さん役が作った朝食を食べたのだ。 確かに個人は個人で、自分の悩みなど自分で解決するしかないのだし、家族と言っても所詮は他人同士のコミュニティだ、でも違うんだよ、そうなんだけど違うじゃん、それだけであって欲しくないじゃんという、前向きな希望があの象徴的なラストシーンにはある。 それこそが救いだろう。許しや救いというのは愛の中にしかない。あの愛情に溢れた(ように見える)家族は陽の当たる中を、カーテンがたゆたうほどのそよ風に乗りながら、そうだけどもそうだけであって欲しくないじゃんというアカルイミライへ歩んでいくのかもしれないし、あるいはそうじゃないのかもしれない。 しかしながら、すべてはあの海だ。あの横一直線に光る白波と小泉今日子、そして朝日を目一杯浴びる。まるで生き返っていくようだ。 [映画館(邦画)] 9点(2008-12-31 23:59:22)(良:3票) |
13. チェンジリング(2008)
《ネタバレ》 「ママに会いたかった、パパに会いたかった、家に帰りたかった」という台詞だけでもう十分すぎるほどに心を撃ち抜かれた。そしてそれをガラス越しに見つめるアンジーが、まるでスクリーンを見つめる我々観客のようで、そのイーストウッドの客観性に追い打ちをかけられ震え上がった。 そして「希望」を口にするアンジーの赤く染まった口元の優しさ、これほどまでの愛情・・思い出すだけでも感慨深いものだ。 もちろん真のアメリカ映画は昔からアメリカや社会と戦ってきた、しかしこの映画はそれだけのアメリカ映画ではない。それはロス市警の不正を徹底的に追及する映画ではないし、ましてや殺人狂への遺恨を描いた映画でもないからだ。 息子と映画を見る約束を仕事の忙しさから果たすことが出来ず、家を後にするアンジー、そして家に取り残された息子。この時の描き方が、既にこの親子は二度と再会することはないという永遠の別れを物語っている。窓越しに母を哀しく見つめる息子をキャメラがトラックバックしていく、これがあまりにも決定的だ。 更には仕事が長引いてしまった彼女がようやく帰路に着こうとするのだが、赤い路面電車は彼女に車体を幾度となく叩かれるも、そんな彼女の左手など触れてもいないかのように知らぬふりを決め込み走り去ってしまうのだ。そして彼女が「なんてこと・・」というような表情を浮かべた時の少し望遠気味のショット、先ほどの路面電車を正面から捉えていたのが縦位置だとすれば、横位置に回ったショット、この瞬間こそが、彼女の表情から不安感を滲み出させ、後戻りなど出来ない道へと踏み出してしまったと告げているのだ。 この導入部を見れば、これこそが真の映画であると気付くのだし、登場人物の視線、キャメラの視線ということの重大さ、強さ、そしてその真意にはっとさせられるのだ。 アンジーの潤んだ視線や憤りを露にした視線の先には、不正や殺人狂などを越え、いつも必ず息子ウォルターがいるのだ。 「チェンジリング」は圧倒的な視線劇で、徹頭徹尾、愛情を描き貫いている。 [映画館(字幕)] 10点(2009-02-24 23:08:57)(良:3票) |
14. ウォッチメン
《ネタバレ》 出てくるヒーローという奴らが、いつまで経ってもうだうだとメタレベルで苦悩し続けて163分が過ぎ去って行く。彼らは自分たちの存在意義や過去のパーソナルな出来事を回想し「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」という当たり前のこと、見てるこっちからしたらどーでもいいことで、163分悩み続ける。 もちろん「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」は事実だが、そんなことより映画として忘れてはいけないのは「ひとりの人間ではあるが、ヒーローなんだ」だ。 眼鏡のおっさんと長髪の女のセックスシーンは最低だ。 おっさんはソファーで「ちょっと待って」と言う。勃起しなかったのだ。しかし、次のシーンでおっさんは裸でコスチュームの前に立っているし、女はシャツ一枚でその場に現れる。全く理解が出来ない。やったのか?やってないのか?これは大きな問題だ。ここではこのセックスは中断されたと理解して話を進めたい。 その後、ふたりはコスチュームを身に纏い再びヒーローとして街に繰り出し、ひと活躍済ませる。そしてふたりはいい感じになり船内でやっちまう。簡単に言えばおっさんはヒーローして気分が高ぶり欲情したっていう変態で、コスチュームプレーで勃起したということだ。で?と思うだけで、正常な話ではないし、そんなこと興味ない。 そんなシーンにレナード・コーエンの「ハレルヤ」を流すセンスの悪さ、どーにかしろと。センスがないのではなく、センスが悪い。冒頭のあんなシーンでナット・キング・コールを流した時点でまずいとは思ったが、やはりセンスの悪いやつはどこまでいってもセンスが悪い。音楽も映像も、センスが悪い。 ヒーローはある一定の社会の秩序を整えるもので、世界の平和を整えられるわけがない。(そもそも、特にアメコミのヒーローなんて愛国右翼の塊みたいなもんで)もしそうなってしまえばただのファシズムに過ぎないだろう。この映画はだからその選択をあえてせずほっぽり投げている。それはわかる。だが、最後の新聞社だかにいくまえのグラウンド・ゼロを思わせるショットとか、戦争とか平和とか核兵器とかリベラルとか共産主義とか悪とか正義とかどーでもいいから、まず今のアメリカ社会を見てから映画を作れ。こんな映画、世界どころかアメリカでも必要としてないだろ。 映像化することだけに意固地になり過ぎた、完全時代錯誤な駄目映画。 [映画館(字幕)] 1点(2009-04-11 01:48:42)(笑:1票) (良:2票) |
15. おくりびと
《ネタバレ》 愛情故に、夫のすることにあれだけ寛容で理解のある妻(勿論、台詞にもある通り裏腹な内心を抱えてはいる)の人間性が納棺師という職業にあれだけの拒絶反応を示すのかが納得出来ず、つまりそれは後に夫の仕事を認めるという結果へと導くための原因作りでしかないだろうと誰もがその場で理解できるこのシーンはとても寒々しく、彼女のその強い母性的性格との一致はまるで無視されている。この認めないという態度は、納棺師という職業に対する世間の一部も示すであろう態度の表れだが、ではその態度を覆すためにはということになるだろう。 つまりこの映画の大きな山場とは、■納棺師は遺体を扱う職業であるが故に、反対する者もいるが、その仕事内容は余りにも知られてはいないため、百聞は一見に如かず、なシーンが必要である。■誰にでも死は訪れる。勿論極々身近な人にでも。ならば知人を納棺することもあるというシーン。というふたつがあればいいのだ。それをまとめて詰め込んだのが、あの吉行和子の納棺シーンだ。こんな下手糞な展開はなかなかないだろう。 「好きなのを持ってきな」の件も頂けない。本木雅弘がせっかく父親に会いに走り始めたにもかかわらず、わざわざ一度脚を止め、山崎努のオミトオシダヨという粋を見せた態度のシーンなど完璧にオミットするべきだ。あるいは、「好きなのを持ってきな」で走り始めなければならない。映画において人が何かに向かって走り始めたなら、挫折や妨害がない限りは、辿り着くまで走り続けなければならないのだ。 更に「うちの夫は納棺師なんです」と広末涼子が言い始め、忘れていたはずの父親の顔にフォーカスが合ってしまうというあの恥ずかしい件は果たして何なのだろうか。話は舞い戻り、妻が納棺師という仕事を認めること、それがこの映画の断固としての態度だ。だから、完全に認めること、その表象がこの台詞だったのだ。はっきりと聞こえた。しかも口の動きも凄くわかりやすいクロースアップでだ。そう、夫は納棺師なのだ。いくらなんでも安易過ぎるだろうと言いたい。その安易さが父親の顔をも思い出させる結果に繋がった。そして輪廻転生へ・・この映画はあほか。 [映画館(邦画)] 3点(2008-09-22 14:42:52)(良:3票) |
16. インビクタス/負けざる者たち
《ネタバレ》 久しぶりに死の影をほとんど感じさせないクリント・イーストウッドの映画であったわけだが、彼の映画における「幽霊」という存在はこの映画でも健在であった。マット・デイモン演じるフランソワが皆を引き連れてロベン島に行くが、そのときに独居房や採掘上に現れるモーガン・フリーマン演じるマンデラは、生きる魂、正に生霊的である。そう、肉体を魅せるのではなく、魂を描くことこそがイーストウッドの映画なのだ。 冒頭、黒と白という二項対立構図を一本の道を挟んだだけの俯瞰ショットで描き、その黒と白は徐々に混ざり合っていくのだが、それが決して図式的に陥らず(肉体ではなく魂を描くからこそ図式的に成らない)、さも現実的であるかのように描き切ること、それもまたやはりイーストウッドである。しかし実際、全く現実的とは思えない。例えば、過労で倒れるマンデラや負傷してしまったチェスターが、何のきっかけもなく突如として全快してしまうという全く真実味を感じさせない流れ。しかしその流れに何も違和感を感じさせない力があるのは一体何なのだろうか。それは本作がとにかく簡潔であるからだ。無駄なものなどすべて根こそぎ削り取られ、そこには出来事のみが集約されている。彼がカメラを向けた瞬間にそれはさも現実的であるかのように立ち上がり、出来事が起こり、フィルムに定着し、映画と成り、そしてそれは「あったこと」となってしまう。それは力強く、そして熱く、凛として感涙的な事実と成ってスクリーンに投影されるのだ。 それにしても最後の試合のシーンは凄い。選手たちの動きのみならず、審判が時計を確認して笛を吹き鳴らす瞬間までハイスピードで撮影している。更には選手たちがぶつかり合う音までもが間延びしているのだから凄い。ここまで間延びさせると逆に躍動感を失いそうなものだが、平然とそれを乗り越えて、心震え上がるようなシーンに仕上げてしまう手腕にはやはりただ驚愕するばかりだった。 [映画館(字幕)] 8点(2010-02-22 23:53:57)(良:3票) |
17. 3時10分、決断のとき
《ネタバレ》 何という素晴らしさなのだろうか。正に、視線の、まなざしの映画だ。 何よりも、人々が向けるまなざしを見ているだけで、すーと吸込まれてゆきそうで、そしてそこから伝わってくる彼らの気持が体内に染込んでくる。だからこそ、単純なカットバックが幾度となく繰り返されるのだが、それだけでも充分なくらいの物語が構築されている。 ラッセル・クロウ演じるベン・ウェイドがクリスチャン・ベール演じるダン・エヴァンスに馬乗りになりながら首を締め付けるのだが、ダンの、金ではなく妻や息子たちに自分の誇りある姿をもう一度示したいのだ、という本心をベンは知り、物語はそこから一転し、彼らが屋根の上を伝いながら、ユマ往きの汽車が滑り込んでくる駅舎まで駆け抜けて行く様などは、もはや涙なくしては見ていられない。この瞬間、善悪などというものなど一切断切れ、あえて言うのであれば、それは絆や友情、そして誇りというものを懸けて、男ふたりが激しい銃撃のなかを駆け抜けて行く。このふたりが何かひとつのものを目指して共に駆け抜けて行くということなど、映画の中盤からでは想像だにつかない。にもかかわらず、ひとつのフレームの中でふたりが駆け抜けて行く姿たるや、見事という他ないだろう。 ラスト、息子のウィリアムがベンに銃口を向ける。この時の彼のまなざしの変化がまた素晴らしい。彼はベンと知り合ってからベンを憧れのまなざしで見つめていた。しかし、この時のまなざしは怒りそのものであり、いつ引金を引いてもおかしくはないのだ。しかしウィリアムは、無法者ベン・ウェイドをユマ往きの列車に乗せた父を心から誇りに感じた。だから撃たないのだ。何故なら、彼はまたその誇り高き父の継承者だからだ。 ただ、ふたりが対峙した瞬間、ベンはウィリアムにまなざしという拳銃で撃たれていたのだ。 だからこそ、そのまなざしを受けたベンのまなざし、この素晴らしさには計り知れないものがある。 ベンは誇りという絆で結ばれたダンの敵を暴力に任せ解決してしまうのだが、また同じく父と漸く誇りで結ばれたウィリアムはその暴力を自ら抑制する。ダンはその時思うだろう、誇りという事の尊さを。 そしてダンとの絆、あるいは彼の誇りに懸けて、ベン・ウェイドは、3時10分、ユマ往きの列車に自ら乗り込んで行くのだ。 [映画館(字幕)] 9点(2009-08-10 02:46:54)(良:3票) |
18. グリーン・ゾーン
手持であろうと、スタビかまそうと、クイックズームしようと、フォーカスが合ってなかろうとなんでもいいのだけれど、でもこれって「見せる」という気がないのか、あるいは失敗しまくってるのか、それともこれがかっこいいと思っているのか、つまりスタイルとして確立したいのか、全然わからなくて、やっぱし観ていて思うのはこんなの駄目だろってことだけで、極端な話だけど、ドキュメンタリーは即時性だからどうしたって追いきれないとか撮りきれない瞬間てあると思うのだけど(まぁそれを撮るのがプロフェッショナルだけど)、しかしこれってドキュメンタリーじゃなくて、所詮そっれぽい感じのフィクションだから、だったら、何を見せるべきか、つまり、撮るべき対象っていうのがしっかり固まっていて、つまり芝居をつけてそれを狙うわけで、それがちゃんと撮れてない、っていうか敢えて撮ろうとしないっていうのは、ただの撮影行為の放棄じゃねぇかよって思うし、戦場の雰囲気ってこういうことじゃないだろっても思うし、要するに撮ってる側が戦場に入り込みすぎた感じのぶれぶれの何映っているかわからない映像のどこに映画の客観性があるんだよってな話で、どんなに頑張ったてスクリーンのこっち側にいる人間は客観であるしかないわけで、それを飛び越える瞬間てあるとは思うけど、こういうことではないんだってことははっきりと言えるのだ。 もう一つ言えば、そういうフィクションさを消したい感じ、つまりリアリズムを求めるのは、それはそれで良いけど、まぁここまで書いた通り、この映画の映像はまず徹底的に駄目で、じゃあお話はどうかってことで、でもやっぱりお話部分も駄目だと思うわけで、結局、映画の面白さって、時に、嘘っぱちさだと思うわけで、事実に創作を入れ込んだものというのは、その創作部分が事実を塗潰してしまうような嘘っぱちであって欲しいのだ。 [映画館(字幕)] 3点(2010-06-01 22:20:15)(良:3票) |
19. ヒストリー・オブ・バイオレンス
《ネタバレ》 ラストシーンのあまりの素晴らしさ。 愛情の欠片もない無慈悲な兄との関係を、暴力によって断ち切った(かの様に見える ─ というのは暴力は暴力を生むというこの映画の法則に従えば、ここで断ち切ったとは言い切れない)トム・ストールは、愛情の消えかけた(かの様に見える ─ この後の展開がそうでなかったことを明白にしている)我が家に辿り着く。キッチンのテーブルの上には3人分の食事が用意されており、妻と子供ふたりが夕食をとっている。誰も何も語ろうとはしない。そこに苦悩するトムが帰ってくる。妻エディはうつむき、息子ジャックは戸惑う。トムは項垂れつつもキッチンに入ってくる。沈黙。エディはうつむいて、ジャックは戸惑っている。ここで、娘のサラがふと席を立ち上がり、後ろを向く。そしてふいとサラがこちらを向いたとき、(恐らくエディが用意しておいたであろう)真っ白な大きな皿とフォーク、ナイフが、か弱い手にしっかりと握られているではないか。サラはそれらをそっとテーブルの上に置き、席に着く。それを見たジャックは、大皿に盛ってあったチキンか何かをその真っ白な皿によそってやるのだ。この子供たちの愛情に答えるかのように、トムは静かに席に着く。そして目線の先にいるのは、勿論うつむいたままのエディだ。ここからは純粋な切返しが始まる。やがてエディの顔は上がり、二人は見つめ合う。そしてふと何かを見つけたという顔のトムのショットでこの映画は幕を下ろす。 「君の目を見たときに好きだということがわかった」トムはチアガール姿のエディを抱いてそっと呟く。つまりラストのトムが見つけたものは「それでもまだ愛している」というエディの愛情のまなざしだったのだろう。だからこの映画のラストに台詞は必要がないわけだし、この切り返しだけで、映画になっている。 ただしかしこの結末が、安易に愛情の安堵感だけで締め括られているとは到底思えない。この映画の根底には暴力は暴力である、暴力は暴力を生む、ということがあるからだ。暴力を愛で乗り越える映画では決してないのだ。ただエディのまなざしには「許し」が存在する。それは暴力の中にあるのではなく、やはり愛の中にあるのだ。許すこと。 [映画館(字幕)] 10点(2008-10-02 01:49:05)(良:3票) |
20. アンストッパブル(2010)
《ネタバレ》 「マイ・ボディガード」146分、「ドミノ」「デジャヴ」127分、「サブウェイ123」106分、そして遂にトニー・スコットの映画は100分台をきった。「アンストッパブル」近年最速の上映時間99分。 ありとあらゆるアングルからカメラを構え、空撮、ハンディやクイックズームを活用し、動いていることそが映画であると、総てにおいてを「動き」として収め、そしてその総てをアクションで繋ぎ、一切の「間」を観客に与えない。子供は平和の象徴でありながらも同時に危機に直面する不安定さであり、野次馬は出来事の重大さと日常生活の中にある危機を表し、テレビと路線図は簡潔な説明の他の何物でもない。スクリーンに映し出されるものは総てが必要な情報だと処理し、途轍もないスピードで駆け抜ける。 暴走する列車を止める、たったそれだけの話だ。 徹底してそれだけだ。だから巻頭間もなく列車は直ぐに走り始め、エンドロール直前まで列車は止まらない。更にデンゼル・ワシントンとクリス・パインですら列車を止めるひとつの装置として処理される。彼らは「列車を止めることが出来る唯一の男たち」という装置だ。であるから、とにかく列車は走り出し、後から貼付けられるべたべたの人情劇があるが、はっきり言って本作に関してはそんなものは、トニー・スコット含め我々観客も殆どどうでもいいと思っている。更に言えば、労働環境がどーのとか触れるのだがそれもどーでもよい。これは鑑賞後「何も残らない映画」であって、考えることなどない。ただ最高に面白い映画がある、それだけだ。重要なことは列車が止まるのか、止まらないのかということだけ。この列車の周りで起ること総ては、この列車を止めようとするそれぞれの装置。ふたつの過失から始まるこの映画は誰をも悪として描かない。列車に追いつけない、いかにもドジでのろまな風体を醸し出したあの男ですら、悪としては描かれない。会社の上層部は自分達の立場としての態度であり、それは悪ではない。悪と対峙しない、刃物や銃器も登場しない、しかしあそこまでの激しさを演出するトニー・スコット。もはや他の追随などに関心など示さず、全く別の次元で映画を作っているとしか言いようがない。 [映画館(字幕)] 8点(2011-01-08 17:04:50)(良:3票) |