1. カッコーの巣の上で
《ネタバレ》 チェコスロバキアからアメリカへ亡命したミロス・フォアマン監督の大傑作です。監督自身も語っている通り、この精神病棟はチェコそのもの。日課を断じて変えようとしない病棟は管理された社会主義国家の体制を表し、ビリーの自殺や、マクマーフィーが廃人にさせられてしまうという悲劇は、この管理社会のいわゆる「弊害」でしょう。これらの「弊害」を次々と暴き出すこの映画は、一見すれば、管理社会という非人間的な構造に対して、明らかに反体制の様相を呈しています。ただ、マクマーフィーによって、女が連れ込まれ、看守に賄賂を取らせて酒を喰らい、朝まで騒ぎ続けた後の乱れた病棟の惨状はどうでしょうか。管理人を騙し、勝手に船に乗り込み、はしゃぎ回る彼等の行動はどうでしょうか。もちろん、これらにしてみても到底容認できるものではなく、ここに自由主義による「弊害」をも暴き出し、真の自由とは何かを提示していることも見逃してはいけないと思います。管理社会であれ自由社会であれ、社会主義であれ資本主義であれ、どんな国にもどんな世の中にも、必ず制度による「弊害」は存在します。「看護婦長は善を為そうとして悪を為す」とフォアマンは語っていますが、看護婦長にしてみても、マクマーフィーの理解者となり、勤めを全うしようという思いは強かったはずです。すでにシステム化された婦長にとっては病棟の日課は正常であったのです。こちらでは正常者であるものが、あちらでは異常者であったり、異端児が英雄にもなり得るのが現実。それではどうすれば良いのか?この問いに対する一つの答えが、マクマーフィーの「陰でぶつくさ文句たれてるくせに出て行きもしない!」であり、それに感化されたチーフのラストの「逃亡」なのかも知れません。自分が"人間らしく生きられる"社会への「逃亡」は、逃げではなく、あくまでも積極的な行動であって、選択するという自由の行使です。マクマーフィーがついに逃亡できなかったように、この選択するという自由を行使できる人間のいかに少ないことか。その意味では、チーフこそが亡命監督であるフォアマンそのものであるという評はとても共感できます。フォアマンにはもっと多くの映画を撮ってほしいという気もしますが、自分の好きな作品だけを撮っていく寡作の姿勢は実に彼らしいことで好感が持てます。いずれにしても、自分の価値観に大きな影響を与えた忘れられない映画です。 10点(2004-03-06 23:12:28)(良:7票) |
2. その男、凶暴につき
《ネタバレ》 説明的なショットが山積みになっている映画を、「いやらしい」という言葉で否定する北野監督独自の省略法が見事に成功している作品です。北野のスタイルは、既存の映画に対する彼の否定であったり、嫌悪感から自然に生まれてきたもので、恐らくは理屈ではなく、感覚的なものに起因しているのでしょう。「感覚的」=「行き当たりばったり」の演出というのは、いささか強引かも知れませんが、恐らくは遠からずといったところで、妥当な評価ではないでしょうか。ただ、この「行き当たりばったり」の演出が、明らかに計算され尽くしたものとは違う「戸惑い」のようなものを観客に与えるのは確かで、自分にとって北野作品の魅力はまさにそこにあります。違和感に等しい「戸惑い」。長い静寂と静寂の間に響く唐突で重い銃声。死ぬというよりは、むしろ動かなくなった人間。そして物体のように転がる死体。断末魔の声もなく、そばで泣きじゃくる人もいない。映画にしてしまえば、観るものを戸惑わせるこれらの演出も、実は北野のリアティ。そして、本作で何よりも恐ろしいのは、警察と麻薬組織の対決という、いわば非日常的な裏の世界を日常的な風景の中で描いていること。例えば、ガサ入れのシーケンスでは、刑事の一人が野球をしている少年の目の前で頭をかち割られる。しかも、凶器はその少年らが使用していたバット。たけしが殺し屋に襲われるシーケンスでも、たけしのかわした銃弾が何の脈絡もなく、そこに通りかかった関係のない通行人の頭を打ち抜く。見なれた風景をバックしたこの惨劇の恐さ。ただし、ラストシーケンスは明らかに蛇足でしょう。あれこそ、まさに「いやらしい」カットなのでは、と思いますがどうでしょうか。 7点(2004-02-28 00:37:09)(良:6票) |
3. 丹下左膳餘話 百萬兩の壺
29才の若さで亡くなった山中貞雄監督の現存する3作品のうちで、最も好きな作品です。日本で唯一「天才」と言われた彼の才能を垣間みることができる貴重な作品であって、なおかつ、『人情紙風船』とならんで傑作中の傑作だと思います。剣豪でニヒルなはずの丹下左膳を、原作者が激怒するほど滑稽にパロディ化した第一級の喜劇。「何しろ江戸は広い。それに馬鹿にくず屋が多い。十年かかるか二十年かかるか」と何度も繰り返されるとぼけた台詞。「馬鹿言え!おれは絶対にお断りだからな」と言いながらも行動は全く逆で、絶対にお断りできないおかしな性分。これらの「反復」や「逆説」の話法の多用は、当時のハリウッド喜劇の影響を存分に受けていることを示すと同時に、その技術と面白さにかけては日本映画が本場にも決して劣らぬものを持っていたという貴重な証拠でもあります。物語の構成も実に巧妙で、ちょび安の話と源三郎の話に流れを分ける、いわば縦割りの構成をとっていて、壷を絡めて二つの話を時折接触させていきます。言ってみれば、観客は迷路に迷い込んだ登場人物が右往左往するのを、真上から覗き込んで楽しんでしまおうという趣向です。大河内伝次郎を食わんばかりの沢村国太郎のずば抜けた演技力も必見。彼なくしてこの映画の喜劇性はあり得ません。日本映画の全盛期は一般的には受賞ラッシュの1950年代と言われていますが、その基盤になったのは戦争を挟んでその前の1930年代であることは明らかでしょう。ところが、この時代、日本では映画の文化財としての価値認識が少なく、管理もずさんで、現在まで完全な形で残っているフィルムは多くありません。この事実は日本映画にとっては非常に残念なことだと思います。1930年代を駆け抜けた、山中貞雄監督の作品も、脚本は残っているものの、フィルムとして残っているのは全26作品中わずか3本。いかんせん、たった3本ですから、ここから彼の全容を探るのはやはり困難です。この保存の悪さこそが、彼の早死とともにもう一つの日本映画史上最大の損失であることを痛感します。 10点(2004-02-02 22:12:09)(良:5票) |
4. 大脱走
バーンスタインの「大脱走マーチ」は、軽快な作品のテンポそのもので印象的です。マックイーンが繰り返し独房に入る「反復」のおかしさに象徴されるように、脱走をある種のゲームのように見せているところが独特です。史実に基づいた映画ですが、単なるエピソードの羅列ではなく、見せ方も実にエンターテイメント。特に、脱走後の逃亡劇で、ちりぢりになった各々を時間を平行させて追っていくあたりはワクワクもので、ネタバレにも十分耐え得る出来です。悲劇もありますが、描写は深入りせずといったところで、どちらかと言うとそこに感情移入している時間はあまりない印象です。むしろ、脱走の為に見せるチームワーク、そして何より、失敗はつきものだ、また次があるさ、といった「懲りない面々」の前向きな姿勢によって魅了される映画でしょう。ラストでマックイーンが独房に向かうところで「お帰りなさい」と迎えられます。この映画でのマックイーンは際立ってカッコいい。なぜなら、彼こそが誰よりも「懲りてないやつ」だから。 9点(2004-01-14 23:20:06)(良:5票) |
5. 残菊物語(1939)
《ネタバレ》 溝口監督の「引きの長回し」というスタイルが最も解りやすく提示された傑作です。『浪華悲歌』(36)以来、役者の演技の途切れを嫌ったことで生まれた独特の長回しですが、ワンシーン・ワンカットどころかワンカットに2シーン、3シーンと入れ込んだ本作の映像は一見の価値ありです。非映画的と批判されることもある長回しを、これほどまでに映画的に仕上げることを可能にしたのは、パンや移動、構図に至るキャメラワークの抜群の切れ味でしょう。お徳が菊之助に本音で忠告するシーンでの長い長い横移動。東京に戻った菊之助を迎える宴会からパンして、別の部屋でたたずむ菊之助をとらえ、さらに横移動とパンで別の部屋にいるこう坊に近寄って行き、奥の台所へ抜けるところまでをワンカットで撮っているところはまさに驚嘆の出来。お徳との苦労の歳月が忍ばれる情緒と相まって、何度観ても魅了されてしまう見事なショットです。カットは割らないが、当然、人は動く。ワンカットで何組もの演技を組み込まなければならない場合も多い、長回しという技法は、同時に高度なキャメラワークを作家に要求するもので、その意味では、このパンや横移動こそ溝口のキャメラの真髄と言えるのではないでしょうか。これが稚拙ではやっぱり映画にならないでしょう。本作は戦時下で政治色を避けたと言われる、いわゆる一連の「芸道もの」の一作ですが、男を世に送り出す為に自分をぼろぼろに傷つけてまでも尽くしていく女性というテーマはここでも健在。ラストのお徳の死と屋形船で喝采を浴びる菊之助との対比描写は、悲劇この上ない強烈なリアリズム。胸が締め付けられるような強烈な痛みと共に涙が溢れてしまいました。お徳が使用人であり、菊之助が歌舞伎界の御曹子という身分の違う恋愛を、結局、悲劇的結末に仕上げたことで、反体制的な印象を与えていることも見逃せません。政治色を避けたと言われる「芸道もの」ですが、本作を含め、『浪華悲歌』(36)、『祇園の姉妹』(36)にこそ、封建的な権力に対する溝口の怒りが顕著に現れています。やや舞台シーンが長過ぎるきらいがあるものの、溝口作品では外せない傑作中の傑作です。 10点(2004-02-15 14:30:46)(良:5票) |
6. ショーシャンクの空に
《ネタバレ》 物語がレッドを通して語られるため、全編を通して、やや説明的過ぎるところもありますが、時間軸をうまく操作しながら、観客を離さないストーリーテリングの巧みさは秀逸です。重厚な人間ドラマをたっぷり堪能しました。ただ、「あの塀を見ろ。最初は憎み、しだいに慣れ、長い年月を経て頼るようになる。」と言う、囚人たちの心理を一発で表現してしまう見事な台詞に代表されるように、この映画の持つ重みは、映像的要素ではなく、むしろこういった印象的な「台詞」の数々によって支えられていることは間違いないでしょう。「希望」や「勇気」を讃えるために用意されたラストシーケンスも印象的です。とは言っても、このラストが即時に「爽快感」に繋がるかと言えば、個人的にはノーでした。この映画全編を通して僕が感じたのは、人間が自ら創り出した、法律、法制度に支えられた「社会」というものの曖昧さであり、不完全さです。無実の罪で刑務所に入れられる者、あるいは、罪を犯しながらも罰せられない者。こうした事例は腐るほどあるはず。また、アンディが看守に財産運用の手ほどきをしていく辺りは、法制度、あるいは人間社会の不完全さをあからさまに描写しています。理不尽が存在するのは、塀の中だけではなく、塀の外であっても同じことなのです。この映画でいう「希望」とは、あくまでも、この理不尽、あるいは不運に襲われた時に「楯」になるべくものなのです。これを身に付けていなければ、ブルックスのように死を選ばざるをえないということになるのでしょう。まさに「必死に生きるか、必死に死ぬか」であって、この不完全な「社会」の中では、何かに「希望」を持っていなければ生きていけないのが現実なのです。この映画でいう「希望」とは、生きるために自らが己を守る「楯」なのです。ですから、ここで描かれる「希望」に、時として、非常に利己主義的なものを感じてしまうのは必然なのでしょう。レッドは幸いにしてこの「希望」という「楯」を手に入れ、アンディのもとに向かいますが、この再会が決して明るい将来を約束するものではないことは明らかではないでしょうか。この再会のラストで僕が感じたのは、「爽快感」などでは決してなく、むしろ、この理不尽な社会にあって、たとえ利己主義であっても、どうあっても「必死に生きることを選べ」という悲痛な、そして生々しいメッセージなのです。 8点(2004-10-30 19:46:41)(良:5票) |
7. 山椒大夫
安寿と厨子王で有名な小説を、溝口作品としては割と原作重視で、映画化した作品と言えるのではないでしょうか。溝口独特の「女の物語」に加え、原作の持つヒューマニズムが色濃く反映されているところがこの映画の特徴のひとつでしょう。ただ、この映画を世界的名画たらしめたのは、原作の持つヒューマニティたっぷりのストーリーなどでは断じてなく、圧倒的な映像美にあることは一見すれば明らかだろうと思います。もっと言ってしまえば、キャメラ。そしてそれがもたらす「構図」の美しさでしょう。フレームの一番手前の端に大木や建造物の一部を入れ込んで狙った奥行き重視の構図。この縦の構図の連続でこの映画の映像は成り立っています。キャメラはほとんど引いたままで、しかも奥までしっかりピントがあった見事なパンフォーカス。クレーンは多用しているものの、無駄にキャメラは動かさない。引いたキャメラのおかげで、お芝居の対象物がすっかりフレームに収まり、おまけにピントまであっているのでお芝居の区切りまで一切キャメラを動かす必要がないのです。ここでカットを入れたりキャメラを振り回すのは野暮ってものでしょう。結果的に長回しになり、崩れること無く、長時間保たれた美しい縦の構図の数々が、観るものの脳裏に焼き付き、そのままこの映画の印象となっています。そして、ここぞというお芝居の区切りでゆっくり、おもむろにキャメラが動き出す。キャメラによってここがお芝居の区切りですよと見事に物語を語っています。この瞬間はまさに芸術であって、この理にかなった律儀なキャメラワークは圧巻の一言。これは職人芸。ただ、同じ溝口の1930年代の傑作群ではお芝居の区切りでさえもカットを割らずに移動やパンでシーンをつなぐケースが多々あります。それに比べれば大映時代の溝口のキャメラは実に律儀で、いかにも「円熟期」といった感じがします。若さ溢れる30年代の溝口が好きか、それとも50年代の円熟期の溝口が好きか。これは好みの分かれるところでしょう。30年代と50年代。いずれも溝口の全盛期ですが、これが日本映画の全盛時代とぴたりと一致することを忘れてはならないと思います。ちなみに僕は30年代が好きです。 9点(2004-09-26 13:31:42)(良:5票) |
8. 十三人の刺客(1963)
東映のいわゆる「集団抗争時代劇」なのですが、この「集団抗争時代劇」という呼び方は何とかならないものかといつも思ってしまいます。なんだかヘンテコな呼び方で、おまけに意味がよく分かりません。なんだってこんなややこしい名前をつけたんだろう。もう少しスマートな名前を付けてもらいたかったと常々思っています。と、苦情はこの辺にして、呼び方はともかく、この映画、とても面白い秀作。お勧めの一品です。どうしても豪華キャストに目が行ってしまいますが、キャストのポイントで言えば、重要なのは明石藩主松平左兵衛斉韶の見事な悪役ぶりでしょう。菅貫太郎が演じるこの暴君の傍若無人な立ち振る舞い、憎らしい目付き。こいつを何とか懲らしめてやりたい。こんなやつは生かしておくな。と、思った瞬間に、観ているものは本作に取り憑かれることになります。観ているものが、こやつを憎らしいと思えば思うほど、当然プロットに力が出てきますし、逆にそう思わせなければ、ここで描かれる武士道や面目、それに対するシニカルなメッセージがとても弱いものになってしまいます。時代劇にはとんでもない悪役を無理なく設定できるという大きな利点があり、悪役の存在意義は他のジャンルに比べて極めて大きいと言えるのではないでしょうか。その意味で、本作における菅貫太郎の見事な芝居の功績は大だと思います。前半に見せるキャメラワークも秀逸。特に構図が素晴らしく、低く構えたキャメラは座敷をほぼ左右対称に切り取っていきます。このびっくりするほど左右対称な画面が生み出す様式美は一見の価値ありです。『七人の侍』などと比較されることもしばしばですが、この情緒は黒澤作品のキャメラ演出にはないものだと思います。また、奥行き重視のようで、襖などを必ずナメていくあたり、路地を突き当りまでしっかりととらえるロングなどにも確かな作家性を感じました。途中、若干、話を急ぎ過ぎた感があって、少しサスペンス性が削がれた感じもしますが、ラストの大殺陣で不満解消。さすが「集団抗争時代劇」の代表作ですね(笑)。 8点(2004-04-08 22:15:27)(良:4票) |
9. マッハ!!!!!!!!
これ、ほんと面白かったです。自分ってこんなの好きなんだなーってつくづく思ってしまいました。もちろん、映画を創る上で、CGを駆使したり、ワイヤーを利用したり、早回しを使ったり、もしくはスタントマンなどを使うことは全然邪道だとは思いません。ですから、これらを禁じ手としたという事実自体は、この映画を評価する上で全く考慮する必要はないと思います。ただ、小津が「俯瞰」や「移動」を自らの禁じ手としたように、作家の個性とは、自らに禁じ手を多く課せば課すほど明確になってくるものではないでしょうか。あるいはルビッチが猥褻表現の規制をかわすために独特のユーモア表現を生み出したように、作家性とは自由からではなく、むしろ不自由さの中から滲み出てくる個性のようなものでしょう。クラシカルな映画において巧みな映像表現が数多くみられるのも、今ほど映像技術が発達していなかった「恩恵」であるという見方も可能でしょう。そう考えると、幸か不幸か、この映画には強引に課せられたこの不自由さが存在していて、明らかに他のアクション映画とは違った個性を映像にもたらすという効用を生んでいます。個人的にお気に入りなのがカーチェイスのシーケンスです。この生々しさは、まさに不自由さの「恩恵」。スローモーションはちょっとわざとらしいのですが、観たことも無い「新鮮」なアクションシーンはまさに圧巻です。ただ、このトニー・ジャーという男。コメディーのセンスが。。。。ない!プロットがプロットだけにこの路線で行くならどうしてもコメディーセンスは必要でしょう。そうでないときっと「飽き」という、作家として最大の難敵にぶち当たるような気がしてなりません。 7点(2004-09-20 18:04:10)(良:4票) |
10. 死刑執行人もまた死す
《ネタバレ》 マーシャをかばった花屋の老婆が地下室で息を引き取るカット。鉄格子が作り出す長い影の向こうに浮かび上がるやつれた容姿。全編にわたって光と影、そして白と黒のコントラストを効かせた映像が印象的。プロットも秀逸で、前半はややしつこさがあるものの、後半の大胆な編集によるスピード感は圧倒的。一気にテンポアップしていきます。レジスタンスの地下組織でナチのスパイとして活動するチャカ。ゲシュタポそのものではなく、この卑怯千万な裏切り者を陥れて行くという展開が実に面白いです。このあたりはまさに第一級のサスペンス映画。戦争はどうしても集団という群れの中で生きることを人に強いるもの。単独で生き抜いて行くことを容易には許しません。ゲシュタポが生まれれば、レジスタンスが生み出され、一つの組織がもう一つの組織を作り出す。人々はこの組織の一員と成らざるを得ず、結局のところはその動向、形勢によって振り回されることになります。ゲシュタポとレジスタンス。この二つの組織のどちらからもはじき出されたチャカの悲劇はとても興味深いです。卑怯千万な彼の死は自業自得。しかし、徹底的におとしめられた彼の死は、「群衆」の恐ろしさをまざまざと感じさせます。反ナチス映画としてとらえればいいのでしょうが、市民の結束によって果たされたこの復讐劇にも、やはり非人間的なものを感じてしまいます。裁かれることなく撃ち殺されるチャカの死は決して民主的な解決にはなっておらず、まだまだこうした戦いは繰り返される、つまりNot TheEndということなのでしょうか。 7点(2004-03-18 20:37:26)(良:4票) |
11. 最後の人
サイレント映画は、決して「サイレント」なのではなく、伴奏や弁士が付いたり、結構、賑々しく上映されていたことは周知の事実でしょう。ところが、これを現在鑑賞するとなると、粛々としたまるで儀式のような中でスクリーンを見つめるか、あるいはひとりぼっちでテレビ画面とにらめっこという状況に限られることがほとんどで、結果的に、お勉強モードに突入してしまう。。。。これはサイレント映画の鑑賞としては、明らかに間違った、そして不幸な環境であると言えるでしょう。でも、こうゆう「不利」な状況にあっても、心を動かされる見事なサイレント映画のいくつかが、現在に至るまでちゃんと語り継がれていることも事実。お勉強モードを否定しておいてなんですが、本作は、こうした「不利」な状況の中で、なぜサイレント映画なるものが、僕たちの心を動かすのか、そして何が映画なのかという疑問に答える格好の教材になり得るのではないか、と僕は思うのです。芸術とは美の表現。表現には「言語」が必要です。すなわち、映画における映像は記号に置き換えられ、それはまた「言語」に置き換えられる。音楽にしても美術(絵画や彫刻など)にしても、全ては「言語」に置き換えることができ、それぞれが単独で語る力を有していると思います。ですから、映画の場合、物語を語るのに、台詞や字幕スーパーインポーズという直接的な「言語」がなくても、映像さえ存在していれば、芸術たりうるはずであって、本作のように映像のみで映画を芸術に仕立て上げることは十分可能なのです。映像は「言語」であり、それ自体、単独で語る力を持っている。さらに言ってしまえば、映画はその映像の芸術。その意味で、これは映画という芸術のエッセンスが凝縮されたような作品であり、その本質をズバリ射ぬいた大傑作ということになるのではないでしょうか。技術の進歩によって実に多くの種類の「言語」を映画に取り入れることが可能になった現在。そして、それゆえにあらゆる「言語」を詰め込み過ぎて映画の本質から離れてしまった映画が多い現在。そうゆう現在だからこそ、今だからこそ、この作品は高く評価されるべきだと思うのです。 10点(2004-12-14 11:44:45)(良:4票) |
12. 下妻物語
これはなんとも困った映画です。だって面白いんだもん。でも、これは映画じゃなくて、漫画ですよね。カットが多過ぎる上に、カット割りが映画のそれとは違うし、この独特のモンタージュには多少戸惑いました。おまけに、何の躊躇もなく役者がキャメラ目線で観客に話しかけるという、こうゆう文法はとても苦手。アニメーションのインサートに違和感はありません。でも、正直に言うと、これもちょっと苦手。水野晴夫が登場するシーケンスでは僕も大爆笑。でも、このシーケンスは単なる「笑い」以外に奉仕しているものは何もないのではないでしょうか。映画における「笑い」とは、そこにウェットがあったり、反語的な意味が含まれていたり、あるいは人物の個性を表現したり、映画を色づけるもっと広意義なものでなくてはならないのではないでしょうか。つまり、このシーケンスはどこにも繋がらず、そして何も残してはくれない。これでは単なる「お笑い」です。僕が本当は傑作である本作を見誤っているのかも知れませんし、大事な部分を見逃しているのかも知れません。あるいは単にこの文法が体質に合わないのか。云々。確かに思いっきり笑わせてもらいましたので、それが狙いだと言われれば、これは納得するしか仕方がありません。そうゆう映画なんだと。そしてこれは才能なんだと。でもやっぱりこれでいいんだろうか?という疑問も脳裏をよぎります。笑えなかったら思いっきりブッタ斬るのもよかったのですが、僕は思いっきり笑ってしまいました。でも、なにか釈然としない。なんとも困った映画です。映画ってこれでいいのだろうかって言う意味において。斬新な映画とは、映画ではなくなることでは決して無いのです。素晴らしいお手本がいっぱいあるのにどうしてそれを真似しないのか。こうゆう映画はレビューなどせず、放置しておくべきとは思ったのですが。。。とりあえず、中途半端に4点ということで。。。ダメ?。おまえ思いっきり笑ってたじゃないかって?。やっぱダメか。。。じゃ、5点。これ以上は無理かなって気がします。 5点(2004-12-26 22:43:24)(良:4票) |
13. 明日に向って撃て!
《ネタバレ》 ブッチとキッド、ニューシネマを代表する二人のキャラクターにはやっぱりひかれてしまいます。反体制的な若者の映画ですが、実はキッドは泳げないし、ブッチは人を撃ったことがない。ギャングという犯罪者であり、破天荒な二人ながら、弱さ、滑稽さを同時に持った彼等にはついつい共鳴していってしまいます。「おれは実は人を撃ったことがねーんだ」「そりゃ、ありがたいお言葉だ」なんてカッコ良い台詞の数々はゴールドマンの功績でしょうか。二人の素性は最後の最後まで完全には明かされず、こうした気の利いた台詞のベールでうまくかわしていきます。ラストはいろいろな選択肢があったと思いますが、二人を正面から捉えた静止画で止めたことで、エッタの「あなたたち二人の死ぬところは見ませんからね」を実現し、彼等を永遠の存在へと変えていきます。冒頭のブッチが銀行の下見をする場面は、セピア調で情緒があるにもかかわらず、引きの画をさけて大胆にカットを割り、ファーストシークエンスとしては最高の出来。一気に作品に引き込む見事な導入部です。ニューシネマの作品群では特にお気に入りの一品です。 8点(2004-01-18 18:00:25)(良:3票) |
14. 天国から来たチャンピオン
割と好き嫌いがハッキリする映画ではないかと思いますが、元気が出ると言うか、前向きになれると言うか、映画の効用と言うべきものがいっぱい詰まっていて、大好きな映画の一つです。オリジナルの『幽霊紐育を歩く』は観てないのですが、シンプルなストーリーの中に散りばめられた毒のない笑いのアクセントがとても心地いいです。大富豪の夫を殺そうとする妻と秘書でさえも、微笑ましく思えてしまいます。国旗を掲揚しながらの空砲が、幕間のようなオチを作っていたり、銃声を消す小道具になっていたりと、なかなか重要な役割を持っていて印象的。天使に間違われて、天国に連れて行かれたと思ったら、他人の体を借りて地上に降りる。言ってみれば、相当なファンタジーなのですが、むしろこの映画における最大の奇跡は、ジョーのどこまでも前向きで、純粋な人間性でしょう。どんな環境にあっても、どんな立場に置かれても、自分らしさを失わない彼こそ奇跡の人。肉体は朽ちようとも、その人の人間性は、きっと生きている誰かの心に残っていくのだということを教えてくれるラストシーンに素直に共感しました。 8点(2004-03-03 22:07:02)(良:3票) |
15. 第三の男
《ネタバレ》 第三の男は誰だ?というサスペンスを巧みに盛り上げながらも、謎解きに終止することなく、重厚な人間ドラマに仕立てていく展開が実に見事です。それどころか、むしろこの映画におけるサスペンスという要素は、後半の愛憎ドラマの序章にすぎないと言えるでしょう。軍からペニシリンを盗み出し、水で薄めて売りつける。使用した患者は精神をヤラれるか、死に至る。こんな悪行を重ねる犯罪者は友人でもあり、愛しい人の恋人でもある。オーソンウェルズの才能は疑うべくもありませんが、難しい立場を演じるジョセフコットンもやはり名演です。結局、彼は犯罪を許さじと、友人を警察に売り渡すことになるのですが、アンナの一途な愛によって、善人であるはずの彼があたかも悪者のように印象づけられていく展開が、なんとも凄まじく切ない。ラスト近くの葬儀シーンは、冒頭の葬儀シーンと全く同じロケーションであるにも関わらず、同じなのはロケーションだけで、それぞれの人間関係は全く別ものに変貌しています。有名な「すれ違いの」ラストはこの差異によって導かれ、物語の奥深さを見事に暗示した、まさに映画史上屈指の名シーンです。ロバートクラスカーのキャメラも一級品で、特に下水道の追跡シーンは秀逸。ただ、時折見せる「斜めの構図」は、不安感を出すという意図は達成されているとは思いますが、少しだけ浮いて見えました。効果をあげているのは確かなのですが、なんというか、恐縮ですが、生理的に合わないという理由であの構図は駄目でした。 8点(2004-01-20 22:51:15)(良:3票) |
16. 穴(1960)
《ネタバレ》 映画音楽というものが徹底的に排除されているにも関わらず、ここまで緊張感を出せるとは驚きました。穴を掘る音、看守の足音といったものが、妙に強調されて耳に残ります。そして穴を掘り終えてマンホールから囚人の一人が顔を出すところでの都会の雑音。刑務所の内と外での音の対比に思わずはっとしました。 8点(2003-10-17 22:59:37)(良:2票) |
17. 切腹
《ネタバレ》 社会派の印象が強い小林監督の初の時代劇です。時代劇という形をとっていますが、主題はいわゆる形式や権威などといった”うわべ”に固執するのではなく、家族への愛情といった普遍的な価値観を説くという、まさに社会派そのものです。主人公である津雲半四郎の回想を通して、ある若い浪人への観客の感情が徐々に変えられていき、最後には180度転換します。これほどまでに回想という手法が効果的に使用されている脚本には滅多にお目にかかれないと思われるほど、ストーリー展開は見事です。その綿密な脚本によってあまりにも主題が明確かつ強烈に印象付けられるため、時代劇の象徴というべき立ち回りのシーケンスがむしろ自分にはサービスカットに見えてしまうほどでした。竹刀での切腹シーンは非常にインパクトがあります。もちろん竹刀で腹を切るというシーケンスはこの作品において重要な意味を持っています。また、この直接的で残酷な表現によって、悲劇性が強調され、観客がよりいっそう主人公に感情移入していくという効果をあげているのも事実です。ただ、この作品は大好きで何度も繰り返し観ているのですが、最近、この竹刀での切腹シーンはここまで直接的に表現する必要があったのか?という印象も持つようになっています。 10点(2003-10-17 00:56:53)(良:2票) |
18. 乱
《ネタバレ》 楓の方が首をきられるシーンでの躍動感と凄み、大炎上する城、ラスト近くで三郎が矢に倒れるシーンでの衝撃など、見応えのある場面が点在していますが、途中で何回か息切れをしてる感があります。新人や素人の役者を使い、自然な演技を求めたというものの、逆にあまりにもお芝居が堅く、効果的ではない気がします。『影武者』にも言えることですが、違和感すら覚え、作品に入り込めない一つの要因になっているような気がします。また、秀虎が発狂する場面も「大殿が狂われた!」と衝撃的な演出で成功していますが、この後、この狂った様をピーターとの絡みで何度も繰り返し描かれるとさすがに流れが悪い。もちろん狂言の様式を取り入れた台詞のやり取りは往年の力量で、個々のシークエンスとしては評価できますが、あまりにも同じ要素を持ったシーケンスが次々と繰り返されるのは評価の分かれるところ。ただ、この作品は一文字家の家紋が「日」と「月」を象った、「明」であって、秀虎はまさに黒澤の分身との意が強い。その意味では、他の作品に比べて、特に個人的な趣向が直接的に作品に反映されている、いわばライフワークと考えてもよく、多少のしつこさは致し方ないところか。とにもかくにも、この作品は黒澤監督がやっと自分の為に映画を作れた作品であると位置づけたいのですが、こうした重要な作品に黒澤の最良の分身であった三船がいない、ということはやっぱり悲劇であったという気がします。往年の作品に比べて、何か悲壮感が漂うこの作品も、三船であったならば、何か違った演出を試みたのではないか、と思われてなりません。 7点(2003-10-28 00:52:56)(良:2票) |
19. 座頭市(2003)
驚いたのは色彩です。「銀のこし」処理なのか、デジタル補正なのか解りませんが、ここまで色を落とす必要はなかったのではないでしょうか。これは好みの問題なのかもしれませんが、本作の作風からすればもっと色を強調してやった方が絶対によかったと思います。プロットはまずまず。相変わらず行き当たりばったりの即興的なストーリーであることは明白なのですが、これがなかなか面白くて、結構楽しめました。これはもう完全に北野監督の持ち味。ご都合主義的なお話で、3段落ち、いやラストカットまで含めれば4段落ちの結末ですが、エンターテイメントとしては十分成功しているように思います。もちろん勝新の座頭市とは全くの別物。もっとも同じ勝新の座頭市でも大映シリーズと後の座頭市(89)では、すでに趣を異にしていますので、勝新だってこれくらいは許してくれるはずです。タカの剣術稽古のシーケンスは大爆笑。TVドラマなどの時代劇で見られる殺陣の形式主義を見事に皮肉っていますね。言ってみれば、お約束的な笑いなのですが、わかっていても思わず吹き出してしまう笑いの数々。流石です。タップシーンも圧巻。ただ、これらを「斬新」と評するのはちょっと早計のような気がします。すでに戦前においても、伊丹万作、山中貞雄などが時代劇にこうしたユーモアをちりばめた傑作を残していますし、マキノの時代劇『鴛鴦歌合戦』(39)に至っては完全にミュージカルです。これを初見した時の驚きに比べれば斬新という印象はやっぱり薄いです。この映画に対する斬新という形容詞は現在のTVドラマの時代劇に対して当てはまるものであって、映画史的にみれば、決して斬新なものではないのではないでしょうか。伊丹万作、山中貞雄、稲垣浩らの残した傑作時代劇。TVドラマはいざ知らず、映画史的に見れば、これこそ斬新な時代劇だと思うのです。一方ではリアリティを求め、他方ではそんなものは切り捨てる。そして、あらゆるものを詰め込もうとしたこの映画に漂う妙なアンバランスさは、決して観客に対する迎合(サービス)のみに起因するものではないでしょう。勝新の座頭市からは逃れることはできても、北野監督は、日本の伝統的な時代劇の枠組みからは決して逃れることはしなかった。これは斬新な時代劇などではなく、北野監督が愛した先人へオマージュの塊が生み出した映画でしょう。何しろ、北野監督は時代劇の大ファンなのですから。 7点(2004-04-17 01:28:28)(良:2票) |
20. 祇園の姉妹(1936)
場面のほとんどが縦の構図を狙った引きのショットから始まり、そのまま長回しでワンシーンを丸ごと収め終わったかと思うと、今度はゆっくりと横移動を始め、さらに別のお芝居がフレームに入ってくる。『浪華悲歌』(36)と同様に、全編に渡る「引きの長回し」がとても素晴らしく、キャメラワークはまさしく逸品です。後の『残菊物語』(39)と比べると、多少、人物の動き(出入り)が少ない分、舞台的に映っている感もありますが、それでも引きで固定されたキャメラが、人物の動きにあわせておもむろに横移動しだす瞬間はまさに芸術。溝口作品を観る楽しみの一つはこの横移動の美しさであって、少々大げさかもしれませんが、これを観るだけでも十分価値があるのではないかと思います。有名なラストのおもちゃの絶叫シーンも、それまで引きの画に終止し、横移動を繰り返していたキャメラが最後の最後でいきなり縦に前進移動するからこそ、凄みがあります。それまで客観的な視点をもっていたキャメラがまるで魂を吹き込まれたかのように突然前進してとらえる急転直下のクローズアップ。静寂を打ち破るかのようなこの主観ショットは、クローズアップとはこう使うのですよ、というお手本であると同時に究極のリアリズム表現。それにしても溝口監督の描く男の姿とはなんと愚かで、情けないのでしょう。おもちゃが次々と男を騙していくところなどは、滑稽に、いわば喜劇として描かれていますが、こんな馬鹿げた男たちにでさえ、最後には打ちのめされてしまうという、女の現実がほんとうに切実で胸が詰まる思いがします。ただ、そうは言っても、おもちゃの悲鳴の中には、「男になんか負けるものか」という、「女の強さ」も確かに感じ取れます。いや、むしろあのラストの主観ショット。あれは敗者に対する演出では断じてないでしょう。溝口監督が描きたかったのは「女の悲劇」ではなく「女の強さ」の方であったに違いないのです。おもちゃも梅吉も最後まで自分の信念を決してかえようとはしない。そして、この映画において、封建的な社会に対して一撃を加えるのは女性。小津に「おれには創れない」と言わしめた本作ですが、おそらく小津に描けないと感じさせたのは、全編を通して感じられるこの凄まじいほどの「女の強さ」ではなかったか、と思います。溝口の代表作とする人も多い傑作です。 9点(2004-02-24 22:49:57)(良:2票) |