1. 映画ドラえもん のび太の恐竜2006
《ネタバレ》 公式HPの予告編に只ならぬ物を感じ、観てきました。 公園の湖に野次馬やマスコミが押し寄せたシーンや、タイムマシンに乗っての 恐竜ハンターとのカーチェイス(?)シーンなど、物語全体から見ると明らかに 浮いてしまっているシーンはありましたが、声優や制作スタッフを総入れ替えしての リメイクがこれほど上手くいくとは、正直思っていませんでした。 声優入れ替えにより、これまでのお助けマン的存在から、のび太と一緒に悩んで 動き回る友達的存在へと変化したドラえもんの性格や立場をスムーズに受け入れられ、 制作スタッフ入れ替えにより、これまでのドラえもん映画では観られなかった、 生理的快感を生む素晴らしい作画を観られ(特に作画の線を、手のぬくもりが 感じられる微妙な描線で描いた事により、線自体が演技をし、各場面でのさらなる 感動を生み出した)、大いに感心・感動させられました。 これらがドラえもんの映画に新たな可能性を生み出した事は間違いないでしょう。 ピー助との二度の別れのシーンにはいずれも泣かされましたが、特に最後の シーンでは、それまで隣の席で両親の膝上に乗って退屈そうに遊んでいた3歳くらいの 子供が、突然「ドラえもんかわいそう~」と館内全体に響くくらいの大声で 泣き出し、こちらもさらにつられてしまいました。また、前に座っていた親子連れ (両親・8歳くらいの男の子と6歳くらいの女の子)の、両親二人は時折ハンカチで 涙を拭き、上映終了後に女の子は「私、最後までちゃんと寝ないで観たよ! おもしろかったよ!」と誇らしく家族に語っていました。 これまで色々な映画を映画館で観てきましたが、「(この作品を)映画館で観て 良かったなあ」と、他の観客と直に感動の共有が出来た体験をこれほど嬉しく 思った事は初めてです。 作品評価は9点ですが、この気持ちをプラスして10点とさせて頂きます。 [映画館(邦画)] 10点(2006-04-23 05:04:06)(良:3票) |
2. シン・仮面ライダー
《ネタバレ》 できる限り作品情報をシャットアウトしながら予備知識や先入観を持たず――それでも作品評価が賛否両論であるという情報や軽いネタバレをネットでくらってしまったが――大学生の息子と二人で鑑賞。戦いに身を投じていくこととなる「人につくられた者たち」のアクションと、過去に理不尽な形で家族を失っていた彼らの悲しみや彼ら同士のほのかでプラトニックな心の交流が描かれる。 登場人物の心の動きというか、心動くきっかけやタイミングが僕の感覚とマッチしなかったため、物語そのものには乗り切れないところがあった。シーンがぶつ切りに見えてしまったり、物語やその背景に従って登場人物が半ば無理矢理動かされている印象を強く持ってしまったりもした。だが、ここ一週間ほど僕自身に家族にまつわる辛いことがあったため、主人公たちのやるせなさや悲愴感が普段以上に心に沁みて仕方がなかった。映像や書籍などに触れるタイミングがその個人的評価を大きく左右するのだと改めて強く感じた。 フィルム面からは、庵野監督の目と耳の良さを改めて感じた。アクションシーンの動きは総じて早めだが、そのスピードが絶妙で、見ていて気持ちがいい。また、そこでの殴打時の効果音の太さと大きさにも驚きと生理的快感があり、それが堪能できる大音響での鑑賞が家ではほぼ不可能なことを考えると、これだけでも劇場で鑑賞できて良かったと思う。 ちなみに、庵野監督作品で劇伴担当が鷺巣詩郎でない作品を観るのは『トップをねらえ!』以来で、これまでの作品とは異なるメロディアスで現代的な音楽も印象に残った(今回劇伴担当の岩崎琢は『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編』の劇伴を通じてリアルタイムで知り、一時期ファンとして熱心にその音楽を追っていたので、今回の起用は嬉しかった)。 現在は息子自身も辛い状況にあるはずなので「面白かった」「かっこよかった」だけでなく、本作を覆う沈痛な感情と、それでもそこから自らの手でつかみ取るべき可能性を本作から掴んでほしいと思う。一緒に観て良かったと思った。 [映画館(邦画)] 8点(2023-03-27 11:07:00)(良:3票) |
3. 祭りの準備
《ネタバレ》 昭和30年代初め、主人公・楯男が住む高知の田舎町は、人々が肩を寄せ合うように生きる、極めて濃厚な人間関係が充満する町だった。治安も性的モラルも高いとは言えず、シナリオライターを夢見る楯男にとっては何もない町に見える。 父親・清馬は近所の恋人の家に入り浸り帰ってこない。そんな父親との関係をあきらめた寂しさからか、その寂しさの代償行為としてか、母親・ときよの愛情は楯男に向かっていく。その愛情は、楯男には少しずつ重荷になっていく。 信用金庫の仕事には生きがいを見いだせず、木曜会と呼ばれるうたごえ運動で出会う涼子(竹下景子)に心を寄せても受け入れてもらえない。楯男は、まるで吹き溜まりのような町から、また、現状から逃げ出したいと考えている。 そんな中、大阪のキャバレーで働いていた近所の幼なじみ・タマミが戻ってきた。ヒロポンの打ち過ぎでタマミは頭がおかしくなっていた。性に奔放なタマミは、夜の浜で毎晩、楯男の知り合いも含めた若い男と寝ていた。楯男もある夜、タマミのところを訪れるのだが…。 今回の再観で驚いたのは、48歳の僕が、二十歳そこそこの主人公・楯男に感情移入していたことだ。 まずは仕事という観点から考えてみよう。シナリオライターを仕事にするには、当時ならば上京する道しかなかっただろう。映画会社の近郊に住みながら、そして、映画関係者と連携を取りながら勉強を重ねていくことが必要だったと思われるからだ。 次は環境面から考えてみたい。これはあらすじから容易に導き出せる。どちらかと言えばおとなしいタイプの楯男は、町の若者からは浮いた存在だ。政治への関心は薄いようなので、木曜会メンバーと気が合うわけでもなさそうだ。涼子とも深い仲になれそうもない。それどころか、涼子は、都会から来たオルグの青年に惹かれてしまったようだ。家庭も居心地がいいとは言えない。結局、楯男は孤独なのだ。地元を離れることへの抵抗は少なかっただろう。 楯男の場合は、将来の夢と現状から逃避したい気持ちが一致して、上京という行動を起こさせたのだろう。こうやって考えてみると、上京したいという楯男の気持ちは、環境と感情に裏打ちされたものといえる。これなら世代に関係なく感情移入できるかもしれない。 ところで、今回は楯男だけでなく、楯男の祖父・茂義にも感情移入してしまった。これは僕の年齢とも関係が深いように思われる。 頭がおかしくなったタマミはどんな男も受け入れる。関係を持った多くの男の中、茂義は心からタマミに惚れ、愛して可愛がる。周りは「いい齢をして」と眉を顰めるが、誰の子を孕んだか分からないタマミの面倒を、新たな生きがいを発見したかのように見るのだ。女としてのプリミティブな魅力を持つ、若いタマミが明るく振る舞えば、年配の男はいちころであろう。中年となった僕には、その気持ちがよく分かってしまうのだ、ちょっぴり悲しいけれど。 一人で映画『南国土佐を後にして』を観た後(分かりやすい象徴的なタイトルだ)、楯男は涼子に声をかけられる。ダンスホールへ行った後、二人は宿泊する。オルグの青年と寝たと告白する涼子は、その傷を埋めるように楯男を求める。据え膳を食う形となった楯男だが、以前のような、涼子に対する情熱はない。宿直先にも夜這いに来る涼子。清純で聡明なはずの彼女も、欲と本能に流される人間だったのだ。宿直室が火事になってしまい、涼子が来ていたことが信用金庫の上司に知られてしまい、叱責される。これで楯男は、涼子への気持ちを無くしてしまったのだった。上京の動機へのダメ押しが成されたのだ。 ある朝、普段通りに家を出る楯男。飼っていたメジロを逃がし、あらかじめ隠しておいた荷物を持ってそのまま東京を目指すため駅へ向かう。駅にはタマミの兄・利広(原田芳雄)がいた。強盗殺人を犯し逃亡中だったのだ。利広は楯男に金をせびるが、楯男がこれから上京すると知り金を返す。利広に駅のホームで見送られ、楯男は上京への一歩を踏み出す。「バンザーイ」と見送った利広だけが、結局、楯男の上京を祝福してくれたのだった。 書いていて、目頭が熱くなってしまった。利広は、素行が乱暴で兄嫁にも手を付ける、どうしようもない男だが、最後に、本作を観ているこちら側は、彼を憎めない奴、いい奴だと感じてしまうのだ。この人物観の逆転もこの作品の魅力なのだろう。 最後に、ここまでの感想からこぼれ落ちてしまった本作の印象を書いておきたい。本作は男の世界だ。下品で猥雑、そして田舎の共同体の濃密な空気が充満した雰囲気。苦手な人もいるかもしれないが、僕はそこが大好きだし、何とも言えない心地良さも感じる。もしかしたら観る人を選ぶ作品かもしれないが、普遍的な青春を描いた傑作映画だと僕は思う。 [DVD(邦画)] 10点(2020-06-09 13:01:37)(良:2票) |
4. 二十四の瞳(1954)
《ネタバレ》 「大アンケートによる日本映画ベスト150」で名作と知り、ビデオレンタルで初めて観たのは大学4回生の時。画像が良くなくて台詞が聞き取りにくいというのが第一印象で、正直、内容や良さはよく分からなかった。それでも格調の高さは感じられたので、一応ダビングして保存▼二年前、そのビデオを当時小学3年の息子に観せたが、半ばでギブアップされる。曰く「面白くない」▼その頃にブルーレイが発売され、何となく購入。そして昨晩ようやく1人で鑑賞。この年になってようやく分かる。「確かにこれは名作だ」▼程良い広さと美しいロケーションを持つ小豆島。島の風景と、そこで描かれる村民の生活が素晴らしい。まずは風景を観るだけでも心が和む▼顔やしゃべりかた、立ち振る舞いで、それぞれの個性がよく出ている島の子供。その表情を丁寧にとらえたカメラワークも素晴らしく、容易に見分けられるそれぞれの子供に感情移入が出来、後に描かれる貧困や戦争による悲劇が一層胸にしみる▼その子供を誠実に受けとめる大石先生。高峰秀子の年齢に応じた演じ分けは本当に見事▼ただこの作品、何の予備知識も無いまま観ても面白くないのも確かだろう。映画内で語られる、ほんの90年ほど前に当たり前だった生活環境――例えば産後のひだちで母親が亡くなり、間も無く赤ん坊も母乳をもらえないまま亡くなる状況――は今ではほとんど見られない。こんな状況は、僕でさえ咄嗟には信じられない。ましてや今の子供が観たら想像さえ出来ないはずだ ▼ある程度の人生経験と予備知識が無いと感動を味わえなくなってしまった名作。そして、それが時代を誠実に反映して撮られたゆえのこの現状。歴史とは皮肉なものだ。 [ブルーレイ(邦画)] 10点(2015-04-05 00:35:24)(良:2票) |
5. 火垂るの墓(1988)
《ネタバレ》 「やっぱり戦争って嫌だなあ」「あの小母さんは嫌な奴だなあ」「清太はともかくとして、節子かわいそう」、以上が私が高校の時、劇場で初めて観た時の主な感想です。ところが今では、「節子の為にも我慢して(あるいは手伝い等をしてでも)小母さんの家に居ついていれば良かったのに」という感想が真っ先に浮かびます。恐らく初めて観た時の年齢や考え方によって評価がかなり大きく分かれる映画なのだと思います。大人の社会で日々努力している人達が観れば、清太の身勝手さを腹立たしく感じるでしょうし、思春期を過ぎるまでの人達が観る(あるいは観せる)ときっと清太に共感を覚え、映画のやるせなさに打ちのめされるでしょう。当時の私のように…。 [映画館(邦画)] 7点(2007-06-09 01:40:07)(良:2票) |
6. シン・ウルトラマン
《ネタバレ》 本作を観たのは上映初日の夜だった。上映終了後は作品を十分に楽しめた気持ちこそあったものの、心震えるほどの昂揚はなく、どこか冷めた感覚も残った。 帰宅する道中から帰宅後しばらくの間、どのように本作を捉えればいいのかと考え、まずはこれまで庵野秀明監督がかかわった『シン~』シリーズと比較してみようと思った。その観点から把捉した本作は「『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のような感慨はなく、また、『シン・ゴジラ』のような社会性も感じられない作品」となった。 『シン・エヴァ』からは庵野監督が25年の歳月をかけて一つの作品を終了させた(終了させることができた)ことへの感慨とそこからの感動が僕の心を充たしてくれたし、作品のバックボーンから垣間見える監督の「旧劇場版」以後の人生観が作品に深味と説得力を与えていたと思う。 東日本大震災の原発事故によって人ごとでなくなった放射性物質の恐ろしさがアレゴリーとして込められた『シン・ゴジラ』からは、娯楽作品として楽しむだけにとどまらない、映画としての意義や存在感が強く感じられる。 ところが本作からは上記二作品のような、作品を貫く骨子のようなものが感じられず、作品へのキーワードがすぐに見つけられなかったのだった。 やがて日にちが経つと、ネット記事やツイッターにネタバレを含む文章が徐々にあがり始め、その中には強く実感できるものや本作の本質を鋭く突いたものも現れるようになった。そして上映開始日から二週間経つと、48時間限定ではあるものの公式HPが映画冒頭の1分17秒――本作の前史として『ウルトラQ』禍威獣を簡潔かつインパクトを持たせて登場させたパート――を公開するに至っている。これまではっきりと表せなかった自分自身の初見での印象や感想が、こういった情報によって変容してしまうことへの恐ろしさがついに閾値に達したのだった(たぶん今ではすでに若干の変容はあるだろう)。自分の中で一度本作を総括しておきたい気分が高まったのだった。 あれこれ考えた末に絞り出した、本作に対する僕のキーワードは、ちょっと変かもしれないが「リスペクトで作られたオマージュ」だ。言葉遊びっぽくなってしまっていることは承知しているが、本作にはこのような言い方が一番しっくりくると思っている(語呂は悪いけれど)。 このキーワードから賞翫した本作はほぼ完璧と言っていい。1966年の『ウルトラマン』(以下、『旧作』)の名シーンが現代の映像技術によって、時にスマートに洗練された状態で、時にさらなる迫力を持って、時には精緻に再現される。マニアにしか分からない細かいシーンもきちんと再現されている。ちなみに、僕が特に感心した再現シーンは、にせウルトラマンの頭部をチョップしたウルトラマンが、そのマスクが硬かったために思わず腕を振って痛みを紛らわそうとしたところだ。『旧作』において人が演じたことで起こったNGギリギリのシーンを、CGで作られた本作がわざわざ再現しているのだ。 舞台となっている現代の政治システムや社会情勢の下で出現する禍威獣や外星人によって生ずる災いやリスクの多くは、今の人類の力では到底解決できない。その事態を何とかしてくれるものの登場を望む気持ちが劇中においても、また鑑賞する我々観客の心にも極めて自然に醸成されていく。彼の登場シークエンスそのものは、物語面から見ればお約束に沿ってしまっているように思えるものの(それなりの立場にある主人公の神永がどうして自ら子供を助けに行ったのか、また、その後も勤務中に彼がいなくなることを禍特対のメンバーがなぜあまり気にしないのか、こういったお約束感こそが本作へのどこか冷めた感覚の大きな要素だとここまで書いてきてようやく気付いた)、そこに現れるべくして現れた彼はまさに救世主であり、どうにもならない災厄を人類の代理人として解決してくれるウルトラマンの必要性や本質、そして特性が見事に表現されていると思う。 さらに言えば、ガボラ、ザラブ、メフィラス、ゼットンと、物語が進むにつれて登場する禍威獣・外星人の脅威度はどんどん上がっていく。人類滅亡のリスクが増大していくために、劇中におけるウルトラマンの必要性もますます強くなるのだ。構成の妙だろう。 最後に印象に残る登場人物を少々挙げてみたい。メフィラスのふてぶてしさと頻出する台詞「私の好きな言葉です」「私の苦手な言葉です」(昔からシンプルなことわざを自作に好んで用いる庵野監督らしさが感じられる)。それから、ネットで否定的に語られることも少なくなかった、スタッフのフェティシズムが爆発した、タイトスカート姿で巨大化した浅見の姿や、神永が彼女の匂いを嗅ぐシーン。邪な心が刺激され、個人的にはとても好きだ。 [映画館(邦画)] 8点(2022-05-29 13:37:14)(良:1票) |
7. シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
《ネタバレ》 本作の率直な感想は「庵野監督がTVシリーズの最終2話で本当に描きたかったのはこれだったんだ!」である。 主人公・碇シンジの心の決着、そのために必要不可欠な通過儀礼となる父ゲンドウとの、互いの心を包み隠さない摯実な対話。そしてシンジの周りの主要キャラの生と死。 失礼ながら、TVシリーズ製作当時の監督には、これらを描ききるだけの力量はなかったのではないか。当時は製作スケジュールの破綻から最終2話があのようになったと記憶している。派手なメカアクションを伴う総力戦を描くだけの作画スケジュールが無かったことももちろん大きな理由だっただろう。だが今の視点からは、監督自身の人間的な深みが今ほど熟成されていなかったことも大きかったのだろうと推測できる。 その後の、旧劇場版製作の過程で受けたバッシング、様々なアニメや実写映画の製作、結婚など、監督のその後の人生経験が、本作を描き切る糧となったのだろう(これまでの版権などで獲得した資産や、そこから得られる潤沢な時間も大きい)。シンジやアヤナミレイ(仮称)に注がれるトウジやヒカリ、ケンスケの人間的深味と優しさは、監督がその半生で得たものがそのまま反映されているに違いない。 後半に畳み掛けるように頻出する専門用語のため、詳細な状況把握が出来ないのはいささか残念だが――そのため10点満点には出来ない――、25年越しに実現した正式な物語の完結、それによって心の平穏を獲得したであろう監督への祝福の気持ち。映画の観方としては若干いびつかもしれないが、こういった様々な要素が混じりあってじんわりと僕の心も救ってくれたし、監督を祝福したい気持ちにもなった。だから、感謝の意を持って、上映後の映画館で大きな拍手がしたかった。だが、10数人しかいない観客が静かに椅子から立ち上がって去っていく、静寂に包まれた環境下――ちなみに観たのは4月5日(月)の夜――では恥ずかしくてとても出来なかった。そこで、手のひらの力を抜いて、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで8回拍手したのだった。 おめでとう、そしてありがとう、エヴァンゲリオン。 追記:本作と新劇場版Qは、本来間隔を開けずに公開されるべきだった。それが実現していれば、世間の、そして僕個人のQへの観方や評価は今よりも好意的になっていたはずだ。仕方のないこととはいえ、勿体無い話だと思う。 [映画館(邦画)] 9点(2021-04-12 12:24:33)(良:1票) |
8. 用心棒
《ネタバレ》 ある宿場町に立ち寄った浪人風の男。そこは絹を主な産業とする町だったが、博打打の跡目争いですっかりすさんでしまっていた。番太も仕事を放棄して彼らにおもねる始末だ。そんな中、その男はふらりと入った居酒屋で町のあらましを聞き「気に入った」。彼らを除するつもりのようだが、その方法とは…。 ここで唐突な話だが、僕が本作にいだく印象は『風の谷のナウシカ』(以後『ナウシカ』)によく似ている。どちらもレイアウトに力があるし、心躍るカットも多い。良く出来た作品と認めることに異存はないのだが、好きな作品とはならず、心にモヤモヤが残るのだ。 今回、この感情を何故かと考えた末に分かったのは、どちらも評判や評価の高さを先に知り、そこで述べられる具体的な表現――たとえば『ナウシカ』は「感動の超大作」、本作は「黒澤監督がのびのび撮った痛快娯楽作品」――と、実際に僕自身が観た後に持った感想が大きく乖離していることだ。 今と比べれば人格形成が未熟だった若い時に、なまじ分かりやすく、ともすれば誇大な宣伝文句や評判を先に聞いてしまったためにそれが刷り込まれてしまい、同じ感想を持てない自分とのギャップに悩んでしまうのだ。 言ってみれば、まるで隣のクラスに転校してきた優等生のようなもので、「あいつはすごい奴」と多くの口から先に評判を聞き、実際に勉強も運動も出来るのも知ったが、その大まかな評判と本人から持った印象に何とも言えないズレがあるため素直にすごいと認められず、自分とは縁のない存在に思えてしまう、そんな印象なのだ。 『ナウシカ』の話題はここまでとしておこう。世間の評価とは違う、僕が本作で評価したい点は、作品の緻密な構造である。具体例は省略するが、これは、娯楽と言う言葉とは相反するものだ。 三船敏郎というどっしりしたキャストが中心にいるため、大きな存在感を持つ主人公が自由自在に大活躍をするという印象を持つ(あるいは持たせようとする)ケースが多い気がするが、実際は正反対と考える方が個人的には腑に落ちるのだ。 ただ、この作品が厄介なのは――こういう言葉を使ってしまうところに僕自身の奇妙なこだわりがあることは承知しているが――三船演ずる桑畑三十郎の人間性や、東野英治郎演ずる居酒屋の権爺や加東大介演ずる亥之吉の人間味、所々に挟み込まれるユーモア、クライマックスの高揚感といった、分かりやすく、抗えない魅力が本作に横溢していることだ。こういった要素が本作を類型的に称賛することに貢献していると思うし、それには同意せざるを得ない。 様式的な称賛がきっかけとなった本作との出会いは、僕にとっては不幸であった。意外にもずいぶんいびつな感想となってしまったが、本投稿を読まれた方のうちのほんのわずかな方が何かを思ってくださるのを祈るばかりである。 [ブルーレイ(字幕)] 7点(2020-09-06 18:14:11)(良:1票) |
9. 天国と地獄
数年前に購入したクライテリオンのディスクチェックをするだけのつもりだったのに、作品の迫力に引き込まれて、結局、そのまま全部観てしまった。この映画を観るのは4回目くらいだと思う。初めて観たのは20年以上前の学生時代で、その時もとても面白いと思った。だが、当時はその迫力くらいしか理解できていなかったように思う。あれから20年以上生きてきて、あの頃よりはわずかではあるが、社会や人間、そして映像を理解できるようになった今の方が、この作品の偉大さがよく分かる。主人公の権藤邸をほとんど出ることがない前半の、カメラアングルを含めた舞台劇のような作りは、作り込み感が強くて僕好みではないものの、そのカッチリとした美しい構図は見事だ。中盤の、身代金受け渡しから誘拐された子供を迎えるシーンの臨場感とスピード感には、ここぞとばかりに盛大に使われた音楽の効果も相まって、涙が出そうになるほど心が震えた。犯人の捜索から特定、逮捕に至る後半は、極めて丁寧に作り込まれていて隙がない。最終シーンの、権藤と犯人である竹内の対決も見事で、竹内の虚勢を張りたいという気持ちと、そこからはみ出してしまった弱さは、人間的に未成熟な若者の姿を見事に表現している。さらに言えば、作品全体をシャープにしながら、同時に緊張感を持たせている大きな要素は、説明セリフを舞台や設定のために必要最小限に抑えながら、それぞれのシーンにおける人物の気持ちに関して、セリフではなく、その動きやカメラアングル、そして音で表現しきったというところだろう。使い古された表現だと思うが、こう思わずにはいられない。黒澤映画とは、映画が映像であるということを再認識させてくれる作品群である、と。 [ブルーレイ(邦画)] 10点(2016-05-04 15:32:00)(良:1票) |
10. かぐや姫の物語
《ネタバレ》 昔話は主人公の「個」よりも、シチュエーションを重視する。そしてこの映画は、テロップに脚本の名前はあるものの、昔話の竹取物語を忠実に劇場アニメにした印象がある。それゆえ、現代の映画を観る時の視点、つまりかぐや姫の心の移り変わりという視点から観ると、ついていけない場面が多々あり、観ているこちらの心が置き去りにされている感があった。観ている最中に思い出したのは、「太陽の王子 ホルスの大冒険」のヒロイン、ヒルダだ。その心から入れ込めないヒロインと、今回のかぐや姫は正しく一致。高畑監督の嗜好と竹取物語が一致したのだな、と興味深く思った。その一方、作画は全般に渡って見事。特に宴会の最中、月夜の中をひたすら山へ走り抜けるかぐや姫の作画は本当に見事だった。結論としては、純粋なエンターテインメントになりきっていない所を考えると、万人にお薦め出来るあ作品ではないかな。 [映画館(邦画)] 7点(2013-12-08 01:41:35)(良:1票) |
11. 女吸血鬼
《ネタバレ》 資産家である松村家では、娘・伊都子の誕生バーティーが行われていた。時を同じくして、彼女の恋人で新聞記者の大木民夫がタクシーでパーティーに向かっていた。その道中、タクシーの前に女がフラリと歩いてきた。避けきれず轢いてしまったと思った民夫と運転手はタクシーから降りるが、そこには誰もいない。パーティーではケーキを切ろうとした伊都子が誤って手を切ってしまう。ケーキにポタポタと落ちる血を見て複雑な表情を浮かべる父・重勝と執事。しばらくして、松村家に先ほどの女が現れる。「美和子、お前は美和子!!」。女は20年前行方不明になった重勝の妻で、伊都子の母の美和子だった。年月の経過にもかかわらず、美和子は若い時のままの姿だった…。 全体がとにかくチープで、時間をかけず低予算で作られたことが見えてしまう一作。新東宝の末期を象徴する一作といえるかもしれない。 本来は、低予算ならば作品のあらゆるところを絞り込んで作るべきなのだが、逆に本作は色々な要素を取り込みすぎたために、却って安っぽさが目につくこととなってしまった。具体例を挙げていこう。 まずは設定。タイトル通り吸血鬼という題材を掘り下げてシンプルに勝負すれば良かったのに、そこに狼男、海坊主、小人、謎の老婆、そして天草四郎といった、日本で怪しげとされる東西の様々な題材が乱暴に詰め込まれている。スタッフのサービス精神の現れかもしれないが、怖いものを集めたからもっと怖いでしょ、見どころが増えたでしょ、といった作りは、鑑賞者にお約束のようなものを押し付けたような、甘えたものになっていると思う。 甘えは物語にも及ぶ。本作の吸血鬼は天草四郎その人である。島原の乱が失敗し、籠城していた天草は、一緒にいた娘・勝姫の生き血を吸った。それにより天草は死ねなくなり、乙女の血を求めるようになったという。そしていつの頃からか、島原にある岩山の地下に西洋風の巨大な住み家を作り、手下の小人や海坊主、謎の老婆と住んでいるのである。 さらに天草は20年前、重勝と九州旅行に来ていた美和子の意識を遠隔操作で操り、彼女を引き寄せた。そして何故か20年経って、年を取らなくなった美和子は、記憶のないまま東京まで戻ったのだった。 …書いていて頭が痛くなってきた。ここまでの記述から、いかに本作がいい加減に作られているかがはっきりと分かったからだ。物語に整合性がない、必然性がないし辻褄が合わない。シーンそのものに大きな意味はなく、その場限りのシチュエーションの意外さやインパクトを優先に作られているのだ。 さらに、撮影に関しても手軽に済ませてしまっているのが分かってしまう。その最たるものが、人間と妖怪の最終決戦(?)のシーンだ。この場面は、先述の島原にある岩山の地下が舞台なのだが、何とその山には雪が積もっている。明らかにロケ地が九州ではないのだ。しかもカットが変わると雪の量が増えたり戻ったりする。おそらく天候の恢復を待てずに、関東近郊の山で撮影したのだろう。カットつなぎに矛盾が出るのを承知の上で。 そういえば本作では、これ以前のシーンでも、人物の吐く息がはっきりと白く見えるカットがある。やはり冬場の撮影だったのだろう。 ちなみに本作の公開日は、ウィキペディアでは1959年3月7日とあるが、手元にあるDVDの作品解説には1959年7月公開とある。どちらが正しいかは分からないが、いずれにせよ、スケジュールを考えれば冬に撮影されたのは間違いないだろう。 と、ここまで本作の色々な齟齬を挙げてきたが、題材が題材なので、お化け屋敷感覚で観れば結構楽しめるかもしれない。たとえば、吸血鬼役の天知茂から醸し出される妖しさやダンディズムは魅力的だし、小人の和久井勉が画面で動き回る姿には、作劇上大きな必然性がなくても、インパクトだけは十分にある。差別の温床になるからといった良識によって、現在ではメディアで小人の姿を見ることは殆どなくなってしまったことを考えると、本作は貴重な作品なのかもしれない。 インパクトという意味では、美和子を演ずる三原葉子の魅力も挙げなければならない。豊満な肉体と婀娜っぽい雰囲気を持ち合わせる彼女の存在そのものが、本作の持つ淫靡な雰囲気を生み出している。天知演ずる吸血鬼に燈台の底部でいたぶられてあえぐシーン、絵のモデルとしてセミヌードで横たわるシーン、そして、下着にハイヒールという格好で吸血鬼の手によって蝋人形にされた姿、どれもかなりエロチックで、本作の大きな見どころとなっているのは間違いない。 本作への結論。映画としてみると破綻だらけで、作品としての評価はかなり厳しい。だが、公には口にしにくい、いわばアングラな魅力は確かに存在する。カルトムービーと位置付けるのが妥当だろう。 [DVD(邦画)] 4点(2020-09-15 00:26:23)(良:1票) |
12. 崖の上のポニョ
「面白い」ではなく、「凄い!」の一言に尽きます。ストーリーはあって無いようなものですが、その一方で子供の視点から見た世界観を、手描きアニメーションの技術を駆使して見事に、そしてゴージャスに描ききっています。映画の隅々まで気を配った作りでない分、大人の視線で視る人達からは非難されそうですが、子供の心で観れば、充分に楽しめることは間違いありません。宮崎監督がまだこれほどの力技を持っていたことには、本当に驚かされます。また、耳に残る主題歌アレンジやオーケストラ、そして久石氏のおなじみなメロディーも聴ける音楽も素晴らしく良かったです。うちの子供はまだ小さいので映画館には連れて行けませんでしたが、DVD発売の折には是非親子で楽しみたいと思っています。 [映画館(邦画)] 8点(2008-07-20 00:32:14)(良:1票) |
13. 未来のミライ
《ネタバレ》 本作公開の頃、その評判は良いとは言えなかった。主人公くんちゃんの可愛げのなさと、今後の細田作品における脚本家の必要性が幾人もの批評者から指摘されていたと思う。そしてアニメーションから心が離れ始めていた自分自身の事情と、上記の評価のため食指が動かず、結局、劇場へは足を運ばなかった。 今回ようやく視聴したのは、昨年TV放送されたものの録画だ。 大まかに言えば、本作は、意外な来訪者――女子高生(?)に成長した、未来の未来ちゃん――などの関与によって、4歳の主人公”くんちゃん”がそれまでの小さくてどこかぎこちない日常から、大きな世界を見ることで、自身が成長する物語なのだろう。 中盤で、くんちゃんが若かりし頃のひいじいじとバイクで疾走するシーンは、戦後当時を彷彿とさせる映像的解放感が出ていて良かった。また、終盤、成長した未来ちゃんとくんちゃんが空を軽やかに飛翔しながら、様々な時代や別世界を観望するシーンには映像的快感があった。クライマックスとしての盛り上がりは確かに感じた。 こういったいいシーンもあるのだが、残念ながら、本作には大きな欠点がある。こういったヤマ場へ行くまでの段取りが非常に悪いことだ。ヤマ場にたどり着くまでの精神的苦痛が大きすぎるのである。それはキャラクターへの嫌悪感と不自然感によるものだ。 主人公くんちゃんは4歳ということで、それらしいわがままさが描かれているのだが、その描写がエキセントリック過ぎるのだ。 まずは、生後、新しく家に来た妹の赤ちゃん、未来ちゃんに嫉妬してちょっかいをかけるのは分からないではないが、嫉妬が強すぎておもちゃを投げようとするのはやり過ぎだ。いくらアニメとはいえ、赤ちゃんというデリケートな存在を壊そうとする、観ているこちらの心の奥底をドキッとさせる描写はいかがなものだろうか。 未来ちゃんの方を大事にし、自分を中心に見てくれない両親に「嫌い!」「嫌い!」と、やたらネガティブな言葉をぶつけるのもリアルかもしれない。だが、それも必要以上に繰り返されると、観ているこちらはイライラしてくる。気分が悪くなってくるのだ。顔を赤くして大声で泣きわめく描写も不快だ。 監督は子供をわがままなものと捉えているのだろうし、わがままな部分以外の、日常での子供の存在そのものを可愛さとして感じているのかもしれない。それでも、僕にとっては描写が辛口過ぎた。僕はもう少し甘めのさじ加減が好きだ。本作でも自転車の練習をするくんちゃんにアドバイスしたり、自転車に乗れるようになったくんちゃんに遊ぼうと言ってくれた子供がいたが、あれくらいの(リアルではないかもしれない)優しさがくんちゃんにも欲しかったし、自分ではいかがなものかと思いながらも、ここが本作で最も心が和むシーンとなった。 くんちゃんの不自然感も気になった。まずは声。先ほど書いた自転車のシーンの子供の声の方がよっぽどリアルで心地良かったし、キャスティングに何かしらの裏事情まで感じてしまった。それから「さびしかったよ~」などの、自身の気持ちを端的に分かりやすく発した言葉の数々。いずれも大人びていて、とても4歳には思えない。子供の感情って、一言では言い表せない、もっとモヤモヤしたものなのではないだろうか。 両親の描写も好きになれない。やたら自己主張が強い母親と、気弱で芯の通っていない父親。恋愛結婚のようだし、結婚して数年経っているはずだが、それにしてはよそよそしいし会話にトゲがある。育児が大変だから母親がツンツンしているとこちらに感じてほしいのかもしれないが、そういった描写の少なさからとてもそうは思えない。二人の精神的距離が離れているように感じられる。 終盤に描かれる両親の成長も、日常生活の一つと捉えればリアルかもしれないが、本作が映像作品ということから考えると、くんちゃんの体験や成長とリンクしていないのは不満だ。 ところで考えてみると、くんちゃんのわがままで大人びた描写というのは、中学生くらいの視聴者にとっては憧れなのではないだろうか。言いたいことが言えるし、それに自覚的でいられる快感が伴うのだ。 今や世界的に注目される細田監督作品としては寂しいが、本作のメインターゲットは中学生くらいまでなのかもしれない。 もう少しターゲットを広く、そして上に引き上げる作品作りをした方がいいのではないか。それには、物語を紡げると同時に、作品を客観視できる脚本家の存在は必須であろう。 アニメーション映像作家としての細田監督のセンスと実力に敬意を表しながらも、今回は、その素晴らしさゆえに甘めの評価をした前作『バケモノの子』よりは辛口の点数とする。 [地上波(邦画)] 4点(2020-05-17 16:58:20)(良:1票) |