1. 恐怖分子
《ネタバレ》 「この世界には恐ろしいことがひとつある。それは、すべての人間の言い分が正しいということだ」、言うまでもなくジャン・ルノワールの、というか映画史上の大傑作「ゲームの規則」でジャン・ルノワール自身が放った言葉だが、その言葉の恐ろしさを絶対零度の冷たさでもって体現した作品がエドワード・ヤンの「恐怖分子」だと言えるかもしれない。優しさなんて、この映画には1ミリもない。優しさをみせてしまった者には過酷な運命が待ち受ける。そんなゲームの規則が繰り広げられるこの恐るべき映画、にも関わらず、いや、だからこそ見終わった後に実感する生の充足。「生きる」ではなく「死にたくない」へと向かう方向性に、クリント・イーストウッドのこれまた恐るべき「ミスティック・リバー」が思わず重なる。ラストの嘔吐には、新たな恐怖分子の誕生を想起してもいいかもしれない。しかしそれよりもなりよりもこの嘔吐する女である。嘔吐する女といえば、これまた再び恐るべき「ヴァンダの部屋」において、ヴァンダが激しい咳をしていると突然ゲロを布団に吐きだすシーンが鮮烈だったが、この「恐怖分子」の嘔吐の場面もまた忘れがたい。布団から上半身を起こした時に見せる定まりのない目線、そして突然口元に手を押さえそのまま体を床の方へ折り曲げるまでの一連のアクション。こうして吐き出された吐瀉物は(といっても画面上には出てこなかったのだが)、風呂場にて自死を遂げた男の後頭部から脳漿とともに垂れる血液のような粘性を持っていただろう事は容易に想像できる。 [映画館(字幕)] 10点(2008-01-10 22:31:13) |
2. キングス&クイーン
ムーンリバーの調べに乗って、ゆったりした色調のパリの街並みが流れる。何だかいい感じである。というかちょっと泣ける。カメラは一台のタクシーに近づき、タクシーはそのままゆっくりと停車する。ドアが開き、お約束といわんばかりに車内からスッと出てくる女性の足を、そして顔を捉える・・・ここで「あき竹城」というキーワードが不意に出てしまうと、その後の約150分は大変だろう。というのもこの映画は、あき竹・・・もといエマニュエル・ドゥヴォスという女優の存在に賭けたところが非常に大きく、この、一度見たら忘れられない女優にどう接するかは結構重要なポイントであるような気がするからで、というのも自分はヒッチコックの「めまい」は非常に好きなのだが、どうもキム・ノヴァクが苦手で、なんだかとても損をしている感じがするのである。まあそれはそれとして、この映画はかなり良く出来ており、その面白さは保証できる。一発の忘れがたいショットとか、緊張感の持続を強いるような強度があるわけではないが、登場人物の一人一人のバックグラウンドを緻密に構成し、それらを適切な場所へ配置させることで、とんでもなく複雑な関係を生じさせる。まさに人間ドラマの坩堝。しかし、それだけでは説明できない歪みがさらにあるようにも思う。それは、この映画が方法として非常に意識された映画であり、その根底としてアメリカ映画という偉大な方法が乗っかってるからかもしれない。そしてそれを、自然発生というより自然発生の人工による再現で、普通の映画として偽装しているというか、要するに凄く複雑なロジックがこの監督の頭の中には蠢いている様に感じられ、もっとシンプルにしちゃえばいいのに、と思うのだが。 [映画館(字幕)] 8点(2006-08-07 20:44:17)(良:2票) |
3. キャット・ピープル(1942)
ジャンル映画だけど、この映画は自由、とにかく自由。檻に入れられた黒ヒョウは一見人間の支配下に見えるが、実は彼らこそこの映画の支配者であったように、この映画はジャンルという檻のなかに入っていながら外にいるように自由。プールでの恐ろしいシーンも印象的だし、さらに夫から離婚を告げられたとき無意識にソファを引っ掻いて出来る裂け目が凄い。メスが皮膚をサァァーッと切るときのような、薄い紙で指をスゥゥーッと切ってしまうような、ゾクッとくるあの感じ。超必見。 [ビデオ(字幕)] 10点(2006-04-24 17:24:16) |
4. 君と別れて
成瀬巳喜男松竹時代の作品。この時代にアイドル映画という概念があったかどうかわからないが、この映画は水久保澄子のための作品といっていいかもしれない。悲劇の女優、水久保澄子。その大きい目は「ミツバチのささやき」のアナのように曇りがなく、力強い。小津安二郎「非常線の女」にも魅力的な役どころで登場するが、この映画での水久保澄子の魅力はそれをはるかに凌駕している。佇まい、視線、感情の起伏。60分足らずの上映時間、ずっと釘付けだった。成瀬の演出が見事なのはもちろんで、特に素晴らしいのは電車の中で明治チョコレートを食べるシーン。ここは本当に素晴らしい。いわゆる悲恋物語であるものの、後期の成瀬のような大人の雰囲気とは一風違う爽やかさに溢れていて、これがまたいい。水久保澄子のその後を暗示させるような(考えすぎ)ラストに胸を打たれつつ、またいつかスクリーンで照菊に出会えることを祈る。 [映画館(字幕)] 10点(2005-11-25 00:57:27)(良:3票) |
5. 気まぐれな唇
ダメ男のロードムービー。でもこの男は、なんか憎めない。そして女にモテる。映画は、韓国の田舎や街中をなにげなく切り取ったような構図の中で、人物がなにげない会話をなにげなく交わす。あるいはなにげなく体を交える。話が面白いとか映像が綺麗とか、そういう評価よりも人物の間の距離感とか空気あるいは仕草、そういう所を見つめるとこの監督がいかに周到な人かがわかる。エリック・ロメールという人物の名前が出てくるのも頷ける。しかしロメールの映画が極めて映画的なのに対し、このホン・サンスの「気まぐれな唇」は何となく文学的だ。そう感じた。いわく「顕微鏡のような」観察眼がこの人の映画の特徴なのだが、その視線は、というよりも彼の頭の中では、映像の連鎖というよりもむしろ高度な言葉の引き伸ばしによって映像に落とし込んでいるような印象を受ける。だからなのか、先ほど連打した「なにげなさ」が説明的な感じを持ってしまったような感じがしてしまう。とはいってもこの映画の質はかなり高い。役者が生き生きしている点は特に良かった。雨に始まり雨に終わる、思いっきり斜に構えた「韓流」である。 [DVD(字幕)] 8点(2005-08-21 02:56:29) |
6. キング・オブ・コメディ(1982)
BSでたまに放送しているハリウッドスターのインタビュー番組で偶然にスコセッシが出演していて、「太陽は好きですか?」と聞かれて「大嫌いだ」と言い、「じゃあ南の島なんかも?」と続くと「気が狂ってしまうよ!」(ヤヤ誇張アリ)。これ聞いてスコセッシが好きになった。しかもこの時スコセッシはスゲーいい顔してた。非生産的な人間は手加減を知らない。ちょっとでも方向を間違ったらヤバイ。このエネルギーがスコセッシ映画では美学になる。抑えの利かない屈折したエネルギーが「タクシードライバー」のトラヴィスを創り出し、「一夜の王」ことパプキンを創り出した。どっちも根底には同じ人間性を抱えてるが、パプキンの狂気はより複雑に表現されている。それは笑いと狂気と恐怖が「一緒くた」にされている感じに近い。いや、この3つはある条件では同義ともいえる。戦争映画はこの条件に一番あてはまるだろう。例は挙げるまでもない。ホラーは笑いという意味ではちょっと薄いがあてはまるものはたくさんある。で、スコセッシはコメディの中にこの3つをあてはめた。結果的に芸能界というヤクザな世界とスコセッシの負の力は怖いぐらいに調和し、デニーロはやっぱり天才だった。それにしても、オスカーに焦がれたスコセッシが大作ばかり作るのも、この「キング・オブ・コメディ」の延長線上にある事なのかもしれない。 [DVD(字幕)] 8点(2005-04-14 07:49:41) |
7. 霧の中の風景
完璧。もう一度言っちゃおう。完璧。映像も音楽もストーリーも、とにかく全てが。個人的にはいろんな意味でぶっ飛んでるギリシャ現代史三部作とか「アレクサンダー大王」のほうがアンゲロプロスの人間性を感じられて好きだが、「霧の中の風景」はかなり特別な存在だ。これの前の作品は「蜂の旅人」という非常にパーソナルな映画で、この映画からは老いを疲れるぐらいに感じたのに、数年後の次回作がこれだ。一体何があったのだろう。時空をまたぐ歴史語りに疲弊して旅に出た老人が、沈黙の詩人になって帰ってきた事は確かだ。ちなみにこれ以降は国境線上の夢遊病者になる。「霧の中・・・」に関しては色々と書きたい事があるが、一番重要と思われるのは、アンゲロプロスもまたこの二人の子どもたちのように原郷を探していたのだろうということだ。そしてこれが一つの答え、なのかどうかはわからない。というのもあそこがその場所なのだとしたら、それはこの世にはない場所だから。それは昔はあったはずだが今ではすでになくなってしまった場所とも言える。だから正確には探しあてたというよりも元の場所に戻ったというべきか。フェリーニには「アマルコルド」という原郷があり、タルコフスキーには「ノスタルジア」という失った原郷がある。そしてアンゲロプロスは「霧の中の風景」についに帰ることが出来た。ただし、これ以降彼の作品を包む霧はそんなに優しくはない。「ユリシーズの瞳」はまさにそれを象徴する。苦しい映像体験になると思うが、これもぜひ鑑賞していただきたい。彼特有の「あえて見せない」演出は曇天の鉛空だからこそ発揮するという事がよくわかるはず。 [映画館(字幕)] 9点(2005-02-24 14:17:48)(良:1票) |
8. 奇跡(1955)
人が生き返るということから私はすかさず「ゾンビ」を連想してしまう。心やさしい人ならば「白雪姫」を想像するかもしれない。人によっては「バカボン」で、馬鹿田大学の友人の葬式でバカボンのパパが「死んだー、死んだー、ザマーミロ~」とお経を唱えたら、その死んだはずの友人が飛び上がり元気になって逃げるパパを追いかけるシーンを想像する、かもしれない。どれもフィクション的な復活で、そこにはそれぞれの強度を持って死者の復活を意味づけている。ところがドライヤーの「奇跡」はそういう感覚を超越している。「聖なるものの顕現があるところ」を映画上で作り上げてしまったのだ。いわば映画内の完璧な儀式化である。カール・ドライヤーは儀式を全うする人と空間と時間と、それらの内から生じる「何か」をスクリーンで表現する為に、これほどはないというほどの美しい白黒の映像を生み出した。それはこの映画における白・黒こそが映画で初めて生と死を際立たせたのではないかと思うぐらいに、である。故にこの映画は彼女が生き返るということに疑問の余地を全く与えない。奇跡が起こるということがフィクションの特性としてあるとするなら、この映画における奇跡が起こる過程はおそらくどんな映画よりも崇高で近づきがたい。であるがゆえにこの映画は、本当に映画と呼んでいいのか、何か別のものなのではないかという気さえ起こる。 [映画館(字幕)] 10点(2005-02-18 16:44:58)(良:1票) |
9. 気狂いピエロ
ゴダールをこの映画で初めて知った。借りてみようと思った動機は変わったタイトルとジャン・ポール・ベルモンドの青塗りの顔のパッケージ。何も知らずに見たため苦労し、また驚きもした。大量の引用されたテキストをサッと流すスピード。文字はこの映画ではヴィジュアルであり、文学臭や哲学臭がしない。というか自分がそれを拒否したからかもしれない。それよりもリズムという要素が強いと思った。2人の主人公と一緒に拍をとり続ければ、海と溶け合う太陽の見え方はきっと変わると思う。 [映画館(字幕)] 9点(2004-06-29 23:26:15) |