Menu
 > レビュワー
 > Qfwfq さん
Qfwfqさんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 170
性別 男性
年齢 43歳
自己紹介

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
評価順1
投稿日付順1
変更日付順1
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  クレーヴの奥方(1999)
普通に考えれば、何故この世紀末(公開されたのが1999年)にこんな化石的メロドラマが作られたのかと首を傾げざるを得ない。原作は17世紀の小説で、現代に時代を設定しているものの倫理観だけはそのままなので、その貞操観念には苦笑を禁じえないだろう。また感情移入が望めないだけでなく、現代に設定する事で「エデンより彼方に」のような懐古調メロドラマにすらなりえず、さらにこの映画は盛り上がりが予想されるシーンを字幕のみでスルーしちゃう。画面にはキアラ・マストロヤンニが演じるクレーヴ夫人と、その親類や夫、あるいはシスター役のレオノール・シルヴェイラが座りながら/歩きながら会話をするシーンばかりが映る。オリヴェイラ翁よ、そこまでやるか。映画にストーリーという要素が欠かせないのは事実。だがストーリーだけが映画内時間の主役である必要はない。オリヴェイラはストーリーによる映画の起伏を拒否する。メロドラマという形式からここまで自由になった映画は空前絶後ではないか。ある評論家の小津安二郎評に「何を考え、何を言ったかではなく、何かを考え、何かを言うことにまつわる諸々の不自由を突き詰め、考え、そして言うことそのものをめぐっての映画を撮り続けた」とあるが、この賛辞の多くがまさにオリヴェイラにも当てはまり、そこからさらに邁進していくだろう。というのもオリヴェイラの偉大な同世代(ジャック・ベッケル、ジョセフ・ロージー、小津、マキノ・・・・等など)は皆死んでしまったが、オリヴェイラはまだ生きてますんで。オリヴェイラこそは映画史の生きた化石、最長老、八百比丘尼なのである。映画史が1世紀分丸ごと生きた映画監督の名を刻む瞬間はもう近い。 【追記】本当に刻んじゃいました(笑)
[映画館(字幕)] 10点(2007-03-22 21:28:54)(良:1票)
2.  グエムル/漢江の怪物
構造的には同監督作品の「殺人の追憶」とあまり変わらない。黒幕は連続殺人犯でも異形の怪物でもなく、韓国という社会。両作とも印象的なのはソン・ガンホのクローズアップ(「グエムル」ならば、小屋から暗闇の向こうに銃口を向けるシーン)で、彼の視線は映画を飛び越えて、実社会へのまなざしとして観客に投げかけ、映画が終わった後も居心地の悪さを残し続ける。大きく異なるのは、「殺人の追憶」においては犯人=怪物を見せないという事を徹底したのに対し、「グエムル」では群集を襲う怪物としてとにかく見せるという事だろう。前者がサスペンスならば後者はスペクタクル。しかし「殺人の追憶」のサスペンスの支柱となった、韓国の軍事政権下の社会をダイナミックに描いた様は、スペクタクルそのものだったように思う。「グエムル」では、スペクタクルの支柱となる見られる対象としての怪物に、スピード感ある視覚効果やキモいイデタチを与えるが、おそらく10年とか時間が経ったとして、そのフォルムを覚えている者はいないだろう。ゴジラとかエイリアンとか、そして最近だと「宇宙戦争」のトライポッド(怪物ではないが一応)、これらのフォルムや動作が忘れられないのはそれなりの理由があるからだが、「グエムル」の怪物にはそれなりの理由が無い。テキトーな感覚で言うならば、こいつは「企画から生まれた」感が非常に強い。あるいは、「~的」であろうとし過ぎている気がする。地味であるほどに存在感を引き立てるぺ・ドゥナの方がよっぽど怪物なんじゃないのか。映画が高速化する中で、アーチェリーの矢を、しかもジャージ姿で放つ彼女と矢の軌道からは、高速化するサッカーの中で一発のスルーパスに賭ける前時代的なトップ下のそれを感じ取れるだろう。優雅な運動はスポーツ界のみならず、映画からも消えつつある。
[映画館(字幕)] 7点(2006-10-09 01:56:37)(良:2票)
3.  グレースと公爵
フランス革命の時代が舞台になっている。今までのロメール作品を考えると驚きかもしれない。といってもこの映画で初めてエリック・ロメールの映画に触れたので、そんな事情はわからず、鑑賞中なんだか奇妙な感覚だったのを覚えている。というのも、この映画は当時のフランスの様子を全部CGで再現しているのだが、ただのCGではなくてまるで油絵のような質感で表されている。室内の場面ではうまく照明が使われていて素晴らしい出来だが、室外だと人物が背景からかなり浮いてしまっていた。この映画ではCGが全然「売り」になっていないのである。「CGでここまでやった」がなく、あくまでも「映画」を見ただけだった。そしてそのことに少なからず驚いた。ちなみにここで括弧をつけた「映画」と、例えば「私は今日○○というCG技術を駆使した映画をみた」という時に使う映画はまったく等しくない気がする。ロメールが位置づける映画という概念の中ではCGだって添え物にすぎないのだろう。大体CGはCG以上のことをやってはくれない。そういう意味でCGが映画のレベルを下げたという主旨の批判はおかしい。サイレントからトーキーへ、モノクロからカラーへ、という変化があってもいい映画は必ず出てきたし。この映画にはそういう点への警告的な意図も含まれているのかもしれない。が、やっぱりまず映画である。元恋人同士であるグレースと公爵の微妙な関係性が革命というダイナミックな変化の中で、もうとにかく揺れる揺れる。グレース役の女優、ナカナカよい。それにしても、「クレールの膝」とかもそうだけど、ロメールの映画の登場人物は「マジで!?」と思うぐらいの行動を突然やっちゃう危うさがあって、そういう意味じゃ彼の映画はキューブリックの映画よりも難解なのかもしれない。そしてそれ故にハマる。
[映画館(字幕)] 9点(2005-05-02 13:18:14)(良:1票)
000.00%
100.00%
200.00%
310.59%
431.76%
552.94%
6105.88%
7169.41%
83420.00%
95532.35%
104627.06%

全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS