1. 劇場霊
《ネタバレ》 冒頭で横たわる人形の艶かしい表情の造型など、フィルム撮影の感触や照明効果もあって押井守も大喜びしそうな生々しい物質感がある。 クライマックスで人間を追う動きやそのPOVショット、状況と顛末は『ターミネーター』も思わせる。 その追い詰められる感覚を出す上で、劇場の構造と舞台の空間はしっかり提示して欲しかったところだが。 口話での説明も多く、脅かし系BGMの連発も少々くどい。いつもならすぐにそれとわかる特長的な川井憲次サウンドも、 ラストの島崎遥香のショットに被るメロディーでようやく気付いた次第。 本来ならエンディングで余韻溢れる印象的なインストルメンタルを聞かせてくれるところなのに、 興ざめな歌曲が流れてきてしまうのは、例の企画担当の都合というやつか。 ヒロインの怯えの芝居は単調ながら、頑張ってよく絶叫している。 [映画館(邦画)] 4点(2015-11-22 19:01:01) |
2. 継承盃
《ネタバレ》 うあ!レビュー少ない。 地味な展開になるかと思いきや、 いきなり冒頭から馬を駆っての大活劇を披露してくれるところが嬉しい。 馬から飛び降り、ローカル線のホームを駆け渡り、発車寸前の列車に乗り込む アクションの長回しを軽やかにこなす真田広之の惚れ惚れする動き。 その軽快でコミカルな身体動作は、ラストの爽快なジャンプに至るまで 全編にわたって映画を弾ませる。 「書き上げ」を巡って緒形拳、古手川祐子、真田の三者がホテルの部屋で 繰り広げる痴話喧嘩の超ロングテイクも縦構図の奥行きを駆使して 彼らの微妙な心情変化をなかなかに見せる。 クライマックスの儀式も、長いショットで緒方の貫禄の所作を存分に見せつける。 この題材でこれだけ躍動的な映画にしているのは大健闘と云うべきだ。 [映画館(邦画)] 7点(2014-12-14 23:52:36) |
3. 県庁おもてなし課
画面に語らせず、「高知県は最高。」「凄い計画。」と 幾度も抽象的な台詞で説明する愚。 クライマックスまでがテレビ演説というのだから、安っぽい。 たかだか5名の課員の具体的「仕事」・労働をロクに描出できない愚。安っぽい。 誰も仕事するなとは言っていまいに、「仕事がしたい」「仕事をさせろ」 と叫ばせるセンスに頭を抱えたくなる。高知県庁はよほどヒマなのだろうか。 工事中のHPも、トイレの改善の件も、すべて放り投げられているわけだ。 幾度も同じようなシーンで同じパターンで甘いBGMを入れてくる芸の無さ。安っぽい。 ご当地映画でありながら「自然しかない。」のセリフの通り、 フレームから郷土の人々を締め出し、 人間の気配の無い絵葉書のような景観だけをキレイに収めることにのみ 躍起になっている似非郷土愛。致命的に安っぽすぎる。 マーケットのシーンですら、無機質な群衆の場でしかない。 この作品、本当に登場人物が少ない。職場の人間関係、主人公らの家族関係、 街の人々の表情。何もないので、生活者としての人物像がまるで浮かび上がらない一方、 主要俳優約5名の思い入れ過剰なクロースアップだけがひたすらくどい。 「パンダ誘致論?さあ、知らない。」の三回反復の編集に象徴的なテンポの悪さ。 折角の自転車を映画の中でロクに活用しきらない感覚の鈍さ。 欠点の山である。 こういうのは、テレビだけでやって欲しい。 [映画館(邦画)] 1点(2013-05-19 17:20:23) |
4. 原爆の子
乙羽信子と少年が互いに手を振りながら別れる萬代橋のシーンは、極端なローポジションによって、その欠けた欄干と手摺が空ける空間の中に組み入れられる。 被爆後7年を経た復興の風景の中に残る傷跡をそれ自体として中心化することなく、あくまでドラマの情景の一部として提示する慎ましさとリリシズムが全編を貫く。 被爆者の悲憤と糾弾を直截にアピールする同時期の日教組作品『ひろしま』との大きな違いだ。 歌唱やSEなど音楽的要素も様々に用法が工夫され、作品を抒情的に彩っている。 たとえば伊達信の臨終の場に、屋外から流れてくるチンドン屋の陽気な囃子(カウンタープンクト)。 少女が病に伏している教会に響く讃美歌。 元幼稚園だった草むらに残響する童謡。 雲間から聞こえてくる飛行機の爆音などである。 中でも、原爆投下直後を再現するモンタージュと伊福部昭作曲の合唱音楽の融合が、短いシークエンスながら圧倒的だ。 画面が伝える惨劇のイメージと、敬虔かつ崇高な音楽の力が一体となった情感は簡単に形容出来ない。 [ビデオ(邦画)] 9点(2012-05-12 23:58:13) |
5. 激怒(1936)
《ネタバレ》 前半の善良な青年から、後半の荒んだ復讐鬼へ。スペンサー・トレイシーの変貌ぶりが憎悪の奥深さを雄弁に物語り、映画に濃い陰影を投げる。 保安官事務所に民衆が集結してくるモブシーンのクレーンショットが、その後の波乱を予感させて秀逸だ。 事務所が火炎と黒煙に包まれる中、暴徒の笑顔のクロースアップが短く積み重ねられるモンタージュによって彼らの禍々しく残忍な印象が一層際立つのも、一種のクレショフ効果か。 裁判の重要な証拠となるニュース映画のストップモーションと共に、インパクトが強烈だ。 ショーウィンドウや、「22」の視覚的記号と共に、私刑と復讐の主題系はドイツ時代から連なるフリッツ・ラングの特色だが、ハリウッド的甘味を折衷させたラストはやはりどこか、渡米後第一作の不自由を思わせる。 床屋のシーンや、裁判長の宣誓シーン、犬やアヒルのショットなど、暗い主題を中和するユーモアも随所に散らばり、作品のバランスに対する苦心と配慮を窺わせる。 [ビデオ(字幕)] 8点(2011-07-23 19:50:19) |
6. 原子力戦争 Lost Love
《ネタバレ》 舞台は、当時から放射能漏れの疑惑を持たれていた福島第一、第二原発。 田原総一朗の原作とATGならではの強みによって、ジャーナリズム問題も絡めながら、電力会社の隠蔽主義を告発する。 ドキュメンタリー出身の故・黒木和雄は初期に『海壁』という東京電力のPR映画を撮ったのち、その贖罪のように本作を撮っている。 電力会社の監視と立ち入り拒否を受けながら撮られたという画面は、映画内容とシンクロしつつ、その画面的制約と不自由ぶりが静かな緊張感を漲らせている。 日中に望遠で撮られた発電所の表層的なまぶしい白と、闇討ちが繰り返される夜間シーンの不気味な黒い画調の対比が特徴的だ。 松林の中を逃げる原田芳雄をカメラが追う中、林の中から幽鬼のように群集が湧き出てくる。そのカメラワークはまるでベルトリッチの『暗殺の森』のようだ。 青く美しい浜辺に打ち上げられ、波を受けながら沈黙する原田芳雄の屍。 その図は三十三年後にして痛烈な象徴性を帯びる。 [ビデオ(邦画)] 7点(2011-04-09 23:57:52) |
7. ゲゲゲの女房
導入部の一本道の情景は、前作『私は猫ストーカー』のファーストショットの「風景から人物へ」と吸引していく感覚にも似て印象深い。 「自転車」、「アクセントとなる魅力的なアニメーション」、「生き物同士の、主従でも共生でも無い不思議な関係性」といったモチーフも共通項だ。 まず目に沁みるのが、前作に続いてたむらまさきによる滋味に富んだレトロタッチの原風景的素晴らしさ。 日本家屋の豊かな空間性・自然光の美しさを活かしつつ、人物の背後や天井から慎ましく見守るような穏やかな風情は、風間詩織作品や小川ドキュメンタリーを初めとする「黙って見つめる事に徹するキャメラ」あっての味わい深さだ。 夜の勝手口の、吸い込まれるような暗い闇。裸電球や蝋燭の炎の温かみ。玄関先の白い暖簾の揺らめき。生命の気配の濃密な空間性は絶品である。 あるいは鉄塔の垂直性と、石橋や農道の水平性、そして四つ辻を活かしたロングショットの映画的豊かさ。 茶の間でバナナを頬張る吹石一恵と宮藤官九郎の夫婦、宮藤が踊りだすと、庭先でも踊りだす妖怪たち。その共生の画面の至福感。 税務署員を追い返した後に二人が歌うデュエットに、自転車に二人乗りする夫婦の笑顔にと、一見非アクション的なアクションのうちに、心打つ幸福感が充溢している。 時間・空間・照明のトリッキーな解体操作といった、柔軟な発想も前作からさらに発展している。 さらには、音響の豊かさ。 祠に被さる水音の神秘性。風雨。壁時計のリズム。紙を走るGペンの筆音。(移ろわぬ音) 一方で時代の移ろいを仄めかす、開発の槌音。自動車の走行音。 書き出せばきりが無いが、まだまだ見逃した細部は多い。 見返せば、さらに豊かさを増すだろう傑作である。 [映画館(邦画)] 9点(2011-01-23 15:48:34) |
8. 拳銃貸します
巻頭の借部屋で、寡黙なアラン・ラッドがトラウマである左手首を覗かせつつ拳銃の具合を確認するさりげない1ショットでその役柄を雄弁に語り占める。窓辺の子猫を気遣うトレンチコートの彼は、後のメルヴィルのノワール『サムライ』でカナリヤに餌をやるアラン・ドロンの孤独な姿へも連なっていく。 ロケーションが印象深い鉄橋での追跡シーンも両作品に共通だ。 クライマックスの銃撃戦の、貴重といって良いほどの素っ気無さ、スピード感。 ドアの開閉とその背後空間を遮る用法によって見る者に想像を促さずにおかない、見えないアクション演出がもたらす奥行き感。 夜の巨大なガス工場から、暗い排水口を伝って鉄道敷地内へと続く逃避行のスケール感。 さらに雷光、朝靄、蒸気が画面に彩を添える。 警察のサーチライトの光をかいくぐり、人質のヴェロニカ・レイクを伴って暗闇の操車場を逃走するアラン・ラッドは、まさに光と相容れない影を鮮烈かつナイーヴに体現してみせる。 ロバート・プレストンの希薄な存在感に比べ、劇中で見事なマジックを実演するヴェロニカ・レイクは妖しく魅力的だ。 [ビデオ(字幕)] 8点(2010-12-25 00:02:30) |
9. 刑事マディガン
夜のニューヨーク市街を仰角で捉えた導入部から、夜明けの街路に立つリチャード・ウィドマーク達へと連なるアバンタイトルのムード感と、パースペクティブの活きた構図が生むリアル感。本編中のブルックリン、ブロードウェイ、コニーアイランド、イーストリバーといったロケーションの空間もまた奥行きが強調され臨場感に満ちている。雑然としながらも見事に活写された屋外ロケと、主人公宅の(不似合いな)カラフルな屋内セットとの対比も家庭不和を仄めかしており面白い。同一設定の黒澤明『野良犬』と同様、都市の情景や捜査過程の何気ないエピソードの積み重ねが素晴らしく、情報屋、ポン引き、酒場の主人らとのやり取り自体が主人公の優れた人物描写となっている。とりわけ、旧知の元ボクサーの通報による酒場の場面などは、結果的に人違いに終わり本筋には直接的に絡まないにも関わらず、ウィドマークの人間味を感じさせ非常に印象深いシークエンスだ。アクション場面自体は少ないものの、犯人役スティーヴ・イーナットがウィドマークの隙を衝き一瞬で形勢逆転するアクションや、警官に職務質問されたとたんに紙袋の陰から発砲するアクション、クライマックスの至近距離での銃撃戦など、スピード感と瞬発性がやはり見事である。 [DVD(字幕)] 8点(2009-10-24 20:22:40) |
10. 拳銃魔(1949)
走るキャデラックの後部座席に据え置かれたカメラがフロントガラス越しに進行方向の市街路と前席の主役二人の対話を捉える。路肩に駐車すると、運転席の男は右手の建物に素知らぬ風に入っていく。奥の角から警官が現れ、助手席の女は慌てて車を降り世間話で彼の気を引く。突然、男がドアから飛び出し、女は素早く警官を一撃する。警報が鳴る中、車を急発進させ逃走する二人、、。屋外の一ショットで銀行強盗の一部始終を捉えきった長廻しショットが実に圧巻である。人工照明のない即興風の画面感覚と、同時録音の臨場感によって描写はひたすら生々しい。長廻しによる静的な空間が警報によって一変し、主役二者の機敏な連携アクションが突発的に起動する。カメラは定位置のまま二人の主観に同調するようにフロントの光景が荒々しく流れすぎていく、その緩急の感覚と迫真性が素晴らしい。この後に展開する逃避行の場面はいずれもそのラフな疾走感がただならない迫力を生んでいる。広角クロースアップでひずんだ不安定な構図が合間合間に短く差し挟まれ、二人の顔面を狭いフレームの中に押し込める形の画面処理がまさに追い詰められていく二人の息詰まる閉塞状況を的確に印象づけていく。冒頭の過剰な雨と、それに対応するラストの過剰な朝靄の視覚的インパクト、一旦は別方向に別れた二人が車をターンさせ一台に乗り込むシーンの自然光線の鮮烈さと二人の表情なども忘れがたい。 [DVD(字幕)] 9点(2009-04-09 22:23:15) |
11. 月世界の女
犯罪映画として始まり、科学映画へ、そして最終的にはメロドラマへと落ち着いていく奇想天外さ。設定として前半のほとんどが夜の市街、後半が月世界となり、必然的に全体としてやや暗めで硬質の画調で統一されている。月砂漠のセットでは、さらに光源や光量を相当工夫して月面の冷ややかなムードを醸す。その中で一際印象的な場面。地球を飛び出したロケットの窓から、搭乗員たちが太陽を望むシークエンスがとりわけ美しい。地球の背後から太陽が昇りはじめ、大きな光輪を作る。悪役的人物、恋敵、密航少年を含め老若男女を網羅した6名がともに太陽の直射光を享受しながら陶然とそれに見惚れている。フリッツ・ラング作品としては異質な場面のようにも思えるが、後の様々なSF映画にも登場する「光への賛歌」とも呼べる感動的なシーンがここにもあった。 [DVD(字幕)] 8点(2009-01-04 22:27:04) |
12. 激動の昭和史 沖縄決戦
《ネタバレ》 アメリカ施政下26年目での映画化。いわゆる沖縄返還前年の映画である。現在に至るも何ら変わらない沖縄軽視への怒りと鬱屈は如何程だったことか。 一方の映画界は斜陽化の真っ只中だ。その中での精細なリサーチ、過酷なアクションを撮る新藤兼人・岡本喜八の 苦労は並大抵ではなかったはずである。 非沖縄的な風土・キャスト・言語に対する批判は容易いが、それはやはり酷だろう。 為政者側に特化した『日本のいちばん長い日』に対する反動でもあろう、軍部(参謀本部、32軍)・沖縄県民の双方を巨視的に描く 「叙事詩的リアリズム」(山根貞男)は、今度は米国兵士側を表象の対象から外した。 その視座は、日本軍の民間人軽視の描写を甘くもしていよう。 しかし、壕を出ろという軍人に抗議する大谷直子、軍人を弱虫と詰る女学生達の痛烈な叫びはカメラに正対して発せられている。 それは、画面を見る我々日本人たちへの痛罵という事に相違ない。 『ドイツ零年』のごとき、幼い子供たちの表情。そこには「主題におけるリアリズムとは全く異なったスタイルにおけるリアリズム」がある。 [ビデオ(邦画)] 7点(2007-01-14 12:53:44) |