1. デイジー
陳腐で凡庸、冗談みたいな恥ずかしい絵作りの中で、美男美女はあくまでもグラビア的に美男美女なままで、決して映画の中で輝くことは無く、穴だらけの甘い甘い物語に説得力を与える訳でもない。これは「見る」映画なのだから、三人の視線の交錯をもっとちゃんと演出してほしいなどといったレベルではないのは言うまでもない。■しかし、何だこれ?と思いつつ妙に心引かれるのは、あまりの通俗を作者たちが信じきっているからなのかもしれない。あるいは水戸黄門をのんびりと楽しむかのような、通俗に浸ることの怠惰な喜び。いーんじゃないでしょうか。楽しめました。 [映画館(字幕)] 5点(2006-05-29 00:21:43) |
2. 鉄西区
映画はまず舞台となる重工業地帯、鉄西区を前提とする。その中をゆっくりと走る列車の主観映像、延々と続くかのようなそのショットでさえ、全体を捉えることは出来ない。あまりにも巨大な全体、社会。しかし、映画はそれら巨大な社会を前提としておきながら、捉えていくのはあまりにも卑小なる個の有り様でしかない。■うんざりするほどに掘り、運び、つまり労働する彼らの姿は、それ自体が目的化しているような、労働のための労働に思えてくる。彼らは何のために埃がもうもうと舞う中、セメント袋を運ぶのだろうか。鉄道は誰が何のために何を運ぶために走っているのだろうか。■巨大な社会は確かに存在し、彼らのまわりに確固としてある。しかしその巨大な何かは決して見えることはない。彼らはその巨大な何か、見えない何かのために働き、食事をし、語り、風呂に入る。社会へ通じているはずの電話はもはやどこにもつながってはいない。彼らはどこに住んでいるのだろう。この迷宮のような巨大な工場の中なのだろうか。■しかしカメラは彼らの有り様をただ見つめている。ある住居にカメラは案内される。その住人は彼(カメラ)を自室に引き入れたことを後悔するように、逡巡し、しようもなく茶を入れ始める。カメラはその様を映すだけだ。その客はカメラを構えた無口な他人でしかないのに。■この長い映画の中で一瞬だけ、カメラが登場人物に積極的に対す、あるいは対さねばならない瞬間がやってくる。対象者である17歳の青年が唐突に過去の写真を見せ始める。父親だけを頼りにしていたその青年は、父親の長い不在の果てに、しかたなく、困ったあげく、そこにたまたまカメラを持った他人がいた、という理由だけで、自分と父親と行方不明の母親について語り始める。これは感動的だ。しかし、カメラは彼の感情をもてあますかのように、黙っている。■いよいよ工場は解体され、彼らの住む街が破壊される。雪の中で佇む少年、ろうそくの明かりの中で食事する家族、父も母もいない少年はいよいよその住居を失う、行き場を失う。■行き場のない人々、彼らのまわりには巨大な何かが広がり、さらにその先には彼らが抱えてきた歴史が見え隠れする。登場人物の一人が廃墟となり、ろうそくだけがともされる住まいで苦笑する。「革命前と同じだ」と。歴史や社会に翻弄され、常に行き場を失い、行き場を求め続けることの絶望と悲しさ、そしてしたたかさ。 [映画館(字幕)] 10点(2005-09-19 21:42:38)(良:1票) |
3. デイ・アフター・トゥモロー
ルールなんて存在しないようなことにも、とにかくルールを設定すること。この作品のルールは「火を絶やさないで室内にいれば氷河期は生き残れる」というもの。■はっきりいって滅茶苦茶なルールなのだが、それに応じて、寒波がぴきぴきぴきと迫る中、高校生グループは必死で部屋の中に戻ろうとする。観客はわけがわからないまま、とにかくそういうルールなんだからと半信半疑で納得し、どきどきはらはらするのだ。寒波と例えばジェイソンやフレディ・クルーガーなどの殺人鬼を同格に扱うかのようなルールの設定。■あるいは、父親は氷河の中を息子の元に歩いていくのだが、歩いていってどーする?とか、他の子供たちの親御さんは何してるのか?とか、当然まきおこる疑問を強引にねじふせ、とにかく父親は子供を助けに行動する。そーゆーことだから、そーゆーことなんだな、きっと。驚くのは、そんな強引をなんとなく受け入れてしまうことなんだけど、よくわからんな、なんでだ。■というわけで、結構面白かったです。映画館で見るべきだった。 10点(2005-03-29 22:31:40)(良:1票) |
4. 天使のはらわた 赤い教室
《ネタバレ》 土屋名美が男の精気を吸い取る吸血鬼(@蓮実重彦)となったのは、三人の高校生に犯されその一部始終を8mmフィルムに撮られた時だ。8mmフィルムの荒い画調の中、ゆっくりと立ち上がり服を身にまとう幽霊めいた不気味な姿。その姿、フィルムの中の女優に魅了されたエロ雑誌の編集者、村木とのすれ違いと再会を巡る、これは純然たるメロドラマだ。■しかし「哀愁」もかくやというべきメロドラマを標榜しつつ、大きく異なるのはヒロインが吸血鬼であること。三井マリアと同族にあるのだ、彼女は。■村木に捨てられたと誤解した名美が雨の中で立ちすくす、このロングショットが素晴らしいのは、ヒロインが高らかに笑い、その吸血鬼宣言を行うことで、メロドラマとして用意された1ショットに不気味な亀裂を走らせるからだ。■行きずりの男とのセックスシーンがまた素晴らしい。執拗にセックスをせがむ女に勘弁してくれと言いながら、当初はコミカルに女の要求に対していた男が「これは尋常ではない、これは人間ではない」と悟りはじめ、次第に恐怖の表情を浮かべる、女はブルーフィルムでの姿態を模倣し男の精を吸い尽くそうとする。この時の水原ゆう紀の素晴らしさ、長回しで彼女を捉えるカメラの浮遊感。■そしてラスト、まるで現実ではないかのような(トワイライトゾーンだ、ここは!)場末のバーに迷い込んだ村木は、堕ちるところまで堕ちた女と再会する。あくまでもメロドラマを演じる村木は「ここから出よう」と言う。そんな男に女は言い放つのだ、「来る?あんたが」と。この台詞をあくまでもメロドラマ内部の言葉と捉えるのか、メロドラマの通俗を断固拒否した吸血鬼の誘い水と捉えるのか、あるいはラストカット、水たまりに映った水原ゆう紀の表情は絶望に沈んでいたのか、不適に微笑んでいたのか。そもそも吸血鬼は鏡には映らないはずなのに。 10点(2005-03-29 22:07:10)(良:2票) |
5. デビルマン
■世界が破滅する。それはまず、普段の生活、日常を今後送ることが出来ないとと悟ること。社会的規範、個人の倫理、愛、すべてが喪失すること。そしてそれ以上に、人間の意識や意味や価値を真っ向から覆すものであること。人智を超え、すべてをゼロに戻し、新たな規範や価値基準が生まれる場であること。 ■つまり、私たちの全く知らない世界が現出する恐怖。と、期待。 ■そのテーゼを教えてくれたのが、「デビルマン」の美樹ちゃん首チョンパであり、 「バイオレンス・ジャック」であり「漂流教室」であり「ワースト」であった。 ■ところが、この映画における「破滅」とは、誰かが誰かを失うこと、でしかない。要するに「愛」。そのレベル。チンピラ男とコギャル(死語?)の愛、でもなんでもいいが、そんなのTVドラマで毎日やってるじゃん。デビルマンに変身しなくたって世界が破滅しなくたって神とか悪魔とか言わなくたって、ほら、あなたの周りで毎日起こってることじゃん。そんなもん誰が見たいのか。それが「デビルマン」なのか。 ■なぜ「破滅」に真っ向から挑もうとしないのか、と思う。こんなもんでいいんじゃん、ハリウッドの真似でいいんじゃん、映画のラストはこうでなくちゃね、と思っている姿勢が情けない。業界の裏側が透けて見える映画はやっぱ空しいです。 0点(2004-10-16 00:23:40)(良:8票) |
6. テキサス・チェーンソー
わけわかんない人々に監禁され、もしかしたら、というか絶対に殺されてしまう、私は死に向かって緩やかに進んでいく、というのを描くと恐怖映画になります。で、わけわかんない人々から逃げるためにあれこれ画策したり、追い回されたりするのはサスペンス映画です。も一ついうと、そんなわけわかんない人々に逆襲し倒そうとすると、これはアクション映画になります。この映画が退屈なのは、恐怖映画じゃなく、サスペンス映画になっているところ、と、前作に衝撃を受けた人はたいていそう思うんじゃないでしょうか。でも、こーゆー後味の悪いホラーって最近そうないし、上映後、後ろに座ってた男子高校生3人組が呆然としてた様をみてると、これはこれで悪くないんじゃないかと。 4点(2004-04-15 10:56:33) |
7. 出来ごころ
この映画を観て、突貫小僧の真似をしない人は多分いない。そんな戯れ言しかこの映画には言えまへん。私に出来るのは、しみじみ泣いて、しっかり笑うだけです。大日方傳のかっこよさ、花火の音やビンタの音が聞こえてきそうなサイレント。それにしても、突貫小僧はなぜ眼帯をしてたんだろう? 10点(2003-12-13 00:45:12) |