2. デビルマン
《ネタバレ》 原作では、デーモンに憑依されたミーコが、スケバンに脅されおびえるが、服を着て醜いデーモンの姿を隠していても、彼女の内心の怒りに体が反応してしまい、胸から酸を噴射してスケバンを溶かしてしまう。ここではデーモンに憑依された醜い者が善で、人の姿をした者が悪と、善悪と美醜が見事に顛倒しているのである。 それゆえ映画の中でのミーコが、醜い姿をあらわにして怒りを表現するのではなく、翼が生え、魔力を使えるはずなのになぜか日本刀を振り回して(キルビルかよっ!)、スーパースローで残像がスクリーンに映える。そこでススム君が言う。「おねえちゃん、きれいだね」。きれいなものをきれいというなら、それは何事もないだろう。醜悪極まりないものを「きれいだ」ということこそ、「デビルマン」としての意味があるのではないか。役者が渋谷飛鳥では「胸から酸を噴射」は無理だったのだろうか。日本刀ならせめて全身返り血を浴びて帰って来てほしかった。命を守るために戦う女は美しい。 原作にないラストシーンには、多くの批判がある。曰く、デーモンが滅びるほどの最終戦争で、どうして女と子供だけが生き残るのか、と。建物は一切なく、見渡す限り一面の瓦礫。二人とも顔が煤けていて、最終戦争というより、火災現場から脱出してきたようである。最終戦争というからには、女の命としての髪はすべて抜け、皮膚は赤くだだれケロイドだらけになっていなければおかしいだろう。 「どんなことがあっても、生き抜くのよ」。生物はもはやミーコとススム君の二人だけしかいないようだ。選択の余地はない。ミーコはここで醜い裸体を晒し、年端のゆかぬススム君を性行為にいざなうべきである。被爆してDNAは損傷し、しかも彼女は半分はデーモンであり、どんな子供が生まれてくるか想像もできない。それでも命をつないでゆかねばならない。「おねえちゃん、きれいだね」という台詞は、ここで言うべきであろう。それでこそ、エログロを愛した永井豪への最大級の敬意となるのだ。 「悪を倒すための暴力は正当化される」というのが原作者永井豪の突きつけたメッセージだとすれば、「生に対するあくなき執念だけが正当化される」というメッセージを突き返すことができたら、本作は屈指の名作となっていたに違いない。 [DVD(邦画)] 3点(2008-07-29 07:29:15)(良:5票) |