1. Mの物語
この映画を見終えたなら、間違いなくこの映画が「Mの物語」などというタイトルではなく、「マリーとジュリアンの物語」だと了解できる。配給会社の方は、「リヴェットの映画=長い」の重圧に押しつぶされ、最後まで鑑賞できなかったのだろう。こんなタイトルになってしまった為(?)、レンタル屋ではエロティック洋画(「エマニュエル夫人」みたいなやつ)のコーナーに並ぶのが常であり、またそのタイトルゆえに並んでいても全く違和感がないという現状。ま、確かにエマニュエル・ベアールは裸体を惜しげもなくサラしているのだが、それよりもこの映画ではベアールがカワイイと感じる瞬間が何度もある。ジュリアンの元恋人の存在に嫉妬するところなんか特にそうなのだが、その元恋人の残した衣類を着散らかす場面や、猫と戯れる場面(ジュリアン氏も負けてないが)等、それまで自分が抱いていたベアール像(=官能の人)を大きく変えた。と、こんな記述だけだとそれこそ「Mの物語」でいいじゃん、となってしまうので軌道修正するが、この映画はヘンである。そのため、ラストの雨月物語にはグッときたが、数々の夢のシーン、邸の中心にすえられた巨大ゼンマイ時計、マダムXという唐突な存在、それらを何の疑いもなく包み込む空間等、掴みきれない部分が錯綜するので、軌道修正は難しい。結局この映画は「マリーとジュリアンの物語」であるかどうか、はっきり言ってよくわからない。が、この映画を見終えたなら・・・ [DVD(字幕)] 9点(2006-11-09 21:05:22) |
2. エルミタージュ幻想
《ネタバレ》 舞踏会はやがて終わりを迎え、紳士貴婦人が無数の人だかりとなって帰り路につく。画面は彼らの無数の顔から表情を拾うが、明るい顔付きの者は一人としていない。豪華な衣装や巨大な宮殿とは裏腹の憂鬱が、彼らのこれまた無数のささやきと共振して映画を観る人々に「もうすぐ映画も終わりだよ」と告げているみたい。事実、カメラはそのまま出口へと進み、ぼやけた海の前で立ち止まり、監督自身の呟きと共に幕を閉じる。しかしその声は、「終わりはない」「私たちは永遠に生き続ける」と小さいながらはっきりと呟く。ソクーロフの映画はいつも締め方がいい。エルミタージュ美術館が保存してきた空間と時間のアーカイブを一呼吸で切り取ってしまおうという大胆な方法にア然としながらも、この縦軸横軸をシェイクした迷宮に映画という斜めの軸をぶちまける思い切りのよさにしびれる。芸術としての高みよりも映画としての高みを感じるこの映画は、「チャーリーとチョコレート工場」の夢の工場を探索するように見られるべきだと思う。もちろん豪華さ、案内人(このオッサンがとにかく最高)の魅力ともに「エルミタージュ幻想」が勝るのは言うまでもない。 [映画館(字幕)] 9点(2006-05-16 12:29:32) |
3. エリ・エリ・レマ・サバクタニ
《ネタバレ》 冒頭から「ジェリー」のような横移動。この雰囲気で一気に引き込まれる(でも本当は「風の谷のナウシカ」の冒頭っぽいと思った。ガスマスクもしてるし)。レミング病という死の病、それを薄っぺらく語るラジオの声、何気ない風景に突然出てくる死体など、終末観の語り方が魅力的である。「レミング病という人類に絶滅をもたらす病気が蔓延していて、この病気を防止する為にはある音楽を聴かなければならない。そして、レミング病に感染してしまったある少女がその音楽を演奏するミュージシャンのもとへと向かう」という、この図式も興味深い。主人公が世界を救うという、物語が世界の中心にあるような感覚がこの映画にはある。いや、もちろん正確には違っていて、浅野忠信と中原昌也の音楽は病気を防止するだけで治す事も出来ないし、彼らは救世主というよりは隠遁者で、音を奏でる事だけしか興味がない。でもそういう所が逆に救世主的だったりする。使い古され枯渇したはずのこの構図を再び作り直すようにして、さらにこの映画では爆音という飛び道具を用いる。あの爆音の強度があるから、この映画で規定した中心は揺るがないのだと思った。そしてこの強度と対をなすような中原昌也の微笑や探偵役の戸田昌弘の陰、これがとてもいい。冒頭の砂嵐と対照的な雪のラストシーンも良かった。 [映画館(字幕)] 9点(2006-04-20 12:52:25) |
4. エスケープ・フロム・L.A.
Rock=American Spirit≒映画、ってことなのか?カーペンターの映画を見てから、ストーリーとか映像のチープな部分について突っ込むのは止めようと思いました。それって映画とは別の話ですし。映画としての完成度とかもどうでもいいっす。あの波とかさぁ・・・ここまでやっちゃったら、こっち側も一緒に壊れるしかないじゃないですか!大衆消費文化の申し子、映画。このことを体で理解して作っているに違いないカーペンターの映画は、映画の歴史という巨大なビッグウェーブに対しても、ピーター・フォンダのようにハイテンションでどこか狂ってる。このバランス。 [映画館(字幕)] 10点(2005-10-03 00:27:58)(良:4票) |
5. エレニの旅
《ネタバレ》 アンゲロプロスの映画は大抵が「戻る」か「帰る」に重点が置かれる。エレニは最後、水没した自分の村に戻り、唯一頭を出している自分の家で息子(最後の家族!)の死を目の当たりにして泣き崩れる。場所を失うということは思い出を失うのとほとんど変わらないことに違いない。「心の中に生きている」という言葉だってもはや介在する余地がない。エレニにはもう帰る(戻る)場所がないし思える人もいなくなった。そして余りにも重い慟哭が曇天の空とそれを写す水の間で響きを打ち、映画は終わる。独立した三部作の一作目になる予定の「エレニの旅」は、失うということをエレニという一人の女性に背負わせる。20世紀の総括のスタートとして。言葉だけでは表しきれない哀しさや孤独と映像にすることができない不在の間を流れる音楽が、この映画を物語り、同時にエレニへ向けた哀歌となる。二つの村を造り、片方は水没させ、片方には無数の白布を干した。映像は、意味をすっ飛ばして説明のつかない力強さを提示するが、それは同時にあの赤い糸のように脆くもある。170分という時間の密度にふさわしいアンゲロプロスの神話的世界は、彼とその仲間たちの不屈の精神によって作り出された、20世紀という戦争の世紀を生きた一人の女性の愛の物語だった。 [映画館(字幕)] 8点(2005-08-16 23:30:24) |