1. ハドソン川の奇跡
《ネタバレ》 一言で言えば無難だ。 回想と妄想が物語を多層化させることでより良くなるというよりは、 実際の出来事の短さを物語として成立させる為の無難な肉付というところもあり、 簡潔さの申し子とも言えるであろうイーストウッドらしくないとも感じる。 その一方でランタイムが100分をきっているという事実もある。 別にシナリオが悪いわけではない。無難だが寧ろ面白い。 墜ちないでくれと思わせる現実と墜ちてしまえと思わせるシュミレーションを、 時間差で観客に叩きつけてくるわけだ。何たる語りの構造。 ただしかしイーストウッドが撮る為のシナリオに感じない。 乳飲児を預る隣席の男の慎ましさ、親父と息子の電話での会話に迸る熱量、 この映画を締めくくる副操縦士の一言など、細部にこそ映画の良さは宿るが、 エンドクレジットを見ればわかる通り事実の延長線上でしかないと感じざるを得ない。 無論、イーストウッドにそんなものは求めてない。 角張った石も転がり続ければ丸くなってしまうということだろうか。 あと最近、ステディショットが多過ぎるのではないかと危惧している。 これは撮影上の効率化なのか、芝居を撮ることを優先する為なのか。 [映画館(字幕)] 7点(2016-09-26 22:39:19)(良:1票) |
2. バリエラ
《ネタバレ》 とにもかくにも、男と女の横をヘッドライトが幾対も通過していく一連が美し過ぎるというこの映画である。この男女の出会いのシーンは徹頭徹尾美しいわけで、煙草の火をつけるだけとか、電車で鉄橋を渡ったりとかするだけでもそれはどこか儚く感じてしまうのだった。 そんな男女間は映画後半で一気に男の視点から女の視点にスライドするがこれがとてもいい。そして男の時にやった360度以上パンが女のときにも出てくるわけだ。2回目でやっと気付いたのだが、背景に鏡みたいのを建てているようだ。あるタイミングでどこか一部を外すと信号機が出てくるという単純な仕掛けだ。 そしてカメラ前のシャッターとか物の動かし方と配置が上手過ぎる。路面電車の整備工場などでの様々な物の配置がもう堪らなく良くて、映像美を極めている気がしたのだ。それに伴って凄いのがズームであった。この時代のスコリモフスキのスタイルとして長回しとズームが多様されているのだが、その路面電車の整備工場でも、フルサイズくらいで撮っていた人物の手前を電車がシャッターしている間にズームバックされていて、電車が通り過ぎると人物が豆粒くらいの凄い引き画になっていたりするのだけど、それが映像美を極めている気がするくらい、はまっていて、単純にかっこいいのだ。 ま、あとはジャンプ台とかも滅茶苦茶やっているわけで、スコリモフスキ20代というのは正に彼の青春と情熱が炸裂している時期であり、「バリエラ」はそんな才気迸る映画であった。 そして音(音響/音楽)、凄し! [映画館(字幕)] 8点(2010-06-20 15:05:00) |
3. ハート・ロッカー
最低である。最悪でもある。 みんなで頑張って爆弾処理に行こう、イラクに泊まろう、みたいな映画である。あるいは、USアーミー爆弾処理班の仕事紹介のイメージビデオだ。それでも俺は戦場に行く、というメッセージか。明らかに戦闘意欲を昂揚させている。反戦とかそういうこととは別に、軍隊に入ろう、爆弾処理の記録を作ってヒーローになろうみたいな糞みたいなことを2時間以上も観せられた。もはや拷問だ。 戦争に行ったことのない女監督が、さも戦争知ってますみたいな面して、これが真実、現実です、みたいに押し付けてくる映画を作っちゃたっていう最悪な出来事だ。彼女は恐らく戦争が麻薬とかそんなことには大して興味はなくて、USアーミー辛いけど頑張れくらいの労いの気持でこの映画を作っている。それがいけないんだ。それが駄目なんだ。それが糞ったれなんだよ。こんなところには真実も現実もない。それらは戦争を体験した人以外にはわからない。映画で戦争をやるならそれなりの覚悟が必要だってこと理解しなければならない。これはスーパーマーケットで沢山あるシリアルの中からお気に入りのシリアル買ってるような女がやっちまった惨事だ。そもそも映画なんかに真実や現実なんかあるわけがない。戦争を経験してない人間は主人公の妻みたいに押し黙ってるしかできないんだよ。素早い反応なんて出来ないんだよ。だって経験してないんだから。童貞やバージンがセックスについて語れないのと同じようなもんだ。しかし、自分にも責任があるってことを忘れては駄目なんだよ。それは戦争を知らない人々にも罪はなくとも責任はあるからで、罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからってことだ。 爆発すると映画的にも華があっていいよね。人間関係、対立とか、友情とか、信頼とか中途半端に描いて何がしたいのかね。物語も放棄して、ただ映像繋げて垂れ流して、あと何日とかいう何の効果もないチャプター分けして、手持ちかスタビで、クウィックズームで臨場感ですか?立派だねぇ。嗚呼立派だ。まさか21世紀初頭、こんなプロパガンダにアカデミー賞をあげるなんて、アメリカという国はまだまだ異国で糞垂らしまくる気なんだな。本当に立派な国だ。 アメリカ映画の面汚し的愚作。中指立てて差し上げます。 [映画館(字幕)] 1点(2010-03-13 00:00:18)(良:1票) |
4. パブリック・エネミーズ
《ネタバレ》 フィルムのみならず、小さなビデオカメラも手にしたマイケル・マンのカメラワークは自由自在で狭い部屋の中も縦横無尽に動き回る。冒頭の脱獄シーン、車で仲間の手を離すまでの一連のカット割なども見事であり、そういう角度にカメラを入れるのかと感嘆する。勿論、熱を持った銃声だけが響き渡る森の中での銃撃戦の音響処理はいつも通り見事であり、マイケル・マンの映画である烙印だ。この銃撃戦のシーン、音楽も一切排し、緩慢に間延びしきっている。しきってはいるが、それが退屈へと陥らず、ぎりぎりのところでサスペンスとして完璧に成立しているのだ。これもまたマイケル・マンの烙印と言っていいだろう。そして単純ながらもジョニー・デップ演じるデリンジャーとマリオン・コティヤール演じるビリーのカットバックを撮ること。これがこの映画のすべてなのだ。 だからこそ最後が泣きなのだ。 デリンジャーは映画館でクラーク・ゲーブルが演じるブラッキーの潔い死に際を目にする。これは「男の世界」という映画だが、電気椅子を自ら選ぶブラッキーに、ウィリアム・パウエル演じるジムが「Bye Bye Blackie」と言うのだ。デリンジャーとブラッキーというカットバック、デリンジャーは何を想い、映画館の席を立ったのだろうか。そして彼は最期を迎える。彼の死に際のひとことをスティーヴン・ラング演じるウィンステッドがビリーに伝えにやってくる。「Bye Bye Blackbird」。これがアメリカ映画の本質的な泣きの瞬間だと信じてならない。そして涙を流すビリーのクロースアップ。映画はそこで幕を降ろすと思わせるが、最後にもうワンショットある。ビリーのPOV。素晴らしいではないか。 [映画館(字幕)] 8点(2009-12-23 20:04:30)(良:2票) |
5. パンドラの匣
《ネタバレ》 冨永監督作品の持つどこか得体の知れない軽さというのはひとが生きている上での軽薄さに似ている。またあるときその軽さはポップさに姿を変えるのだが、それはひとが生きている上での明るさにも通ずるだろう。 「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「よーしきた」「いやらしい」「いじわる」「しるもんか」などと反復され続ける言葉、言葉、言葉と言葉で埋め尽くされた映画であるが故に、どれが真実の言葉であるかということは実に曖昧であり、ひばりが手紙で綴り続ける嘘という軽薄さがあり、即ち言葉自体の軽薄さだ。であるからこそ、その軽薄さというのがこの映画における徹底した同録からの回避というところに現れているのではないだろうか。ひとの本心と口から出てくる言葉や紙に綴られる言葉は必ずしも表裏一体ではないということだからだ。マア坊が布団部屋でひばりに詰め寄るシーンなどは言い方を変えただけの同じ台詞が多重録音され、どの言い方がマア坊の本心なのかなどさっぱりわからない。肉体と言葉が乖離するとき映像と台詞も乖離するのだ。 そしてやはり死と隣り合わせではあるものの、この作品は実にポップであり、生の明るさに満ちている。それは窓外を明るく飛ばし、全体をオーヴァーめにした撮影プランなどでもはっきりと伝わるのだし、それは実に清潔的で好感が持てる。しかしナイトシーンは実に情けない。夜は青くはない。夜は暗いのだ。べっとりと青く染まった人物の表情などは見るに耐えないものだった。 そして何よりも、歌手であり近年ではほとんど作家となっている川上未映子が女優として堂々と主演を勤めるわけだが、これが良い。贔屓目に見ても悪くない。ギターの演奏シーンなどは実に良い。このひとは一体どこへ向かっていくんだろうか。 この映画で冨永監督は太宰治の描くひとの軽薄さを軽やかに表現しているだろう。決して傑作というものではないが、太宰治の生誕百年を迎える今、作られるべき映画であったと言える佳作だった。 [映画館(邦画)] 7点(2009-11-05 01:29:21)(良:2票) |
6. BALLAD 名もなき恋のうた
《ネタバレ》 井尻又兵衛が向こう岸から川を走り抜けて来、山賊たちとの殺陣を繰り広げ、それを一気に畳み掛けるワンショット 又兵衛が部屋を出、簾姫が引き止める、又兵衛軽く会釈してその場を立ち去ろうとするが、真一がカメラ前を横切り又兵衛を説得すると踵を返し簾姫のもとへと戻って行くワンショット 櫓から降りてきて門を抜け、坂道を下り、走り続けるも、銃声が鳴り響き、脚を止めてしまう簾姫が一気に小さくなっていくワンショット 自転車に跨がり、坂道を下り、大声を上げ、性急なパン、びゅーんと駆け抜けて行く真一とともに幕を降ろすワンショット どの長回しのワンショットも見事に撮れている。そこに映し出される人物たちの感情を見事に切り取っている。長回しのワンショットは時間と空間の証明だ。断絶されない時間と空間、それは我々に流れている時間と空間と同じものであり、だからこそ長回しのワンショットが美しく撮れたとき、映画においての豊かな表現となるのだ。 この映画の主題は溝口健二「近松物語」的であり、香川京子というキャスティングはそういうことだ。 何故そういうことになるのかと言えば、思い起こせば3年前、没後50年溝口健二国際シンポジウムに登壇した山崎監督、あの姿を思い出すわけで、つまりそれが結実した今作のはずなのだ。 もし、水面、すすき、長回しのワンショット、そんなもので溝口健二を表現する気だとすれば、それは所詮溝口的クリシェが山積みとなっただけの凡作だ。 ただ今回の一番巧かったところは実は溝口とはあまり関係のないところであった。 それは簾姫が自動車に乗り、その後ろを又兵衛が馬で追い掛けるも距離は広がり、追いつくことが出来ないというシーンだ。この時誰もが、もはやこのふたりは永遠に結ばれることはないのだろう、という暗示に気がつくはずだ。この距離感の問題というのは要するにイーストウッド的であるということだ。そして、あの銃声、立ち止まる簾姫、カメラは止まることなく彼女を突き放して行く、実に立派な連鎖が起きているだろう。 山崎監督のやりたいことは充分に伝わるが、いまいちのれないのはあまりにも幼稚なシナリオだからなのか。あらゆるところに巧さは見えるが良い映画なのかとなると話は別だと言わざるを得ないだろう。 [映画館(邦画)] 5点(2009-09-15 02:38:51)(良:1票) |
7. バーン・アフター・リーディング
《ネタバレ》 『ノーカントリー』の時も感じたが、はっきり言って駄目なんじゃないかと思う。ただ無責任なことだがどーして駄目なのかがよくわからない。凄く簡単に言うと「つまらない」ってことなんだけど、その「つまらなさ」自体すら理解することが出来ないから困る。 まず脚本も演出もまったく巧くない。群像劇ということで点と点は何らかの形で繋がってはいるが、それは巧さとは何にも関係ない。 コーエン兄弟って本当にキャラクター創造の人たちで、それって役者が勝手にやってくれることなんだけど、それを脚本とか演出でがちがちに固めて造り出そうとするから駄目なんだろうなと思う。この人はこういう人でっていう縛り付けが強すぎるんだな、きっと。映画ってキャラクターショーではないのだから。 ま、結局それがコーエン兄弟らしさなのかもしれないが、となるとそれを楽しみにしていないと何も楽しくないってことになるのか?だったら見なけりゃいいということか?しかし哀しいかな、確かに過去のコーエン兄弟の映画は楽しかった、好きだった、だから今も見ているという人は大勢いるだろう。もはやコーエン兄弟とウディ・アレンは年中行事になりつつある。これは正直良くないことだ。このことについては最近よく考えるが、どーしていいやらわからない。もしかしたら「もう見ない」という断固たる決意が必要なのかもしれない。 それはさて置、あと主な登場人物たちが最後誰も出てこなくなるってことでこの映画はいいのかと思うのだが、それは観ているこっちからすれば何の感慨も沸かなくなるんじゃないのかと、まあ出てこなくてもいっこうに構わないんだが、ならばその最後の感慨ってものを観客に感じさせるのにあのCIAの幹部のふたりにすべてを負わせるっていうのは無理があるってことなんだと思う。そこにはキャスティングミスということもが多少なりある。主な登場人物があまりにも有名過ぎて、あのCIAの幹部ふたりは添え物でしかない。添え物にすべてを任せるなんてのはあまりにも無謀すぎるだろと。 Googleアース的に始まって終わろうとそんなことはどーでもいいんだが、あれの意味を考えると更にこの映画がつまらない映画だと露呈してきそうなので、止めておくことにした。だからきっともうコーエン兄弟の映画は楽しめないんだって思う。 [映画館(字幕)] 4点(2009-05-03 04:53:38) |