1. 火垂るの墓(1988)
《ネタバレ》 終戦の日が巡ってきました。今年は日テレで放送しないようなので、今さらですが投稿します。 まず初見時のインパクトから。私が最初に当作品を観たのは、父と共に、叔父(父は末っ子だったので、叔父とは、かなりの年の差がありました)の家に泊めてもらったときです。 それまでも、戦時中を舞台にした実写の映画やTVドラマは観ていたものの…【現在、活躍中の役者さん達が、戦時中の衣装を身につけ、すすけたメイクをしての再現】では、私にはどうしても【表面的な作り物】という印象を否めませんでした。 一方、当作品は【絵】のはずなのに、否、【絵】だからこそ、私には描写が非常に生々しく感じられ、没入できました。 没入できたのは、徴兵経験のある叔父と観た体験も大きかったかもしれません。叔父は、真剣な眼差しで、ただひたすら黙って観ており、そこには【無言の説得力】がありました。 次に、当作品が【となりのトトロ】と同時上映だったことに鑑み、次第に思うようになったことについて。それは「もし、サツキとメイも、生まれた時代が、清太や節子と同じで、同じ境遇になったら…」ということです。 もちろん、サツキなら、叔母さんの手伝いを頑張りつつ、次第に「これ以上、迷惑をかけられない」というように、家を出るまでの過程は、清太達と違うものになるでしょうが、最後はきっと同じ運命が待ちうけていることでしょう。そして事情を知らない通りすがりの女や男から「汚いなあ」「アメリカ軍がもうすぐ来るちゅうのに、恥やで、駅にこんなんおったら」と言われてしまうことでしょう。そう思うと、私は冷静ではいれません。「親を亡くしたのは、子ども達の責任ではない!事情を知らずに、ゴミ呼ばわりするな!」というように…。 最後は、皆さんのレビューを拝読してみて、賛否両論、様々な意見があるにせよ「観る者を、冷静にしておけない“激しい感情を触発する”作品だな…」ということです。 冷静に考えれば、野坂昭如氏の体験に基づいているとはいえ、これは【作り話】です。観客受けしやすいように清太をサツキのようなキャラクターに変更し、叔母さんを【最初から二人を厄介者扱いする徹底的に憎たらしい人物】に脚色すれば、少なくとも私の場合、もっと勧善懲悪的に感情をシンプルに処理できるはずなのに、当作品は、そうではありません。次第に関係がこじれていく展開になっており、私には複雑な気持ちが募ります。ましてや、私が激昂する「汚いなあ/恥やで」という女や男だって、脚本に書かなければ済むはずです。 その意味で、観客受けする脚色に成功した典型は、TVアニメの【フランダースの犬:1975年】でしょう。主人公のネロ一人を取り上げても、年齢を原作の15歳から10歳へ引き下げ【周りからひどい仕打ちを受けても、悲しみこそすれ、恨んだりしない、心優しい少年】というように、アニメ独自に脚色しています。その結果、誰もが涙を注ぐキャラクターになったと思います。あのアニメを見て「絵が落選する場合だってあり得るのに、その場合の対策を講じなかったネロの見通しの甘さ・生活力の無さが、パトラッシュを巻き添えに死を招くことになった。まさに自業自得」という感想を抱く人は、誰もいないでしょう。しかし原作は、このような感想が少なからず寄せられるような内容になっていると思いますし、だからこそ、原作しか知らない海外の人達は【日本人が当アニメ版に寄せる愛着】を、理解し難いのでは…と思われます。 したがって、清太だって、アニメ版のネロのようなキャラクターに脚色していれば、観客の皆さんから非難されることはなかったでしょう。高畑監督は、フランダースの犬の製作にタッチしていなかったとはいえ、当然、この【観客受けする脚色】は知っていたはず。敢えて、こうした脚色をしなかったのは、高畑監督の目指したリアリズムなのかな…と思ったりしています。 …というように、私自身、何とかニュートラルな立場で文面を書いてみましたが、やはり冷静ではいられません。それは、どうしても幼い節子が、あまりにもいたたまれないからでしょう。それほどまでに節子の描写はリアルなものとして、私の胸に刺さっています。 「アニメ、恐るべし」…この言葉は、当アニメを観た野坂昭如氏が発したお言葉だそうですが、私にとっては「高畑監督、恐るべし」 です。 さて、採点ですが…①「アニメは子どもが見るもの」という意見がまだ根深かった時代に、【映像表現】としてのアニメーションの可能性を具現化した高畑監督及びスタッフの皆さんへ敬意を表し、また、②清太と節子は架空の存在とはいえ、現実には、この二人のように、戦争によって両親を失い、生きることが出来なかったあまたの子供達への鎮魂を込めて、10点を献上します。 [地上波(邦画)] 10点(2020-08-15 16:27:06)(良:1票) |