1. ミニオンズ フィーバー
本来の主人公グルーを差し置いて、すっかりと世界的なキャラクターとして定着した“ミニオンズ“。一昨日開幕したパリ五輪の開会式においても、割と長尺の時間を使って、開会式用にオリジナル制作されたミニオンズのアニメーション場面が映し出されていたことからも、このキャラクターたちが確固たる“世界的地位“を得ていることは明らかだろう。 本作は、グルーの幼少期の1970年代を舞台にして描かれる。人々のサイケな服装や、オールディーでキュートなデザインのガジェットが溢れていて、本シリーズの造形や空気感にとてもマッチしていたと思う。 ミニオンズたちが誘拐された少年グルーを救い出すために、カンフーマスターに師事してハチャメチャなアクションを繰り広げる様もユニークだった。 そもそも鑑賞者が理解できる言語を有さないキャラクターが主役の映画なので、ストーリー性を求めること自体ナンセンスだと思うが、それでもミニオンズたちのユニークな言動のみで「娯楽」を構築し、ストーリーを紡ぎ出していたと思う。 このあたりのアニメーション表現は、「トムとジェリー」の時代から、スラップスティック・コメディを追求してきたアメリカアニメの真髄だろう。 少年グルーがなぜこれほどまでに悪事に信奉しているのかは、相変わらず不明確だけれど、黄色い謎の生物たちが織りなすエンターテイメントの力のみで押し通す力技は嫌いではない。 [地上波(吹替)] 6点(2024-08-16 23:43:13) |
2. ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE
“Actor”とは文字通り“Action”を追求し表現し続ける“生き方”であることを、今年61歳になるハリウッドスターは、証明し続ける。 1996年にトム・クルーズ自身の手によって製作された「ミッション:インポッシブル」シリーズの最新第7作。 27年余りの年月を経て、主人公イーサン・ハントを体現し続ける稀代のスター俳優は、“演者”としてのボーダーラインをとうの昔に超えてしまい、本作では文字通り境界のその先に我が身を放り出している。 数ヶ月前にYou Tubeで公開された本作最大のスタントシーンのドキュメント映像を見たときには、トム・クルーズの“映画馬鹿”としての気質を重々理解していた上でも、思わず「馬鹿かよ」と口に出さずにはおられず、ニヤつきが止まらなかった。 これまでのシリーズ作同様に、アクションシーンのアイデアを起点としてストーリー展開が構築されるスタイルは本作も変わらず、むしろさらにそのコンセプトが加速している。 163分の長尺の上映時間ほぼ目いっぱいに展開される数々のアクションシーンは、どれも驚きと娯楽性に溢れていて、そのアクションの過剰なエンターテインメント性に対して、ストーリーテリング自体が振り落とされないように必死にしがみつているような印象すら覚えた。 特に本作は、シリーズ初の二部構成の“前編”ということもあり、多少のストーリー的な説明不足感や、真相や伏線回収はあえて放置して、ひたすらにアクション描写に振り切っているようにも感じた。 ただその一方で、描き出されるテーマとほぼイコールの存在として描き出される本作の「敵」は、この2023年の映画としてあまりにもタイムリーであり、トム・クルーズの映画プロデューサーとしての視点の確かさにも感服する。 劇中“それ”と呼称され、全世界へ支配力を強める神のごとき存在として対峙する“AI”との戦いは、まさに「デッドレコニング(=推測航法)」の主導権を巡る戦いであり、すなわち人間とAIにおける未来の覇権争いへと繋がっていく。 無論、来年公開予定の続編がただただ待ち遠しいが、本作の各シーンでセルフオマージュされた「ミッション:インポッシブル」第一作からまた見直しつつ待つことにしよう。 ただひとつ、“彼女の死”がフェイクであることを願いながら。 [映画館(字幕)] 8点(2023-07-23 22:06:26) |
3. Mr.ノーバディ
無慈悲に去っていくゴミ収集車、何の変哲もない通勤と職場、愛想のない思春期の息子、毎夜距離の空いた夫婦の寝室、家族の冷たい視線と小言、延々と繰り返される鬱積の日々……。 積もりに積もった欲求不満と、持って生まれた“或る狂気”がついに抑えきれなくなり、猫ちゃんのブレスレットが奪われたことを“きっかけ”に、地味な親父はブチ切れる! 破天荒で痛快。 「ジョン・ウィック」、「96時間」、「イコライザー」の系譜に位置する“舐めてたパンピーが実は殺人マシーンもの”の新たな傑作と言って相違ない。 もはやジャンル映画化されているキャラクターの基本設定はそのままに、主人公ハッチ・マンセルの人間性が独特で良い。 地味で大人しく、妻や息子からはやや蔑視され、毎日路線バスに揺られ、Excel入力を日がな繰り返す会計士の男が、突如秘めた暴力性を呼び醒ます様は、荒唐無稽で狂気的だけれど、同時に多大な娯楽性とカタルシスを孕んでいた。 自宅に押し入って去っていった強盗に対して、意気揚々と報復に行ったはいいものの、予想外の展開で“不発”に終わる主人公。悶々としたまま帰りのバスに乗り込んだところに、街のゴロツキどもが乗り込んでくる様子を見るやいなや思わずニヤニヤを抑えきれない主人公の様相からは、長年抑え込んできたのであろう彼の真の狂気性が溢れ出ていた。 そう、この男、間違いなく狂っている。 他の同系譜の映画のように、愛する家族を守るためにひた隠しにしていたその凶暴性を不本意に解放したのではなく、日頃の鬱積が堪らなくなって、意識的に“暴発”させたと言ったほうが正しい。それは、家族との安穏な生活を自ら放棄したと言っても過言ではなく、明らかに“やりすぎ”であろう。 だがしかし、その“暴発”の様こそが、多くの鑑賞者、特に彼と同じように日々鬱積を抱える我々“親父”層には堪らないカタルシス解放の起因となったのだと思える。 このアクション映画が描き出した娯楽の本質は、まさしく世界中の“親父たち”が抱える「欲求」の実現化。 唯一の得意料理を家族に振る舞いたいし、贅沢な海外旅行を計画したいし、高級クラシックカーを乗り回したい。そして、娘には好かれたいし、息子には尊敬されたいし、妻とはいつまでも愛し合っていたいのだ。 無論、普通の親父には、そのためにロシアンマフィアを壊滅するなんてことはしないし、できないけれど、小さくても自分自身が孕む「力」を解放することは、できるかもしれない。 この映画のカタルシスの正体はそういうことだった。 主人公の父親役で登場するのは我らがクリストファー・ロイド。施設暮らしの老いさらばえた爺さんと思いきや、主人公以上の狂気性を爆発させて見せてくれる。 最高、続編も期待大。 [インターネット(字幕)] 8点(2022-02-23 00:02:37) |
4. MINAMATA ミナマタ
「写真」を撮ることが、昔から好きだ。 “趣味”とも大きな声では言えないくらいのスナップ撮影だけれども、自分が目にしたもの、接した人の表情、過ごした時間と視界を、写真によって切り撮り、残すというプロセスと産物には、決して数値化できない価値があると思う。 今年、少しいいカメラを買って、写真を撮るということがもっと楽しくなり、そのプロセスが自分にとって益々意義深いものになりつつある。 そんな頃合いに、この映画を観たことは、自分の人生において、中々印象的なトピックスだったと思える。 ユージン・スミスが撮る「写真」と、自分が趣味レベルで撮る「写真」とは、意味も価値もまったく「別物」であることは理解しつつも、彼が人生の黄昏に宿命的に遭遇してしまった遠い異国の「事件」の渦中で語った写真を撮るということに対する覚悟と戒め、そして悦びは、強烈に突き刺さった。 僕は、日本人としてこの国に住んでいながら、「水俣病」について学校の教科書以上のことを殆ど知らないし、ユージン・スミスというフォトジャーナリストの存在も殆ど知らなかった。 ほんの50年ほど前の出来事であり、今なお訴訟が続いているにも関わらず、「無知」であることを恥ずべきだし、正確な知識と情報が流布されていないこの国の社会に在り方も、やはり問題視すべきだろう。 ただ、その「無知」を劇的に補完し、知るべきことを知らしめてくれるのも、「写真」というものが持つ「力」であることを、この映画はあまりにも雄弁に物語る。 ユージン・スミスをはじめ、フォトジャーナリストたちがファインダー越しに見つめ、残した数々の写真によって、我々は過ぎ去った事件、出来事の真実に触れ、深く知ろうとすることができる。 そして、そこにはフォトジャーナリスト一人ひとりと、被写体一人ひとりの、相当な覚悟と勇気も含めて焼き付けられているということ。その事実に、ふるえた。 感嘆を込めて、思わずため息を漏らしてしまうくらいに、素晴らしい映画だった。 すべてのシーン、カットが美しくて意義深い。それは伝説のフォトジャーナリストを描くに相応しい映画的アプローチだと思った。 “ドキュメンタリー映画”ではなく、劇映画である以上、“非現実”である描写も多分に含まれているのだろうが、そういう創作の部分も含めて、この“MINAMATA”というテーマに対する映画の作り手たちの思いとスタンスは真摯だったと思える。 きちんとこだわってキャスティングされた日本人俳優たちもみな素晴らしく、アメリカ映画ではあるが、この国のアイデンティティを示してくれていた。 そして、映画の製作・主演を担ったジョニー・デップが本当に素晴らしかった。 「エド・ウッド」「ブレイブ」「フェイク」……、数々の傑作の中でこの俳優は、時代の反逆児たちを演じ続けてきた。 30年近くこの映画俳優の大ファンで、作品を観続けているが、危ういまでに挑戦的で、反骨精神に溢れたジョニー・デップが帰ってきた。と、思った。 「写真」は、撮られる方も、撮る方も、「魂」を持っていかれると、ユージン・スミスは自戒を込めて語る。 それはすなわち、一枚の写真には、被写体と撮影者双方の人格が宿るということだと思う。 人間が「生」を全うするための時間は限られる。でも写真によってその一部を残すことができるのであれば、やはりそれは素敵なことだ。 と、自身の心に刻みつつ、今日も僕は、シャッターボタンを拙くも押し続ける。 [映画館(字幕)] 9点(2021-09-27 15:01:55)(良:3票) |
5. ミッドナイト・スカイ
世界の終末。放射能汚染によって住むことができなくなった地球を残して、人類は宇宙へと逃げ出す。 だが、人類が生き残るための道筋を誰よりも早く見出していた科学者は、一人北極の観測所に居残る。 彼が自らの命をとしてその選択をした理由が、淡々と、そして情感的に描き出される。 「メッセージ」や「インターステラー」など、壮大なSFの上で綴られる普遍的な人間ドラマが大好物な者としては、とても好ましく興味深い映画だった。 人類が滅亡の危機に瀕している具体的な理由などの細かい状況説明を意図的に廃して、ジョージ・クルーニー演じる主人公の残された時間と、それと並行して展開する帰還船の描写に焦点を絞って映し出されることで、より一層登場人物たちの「孤独」と「絶望」が浮き彫りになっていくようだった。 そう、この映画が表現しようとすることは、まさにそういった人間の孤独感と絶望感、そして悔恨だった。 恐らくは核戦争によって地球を捨てざるを得なくなってしまった人間全体の愚かさ。 宇宙への望みを追い求めるあまり、結果的に愛すべき人を捨てることになってしまった一人の男の哀しさ。 人間という生物全体の後悔と、その中の一個体の後悔が入り交じり、この映画全体を覆っている。 それは、決して遠くない未来の現実の有様のようにも見え、鑑賞中とても安閑とはしていられなかった。 地球全体を覆い尽くすような99%の絶望。そんな中で、ただ一つの“光”が描き出される。 ただ一人残ったはずの主人公の前に突如現れた“少女”は、彼にとって、悔恨と希望そのものであり、同時に、人類が存続するために与えられた最後の奇跡だったのだと思う。 ジョージ・クルーニー自身が監督も担った作品だけあって、登場人物の感情を主軸にした極めて内面的な映画に仕上がっている。 前述の通り、ストーリーテリングの上で論理的な説明が無い分、話自体のシンプルさのわりに分かりにくい映画になっていることは否めない。 難解という程ではないけれど、これほど主人公の内情に焦点を当てるのであれば、ジョージ・クルーニーは俳優業に専念すべきだったのではないかとは思う。 彼の豊富な監督実績を否定はしないし、今作においてもそつない仕事ぶりを見せてくれてはいるが、監督か俳優どちらかに専念したほうが、もっと深い映画表現にたどり着いたのではないかと思えた。 [インターネット(字幕)] 8点(2021-01-02 00:26:34)(良:1票) |
6. 見知らぬ乗客
初冬、久しぶりのヒッチコック映画を鑑賞。 列車に乗り合わせた厚かましいくらいにフレンドリーな男が、徐々にその異常な本性を現していく様が怖い。 序盤のシークエンスのみでは、列車内で初めて顔を合わした二人の男のどちらが、この映画の主導権を握っていくのか判別が付きづらい。 というのも、私生活においてトラブルを抱え、明確な「殺意」を表すのは、フレンドリーな“見知らぬ乗客”の方ではなく、主人公のテニスプレイヤーの方であり、彼が激情のあまり殺人を犯してしまうのかとミスリードされる。 しかし、次の展開では、見知らぬ男の方の狂気が、不気味に、淡々と映し出され、主人公と同様に、我々観客も戦慄させられる。 このあたりのストーリーテリングのテンポや間の取り具合が、1950年代の映画としては非常にサスペンスフルで洗練されていると思う。 殺人の舞台となる夜の遊園地や、犯行の瞬間をメガネのレンズ越しに映し出す演出など、流石はアルフレッド・ヒッチコックだと思わせる映画術がしっかりと冴え渡っている。 序盤は「交換殺人」というキーワードを主軸にしたサスペンス映画の様相だったが、男(見知らぬ乗客)の本性が現れてからは、この男がストーカー的に主人公の前に出没し続け、殺人を強要していくスリラー映画として、映画作品自体がその“本性”を現す。 その映画的な塩梅も、古い映画世界に相反するようになかなかフレッシュだった。 テニス会場のラリーの応酬に対して一斉に左右に首を振る観客席の中で、一人微動だにせずこちらを見つめてくる男の不気味さや、ラストの“超高速回転木馬”のスペクタクルに至るまで、終始観客の心理を鷲掴みにして離さないヒッチコック監督の映画づくりを堪能することができた。 そしてその“ラリーの応酬”や、ちょっと“廻りすぎなメリーゴーラウンド”は、映画の中で対峙する二人の男の「運命」を象徴させているようで、そういう隠喩表現も巧みだ。 キャストの中では、サイコパスな殺人者を演じたロバート・ウォーカーがやはり印象的。 非常に真に迫った名演だと思えたのに、名前を聞いたことが無いことを不思議に思ったが、この映画の後に32歳の若さで急死したとのこと。 どうやら少年時代から心に傷を追った生い立ちだったらしく、俳優になった後も妻の不倫やアルコール依存等が重なり、精神的な不安と混乱を抱え続けていたようだ。 そんな彼にとって、この作品の役どころはある意味まさに「適役」だったのだろうが、俳優本人の人生の不遇を思うと複雑な思いにかられた。 [インターネット(字幕)] 7点(2020-12-05 00:58:55)(良:1票) |
7. 蜜蜂と遠雷
「才能」を持つ者と持たざる者、その境界を描いた話が好きだ。 無論、私自身には特別な才能などなくて、「天才」なんて存在はあまりにも縁遠いものだけれど、物語を通じて、彼らが辿り着く境地に触れ、その視界の一端を垣間見れたとき、何とも芳醇な気持ちになることができる。 そこには、嫉妬や諦観、拭い去れない羨望も入り混じり、かつて自分自身が心から「才能」を欲した過ぎた日々のことも思い出させる。 恩田陸のベストセラーを知らぬまま、本作の予告編を観たのだが、瞬間的に「ああコレは好きなやつだ」と思えた。そして、主演は松岡茉優。そりゃあ観ないわけにはいくまいと思った。 人物たちの背景描写を最低限度にとどめ、本編の大半をコンクールの数日間における若きピアニストたちの「共鳴」で描き連ねた構成は潔く、この物語が持つ性質に対して真摯だったと思う。 主人公をはじめ、メインで描かれる4人がどういう人生を歩み、どういう葛藤を現在進行系で抱えているのかが、非常に気になるし、その描写があったとしてもとてもドラマチックに映し出されていたと思うが、それらを排し、彼らの人生模様そのものを「音楽」で伝えようとしたことは、この映画の在り方として圧倒的に正しく、原作の本質を捉えていたのだろうと思う。 原作は未読だが、恐らく相当に映画化が難しい題材であり、文体であったろうことは想像に難くない。 そもそもがチャレンジングな映画企画だったと思うので、もっと偏った独善的な踏み込みを見せることができれば、更に特別な映画になり得たんじゃないかとも思うけれど、それはあまりにもリスキーなことだろう。 それでも、若い演者たちを中心に、「音楽」そのものの多面的な表現に挑み、映画作品としてきちんと成立させてみせたことは、称賛に値するし、ちゃんと面白かった。 特に、主演の松岡茉優の存在感と佇まいはやはり素晴らしく、クライマックスの「演奏」は、それが「演技」であることを忘れさせるくらいに圧巻だった。 勿論、私自身はピアノなんて弾けるはずもないが、劇場の手すりに置いた手が、鍵盤を打つかのように小刻みに反応していた。 そういう反応を引き出す「音楽」をスクリーンに映し出せた時点で、本作は映画としての価値を示していると思う。 天才ピアニストの一人を演じた森崎ウィン、誰だっけなーと思ったら、「レディ・プレイヤー1」の「俺はガンダムで行く」の彼だったか。流石はスピルバーグに抜擢されただけあって、フレッシュながらも安定した存在感を放っていたな。 [映画館(邦画)] 7点(2019-10-08 22:37:25) |
8. ミスター・ガラス
《ネタバレ》 「スプリット」のポストクレジットで突如示された怪作「アンブレイカブル」のその後。 まるで想像していなかった奇跡的な連なりと、「特異」そのものの3人のキャラクターたちの再登場に際し、両作推しのシャマラン映画ファンとしては、鑑賞前から高揚感は膨れ上がっていた。 無論、映画館で鑑賞したかったのだが、公開規模が大作映画としては小さく、地方では劇場公開されず落胆。どうやら、そもそも「アンブレイカブル」と「スプリット」とでは製作会社が異なっており、両作の続編である本作は異例の二社共同製作となっていたことが、日本国内でのは配給制限に影響したのではないかと想像する。 色々な意味で「異質」な映画であることは間違いなく、それがシャマラン映画として初めての“シリーズもの”となったわけだから、普通の映画に仕上がっているはずもない。 そして、「アンブレイカブル」から19年の長き月日を経て展開されたこの続編は、過去の二作両方に対しての見事なそして特異なアンサーとして成立していると思う。 この映画の特異な終着点は、「ミスター・ガラス(Glass)」というタイトルが掲げられた時点で、ある意味明確だったのかもしれない。 「アンブレイカブル」がそうであったように、このシャマラン流“アベンジャーズ”は、画一的な“ヒーロー”の活躍を描き出したいわけではない。 あまりに不遇な自らの人生を呪い、心からコミックに登場するスーパーヒーローに憧れ、その存在を渇望するあまりに、自分自身が最凶最悪なヴィランになるという狂気にたどり着き、それを成し得てみせたイライジャ・プライスというキャラクターの信念こそが、3作通じたこのシリーズの主題だったと言えよう。 「アンブレイカブル」のラストシーンにおいて、イライジャ・プライスは「ヴィランには皆あだ名がある。私はミスター・ガラス」と悲しく言い放ち、ようやく見つけ出したスーパーヒーロー(デヴィッド・ダン)を見送る。 彼はその直後逮捕され、ずっと収容施設に閉じ込められていたわけだが、その“ヴィラン”としての立ち位置と、信念が揺らぐことは微塵もなかったのだろう。 表現として矛盾するが、彼はひたすらにヴィラン即ち「悪」としての“純真”を保ち続け、只々機会を待ち続けた。 そしてついに、不遇を極めた自らの人生の「意味」を勝ち取ったのだ。最期の彼の瞳に宿っていたものは、正義と悪の混濁だった。 極めて「変」な映画シリーズである。ただし、このシリーズが伝える「価値観」は一貫している。 「正義」と「悪」を等しく対なものとして捉え続け、両者に共通する「異質」さを、“普通”とされるこの世界に問うている。 それは即ち、「正義」とか「悪」とか関係なく、普通と異なるものを、この世界は受け入れられるのかということ。 この映画の終着点の論理は極めて“屈折”していて、多くの普通の人間には理解し難いものかもしれない。 それでも、本作の主人公は、ひび割れたガラスの屈折した光を通して、ヒーローにも、ヴィランにも姿を変えて、その難問を問い続ける。 [インターネット(字幕)] 8点(2019-08-17 23:32:58)(良:1票) |
9. ミッション:インポッシブル/フォールアウト
このスパイ映画シリーズが、アクションエンターテイメントの最先端となって久しい。 毎年、数多のアクション映画が量産され続けているが、特に2011年の「ゴースト・プロトコル」以降は、“THE 娯楽活劇”のトップランナーであることは間違いないだろう。 そして、その要因はあまりにも明確だ。 唯一無二の主演俳優であり、製作者でもあるトム・クルーズが、心からの敬意を込めて「馬鹿」と付けたくなるほど、映画人としての努力と挑戦を惜しまずに、このシリーズ作を作り続けているからだ。 前作「ローグ・ネイション」で、彼と、今シリーズに対する信頼性は極まり、スタッフとキャストがほぼ続投となったこの最新作も、必然的に信頼に足る最高級のアクション映画に仕上がっている。 サブタイトル「Fallout」は、“仲違い”や“悪いことが起こる”、そして「死の灰」という意味を持ち、ストーリー展開をうまく表現したものだったと思うが、シンプルに「落ちる」というニュアンスも含まれているように思う。 そのサブタイトルが示す通り、「落ちる」という演出に固執したアクションとストーリーテリングが、もはや“偏執的”ですらあり、ひたすらに盛り込まれる“落下アクション”の連続には、相変わらず“映画馬鹿”な大スターの気概を感じずにはいられない。 シリーズ過去作をきっちりと踏まえたストーリーはよく練られており、主人公イーサン・ハントというスパイの男が持たざるを得ない宿命と辿らざるを得ない運命を、哀しく、切なく、ドラマティックに紡いでいると思う。 前作の顛末と地続きのストーリーラインも上手く作用しており、IMFメンバーとのチーム感、敵役との関係性等、より深い描き込みが胸熱だった。 ただし一方で、前作「ローグ・ネイション」の映画としての纏まりがあまりにも素晴らしかっただけに、その見事さと比較すると大仰でとっ散らかっているようにも感じる。 個人的には、目新しいギミック描写が殆ど無く、お約束のドレスアップシーンも無かったことは、マイナス点として挙げざるを得ない。 とはいえ、55歳を超えた稀代のスター俳優が、またもや全力で疾走し、実際に大怪我をする程のアクションを体現し、満身創痍になりながら、最後には世界を救って笑ってみせる。 その笑顔一発で、些細な難点などは霧散し、最終的には映画人としての尊敬と、圧倒的娯楽に対する感謝しか残らない。 [映画館(字幕)] 8点(2018-08-15 21:20:10) |
10. 皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ
一風変わったイタリア産ヒーロー映画。 ハリウッドにおける“マーベル”、“DC”の二大コミックそれぞれのユニバース作品群は隆盛期のピークを迎えているが、所変わればヒーロー像も変わるもので、癖と雑味が激しいイタリアンヒーローの立ち振舞は、とても興味深かった。 社会のど底辺に生きるどチンピラが、突然“超人パワー”を手に入れたらどうなるか。 当然ながら突如として「正義」に目覚めるわけもなく、豪胆にもATM強盗を犯す様がまず潔い。 その後も、ヒーロー映画らしい颯爽としたシーンなどまるで無く、苦痛と苦悩にのたうち回りながら、本当に少しずつ己の運命を見定めていく愚か者の不器用さが何とも切ない。 “ヒーロー”である主人公以外の登場人物たちも、皆どこか心を病み、こじらせている。 ヒロインは陰惨な生い立ちの過去を覆い隠すかのごとく、何故か実在の日本産のロボットアニメ「鋼鉄ジーグ」に心酔し、心の拠り所にしている。 一方の悪役も、歌手になりきれなかった夢を引きずりつつ、狂気的な凶暴性を増大させていくという、ワケのわからないキャラクター像を構築している。 主要キャラクターに限らず、登場人物たちの全員が何かしらの“屈折”を抱えているように見え、それは即ち現在のイタリア社会が根底に抱えている病理性に通じているようにも感じた。 心身ともにズタズタに傷ついた愚かなヒーローは、ようやく運命を受け入れ、無様で愛おしい毛糸のマスクを身につける。 そして、眼下に見下ろす夜の街にジャンプし、映画は終幕する………が、飛翔能力があるわけではないので、きっと彼はいつものように地面に叩きつけられたことだろう。 アイアンマンやスーパーマンには敵うはずもないけれど、こんな“鋼鉄の男”がいたっていい。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2018-08-15 08:35:23)(良:1票) |
11. 未来のミライ
子どもが育つということは、ただその事実のみであまりにもドラマティックだ。 それは、どんな形であれ、子どもを育てた経験がある人、もしくはその真っ最中の人ならば尚の事、身に沁みて感じることだろう。 ただ、そのドラマは普遍的であるからこそ、映画表現としてそのまま描くばかりでは、退屈なものになってしまうことは避けられない。今作の序盤はまさにそんな感じだった。 「あ、やっちまったか?」と、序盤から中盤、いや終盤近くまで正直思った。 個人的に、細田守監督の前作「バケモノの子」の満足度が、それまでの過去作と比較すると随分と下回っていたこともあり、今作については鑑賞前の危惧が大いにあった。 予告編等のインフォメーションを見ても、今ひとつ「面白そう」だとは思えなかった。タイトルやキャラクターの台詞から、なんとなくありきたりなストーリーラインを思い浮かべてしまっていたのだと思う。 そんな思いの中で展開されたものが、想像以上に間延びした幼児の成長譚だったものだから、「危惧が的中したのだ」と意気消沈してしまったことは否定できない。 しかし、だ。この作品は、終盤にある種「異様」とも言える転じ方を見せる。 即ち、退屈と困惑からの、カオスとエモーション。 アニメーションは秀麗ではあるけれど間延びし、ありのままの幼児像に少なからずの不快感すら覚え始めていたそれまでのストーリーテリングが、時空と概念を超えて“ファミリー・ツリー”として集約され、眼の前がぱっと明るくなり何かしらが覚醒したような感覚に包み込まれる。 気がつけば、抱えていたはずのフラストレーションは霧散し、特異な充足感を感じていた。 冒頭から山下達郎の爽やかなテーマソングが流れ、いかにもなファミリームービー的な導入で始まる映画ではあったが、今作は決して万人受けするアニメ映画ではないだろう。少なくとも、大いに困惑し、最終的に腑に落ちない点も多々あると思う。 しかし、この映画が語るものが「家族」であることはやはり間違いなく、その主題を“根幹”に据え、「子が育ち、命を継いでいくこと」の意味と価値を示したこのいびつなアニメ映画は、結局のところこの季節に相応しい。 やっぱり、細田守のアニメーションは、夏がよく似合うと思える。 我が家の娘と息子も、笑いながら、泣きながら、文字通りすくすくと成長している。 その日々が、「未来」につながり、ファミリー・ツリーの枝葉を伸ばしていくのだと思うと、胸を熱くせずにはいられない。 うちも庭先に何か木を植えようか、と思うのだ。 [映画館(字幕)] 9点(2018-08-03 23:36:18)(良:1票) |
12. 未来警察
あのマイケル・クライトンのオリジナル脚本、そして自ら監督をした近未来SF。 生活の中に根付いたロボットが暴走し、人々を襲うというSF短編的なプロットに興味を引かれて鑑賞したが、良い意味でも悪い意味でも一風変わった映画だった。 まず、警察官が主人公なわけだが、制服から、警察署内の雰囲気に至るまで、まったく「未来」っぽくない描写が、期待感を削ぐと同時に潔く感じる。 そして、そのビジュアルの映画世界に対して、「未来警察」なんて殊更に違和感を生じさせるような邦題をつけちゃう日本の配給会社のセンスも、逆に潔い。 SFのベストセラー作家が描き出すに相応しいエスプリの効いたストーリー性を期待したけれど、悪党がロボット工学に長けているという設定以外は、概ねありふれた“刑事モノ”であったことが、意外であり、残念なところ。 襲いくるロボットの独特な気味悪さだったり、自動追跡銃のギミックなどについてはユニークだっただけに、娯楽性に優れた映画監督が指揮を取っていたならば、もう少しレベルの高いエンターテイメント映画になっていたかもしれない。 それこそ、「ジュラシック・パーク」同様にスティーヴン・スピルバーグが監督していたならば、映画史が変わっていたかもしれない!などという過剰な妄想を出来る程度には、妙な味のある映画だったとは言える。 [CS・衛星(字幕)] 5点(2018-04-29 00:12:32) |
13. 道(1954)
《ネタバレ》 粗暴な旅芸人“ザンパノ”は、己の体に巻きつけた“鉄の鎖”を、何百回、何千回と引き千切り続ける。 その様はまさにこの剛力自慢の愚か者が、己の犯した“罪と罰”に雁字搦めになっていることを表している。引き千切っても、引き千切っても、彼は自ら鎖を巻き続けるのだ。 きっとこの男は、この映画に描き出されていない部分においても、大なり小なりあらゆる罪を犯してきたのだろう。 そんな男の前に現れた“ジェルソミーナ”の存在とは果たして何だったのか。 罪深き男に贖罪の機会を与え、愛を知る権利を与えるための「救済者」だったのか。 それとも、彼が辿るべき「道」を決定づけるための「裁定者」だったのか。 更なる大罪を犯し、愛を知る機会を自ら踏みにじったザンパノは、ジェルソミーナのもとから逃げるように立ち去る。 そして、この愚か者は、それから数年経ってようやく自分の人生においてかけがえのないものを失っていたことに気づく。 初めて、己の罪に対する懺悔と後悔に苦しみ嗚咽を漏らし咽び泣く。 しかし、夜の海の波は、そんな嗚咽など嘲笑うかのように消し去る。 ザンパノは、血管が切れて目の光を失うその日まで、無間地獄のように、延々と同じ口上を繰り返し、鉄の鎖を引き千切り続けることだろう。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2018-04-04 23:02:34) |
14. ミュータント・タートルズ(2014)
「ミュータント・タートルズ」といえば、小学生の頃に友人宅で遊んでいたファミコンだかスーパーファミコンだかのゲームを思い出す。あまりテレビゲームが得意な子どもではなかったので、友人らがプレイしている様子を延々と見ていた気がする。 割と良い評価も聞いていたし、こういったアメコミ映画はハマればドハマリする可能性も大なので、楽しみにして鑑賞に至ったが、結果としてはまあ可もなく不可もなく、「あ、この程度か」といったところか。 “ティーンエイジャー”であるタートルズたちの良い意味での軽薄さは、ここ数年のヒーロー映画の中では新鮮なキャラクター性だったし、マイケル・ベイ製作だけあってアクションシーンの見応えはあったと言える。 ただし、これもまたマイケル・ベイ印の特性だろうが、ストーリーテリングがあまりにお粗末過ぎている。話運びまでがこれ程まで軽薄でチープだと、流石に乗りきれない。 キャラクター性を踏まえて、タートルズたちが“バカ”なのは許せるが、悪役やその他の登場人物たちまでが揃いも揃って浅はかな“バカ”ばかりで、何のフォローもなくそれを押し通してくるため辟易してくる。 もし、大国アメリカの未来を支えるティーンたちが、この映画を手放しで楽しんでるのだとしたら、呆れを通り越して正直恐ろしい。 このレビューを綴るにつれて、粗さが段々と憤慨レベルになってきた。 完全に“お子様向け”だと言うのなら、確かに楽しめる要素はあるので、映画として完全否定は出来ないけれど、マーベル映画全盛期の現在においてこの程度のヒーロー映画を見せられても、正直鼻で笑うしか無い。 ウーピー・ゴールドバーグとか何のうま味もない役柄だったなあ……。 [CS・衛星(字幕)] 4点(2015-11-20 15:04:48) |
15. ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション
《ネタバレ》 予告編をはじめとするプロモーション映像で散々映し出されていた“あのアクションシーン”が、冒頭でいきなり展開され、それが今作の贅沢な“つかみネタ”であったことを知った時、「やっぱこの人は馬鹿だ」と思った。「トム・クルーズは、本物の映画馬鹿だ」と。 シリーズ最高傑作だった前作「ゴースト・プロトコル」同様に、今作においても何よりも賞賛すべき対象は、“トム・クルーズ”その人をおいて他にない。 前作から4年の月日を経て、今年(2015年)53歳になるハリウッドスターが、今回も全力で走りまくり、跳びまくり、潜りまくり、闘いまくる。 映像的なマジックは多分にあるのかもしれないが、それでも、五十路を優に超えて“半裸”で全力疾走は、なかなか出来るものではない。 ただ走るだけならそりゃ出来るかもしれないが、5作にもおよぶスパイアクション映画の絶対的な主人公として、相も変わらず“格好良く”疾走する様に、もはや尊敬せずにはいられない。 ここ数年のトム・クルーズの“仕事ぶり”には、特に目を見張るものがある。 主演映画、製作映画のほぼ総てが確実に見応えのある作品に仕上がっている。 その理由は明らかで、冒頭に記した通り、この人の“映画馬鹿”ぶりに益々拍車がかかっているからに他ならない。 おそらく他の誰よりも、沢山の映画を観て、沢山の脚本を読んで、自らの目で才能に優れた監督や俳優を見出し、自分の主演作に最高の陣営を揃え続けているからだ。 そして、その最高のスタッフ、キャストに応えるために、彼は主演する自分自身の鍛錬と挑戦を惜しまない。 他の誰よりも、トム・クルーズは、トム・クルーズを格好良く見せる方法を知っていて、それを実践している。 その在り方は、映画スターとして、プロデューサーとして、本当に素晴らしいことだと思える。 さて「ミッション:インポッシブル」シリーズ5作目となる今作。前作に負けず劣らずアクション映画として傑作だと思う。 前作ほどのアクションシーンにおいてビジュアル的な派手さや新しさはない。その代わりに、お決まりの王道的展開を真正面から堂々と描き切り、最高の品質でブラッシュアップしている。 時に気品さえ感じる骨太なアクションシーンの連続は、とても見応えがあり、ただただ楽しい。 そういう意味では、冒頭の派手なアクションシーンはある種前作のテイストを引き継いだ“サービス”であり、それと同時に「こっから先は私の趣向でやらせていただく」という監督のプライドと自信の表明だったように思えた。 ヒロインに抜擢されたスウェーデンの女優レベッカ・ファーガソンも最高。謎めいた二重スパイ役を魅力的に演じきっていた。 かつての愛妻ニコール・キッドマンを見初めた頃から発揮し続けられるトム・クルーズの“審美眼”の確かさにも頭が下がる。 この誰よりも自分が大好きな努力家のハリウッドスターは、まだまだ続編を製作する意欲に溢れているに違いない。その資格は充分にあるし、期待せずにはいられない。 そんな満足感を携えつつ、仕事帰りのレイトショーを観終えた。 そして、スーツの襟を正し、スパイ気分で少し慎重に周囲に目を配りながら映画館を後にした。 [映画館(字幕)] 9点(2015-08-20 23:22:26)(良:2票) |
16. ミッドナイト・イン・パリ
主人公の婚約者を演じるレイチェル・マクアダムスの腰のラインが、さりげなくも妙に色っぽい。他にもマリオン・コティヤールをはじめ幾人か女優が出てくるが、どの女性もそれぞれ印象的に映る。 ウッディ・アレンという人は、相変わらず女好きで、だからこそ女優の魅力を最大限に引き出してくる。数々の女優が、彼の映画にこぞって出演したがるわけだ。 このところのウッディ・アレンはヨーロッパづいているらしく、ヨーロッパの各国の主要都市を舞台にした作品を連発し続けている。バルセロナに続いてロンドン、今作のパリ、来年にはローマを控えているらしい。 まるで一年ごとにバケーションで転々としながら、そのついでに「映画でも撮っておくか~」的な感覚でさらっと作っているようにも見える。ただ、そのくせ集まるキャスト陣はあまりに豪華で、作品自体もしっかり面白いのだから小憎らしい。 そのウッディ・アレンらしい小憎らしいほどの軽妙さが、この映画にも溢れている。 結婚を控えた主人公は小説家志望の売れっ子脚本家。敷かれた人生の行く末に揺らぎつつ、深夜のパリを徘徊する。そこに待っていたのは、憧れ続けた1920年代のパリ。 めくるめく懐古の深みの中に陥りながら、主人公は自分の進むべき道を見出していく。 タイムスリップものなのか、ファンタジーなのか、はたまた主人公の妄想劇なのか。 決して映画の世界を一方向に定めず、敢えてどうとでも捉えられる曖昧な世界観を構築し、夜な夜な徘徊する主人公の心理の如く“ふらふら”としたストーリーテリングが絶妙。 ウッディ・アレンの遊び心に促されるままに、束の間、主人公同様に古き良き深夜のパリを堪能すべきだろう。 [DVD(字幕)] 7点(2012-12-23 15:59:33) |
17. 未知との遭遇/特別編
《ネタバレ》 想像以上に“いびつ”で、“混沌”とした映画であったことに驚いた。 もっと大衆向けの感動映画なのかと思っていて、それがこれまで今ひとつ食指が伸びなかった理由でもあったけれど、想定外の映画の世界観に心が掴まれたことは間違いない。 この映画は、スティーブン・スピルバーグのイマジネーションと深層心理が混ざり合った、ある意味極めてパーソナルな作品なのではないかと思う。 映画の序盤からラストに至るまで、「不可解」という言葉が常に寄り添う映画だった。 解消されるものも、解消されないままのものもあり、壮大なエンドロールを経て、「一体、何だったのだろう?」という思いがポツンと残った。 きっとそのことが、望んだ娯楽性に合致せず、この映画を嫌う要因になっている人も多いだろう。 ただ僕は、その「不可解」さこそが、スピルバーグがこのSF映画に込めたかったものだと思えてならない。 “科学的に説明のつかないもの”を不可解と認め、追求し続けることこそが、「科学」なのだと思う。 したがって、最後まであらゆる状況や言動に対して明確な「理由」を示さなかったことこそが、この映画が「科学」に対して極めて真摯であることの証明だと思えた。 “いびつ”で“混沌”としたストーリーに「粗」は多い。個人的に主人公の言動には終始共感出来なかった。 けれど、泣ける。 分かりやすい涙は流れなかったけれど、主人公が選んだ道、いや選ばざるを得なかった道に対して、心がさめざめと泣いていた。 壮大で感動的な映像と音楽に彩られているが、この映画のラストは、決して“ハッピーエンド”ではない。 人生に拭いされない違和感を感じ続け、結局自分のことも家族のことも幸福に出来なかった寂しい男が、唯一の“よりどころ”を盲目的に追い求め、そこにすがらざるを得なかったという話だ。 「希望」はもちろん描かれているが、代償となる「喪失」も確実に存在している。 この物語から滲み出ているものは、描き出したスピルバーグ監督自身が抱える葛藤なのだと思う。 自分自身も含め、"ある種”の人間の本質を生々しく切り取った映画であるからこそ、多くの人の心に吸いついて離れない作品に成ったのだろうと思う。 正体不明の物体が靄の中に見え隠れする映像が象徴するように、観た者の心にも靄を残す映画だ。 故に傑作であることも間違いない。 [ブルーレイ(字幕)] 9点(2012-09-29 16:03:44) |
18. ミッドナイトクロス
ヒロインの「悲鳴」に気づき、ジョン・トラヴォルタ演じる音響効果マンの主人公が彼女の危機を救うべく走る。 このクライマックスまで冴え渡るブライアン・デ・パルマのカメラワークを観ながら感心しつつ、一方で「意外とオーソドックスな映画だったな」と、その後に訪れるであろうエンディングを予想して思った。 そして、同時にジョン・リスゴーが扮する殺人者の存在性や解消されていない物語設定に若干の整合性の欠如を感じ、「不満」が顔を見せ始めた。 しかし、その直後、「不満」は速やかに叩き伏せられた。 安直な予想を覆す圧倒的に印象的なエンディングに言葉が無かった。 時に軽妙ささえ巧みに醸し出しながら展開してきたサスペンス色豊かな映画世界が、一転して上質な「悲劇」へと帰結する。 過去に傷を持つ男が、或る事件の遭遇によってかつての正義感を揺り起こす。それは、不遇を極めている人生からの起死回生の脱却を図った一人の男の姿だったと思う。 しかし、人生の無慈悲は、ふいに生まれたその転機のきっかけさえも、無情過ぎる悲劇をもって消し去る……。 大いなる失意の中で音響効果の仕事に戻る男。 試写を観ながら「いい悲鳴だ」と繰り返し呟くその様は、男が静かに精神の闇に沈み込んでいく様子が如実に表れており、胸が詰まるラストカットだった。 本編への重要な伏線となる劇中映画を用いたオープニングからはじまり、ラストの美し過ぎ悲し過ぎる花火シーンに至るまで、全編に渡ってブライアン・デ・パルマの卓越した映画術が冴え渡っている。 おそらく、一度観ただけでは気付かないような細かな映画的工夫も随所に散りばめられていることだろう。 そして、ジョン・トラヴォルタは、映画世界の展開とそれに伴うテンションに混じり合うように呼応し、音響効果マンの主人公を演じ切ってみせている。 群衆の賑わいに掻き消される悲鳴。誰にも届く筈の無い悲鳴が、主人公にのみ届くという映画的な巧さと絶望感。 鑑賞前に予想していたものとは全く違う感情を覚えたが、それこそが映画の醍醐味だと思う。 良い監督と良い俳優による文句なしに良い映画だった。 [DVD(字幕)] 9点(2012-02-02 13:47:26)(良:1票) |
19. ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル
50歳手前のトム・クルーズが、とにかく走りまくり、飛びまくり、吹き飛ばされまくる映画だ。 この映画に対して「どういう映画だ?」と問われれば、こう答えたいと思う。 正直言って、彼のそのパフォーマンスだけでも「脱帽」だと言えるし、必ずしもトム・クルーズのファンでなくともその部分だけでも観る価値はあると言える。 ハリウッドの映画スターとして存在し続ける彼の在り方は、まるで一流のベテランアスリートを見ているようだ。彼自身の俳優としての鍛錬と向上心が、“トム・クルーズ”というハリウッドスターの存在性と輝きを保持し続けているのだと、思わずにはいられなかった。 映画自体は、「ミッション:インポッシブル」というスパイ映画シリーズとして「面白い」としか評する言葉は必要ないと思う。PART2、PART3の出来が決して良くないので、そもそも質の高い映画シリーズとは言い難い部分はあるが、今作は、それらを補える程の面白味を携えたPART4として仕上がっていたと思う。シリーズ最高傑作と言っても間違いないと思う。 こういったシリーズ物の悪しき特徴として、最新作の設定において前作の苦労があっけなく水泡に帰してしまっているということが多々ある。今作にしても、前作で必死になって守り切ったものが、すでに喪失してしまっているというくだりがある。 それに対しては大いに難癖を付けたかったところだったが、今作はエピローグで見事に消化してくれている。 そのこともあり、ラストのシークエンスがより爽快感に溢れ、50歳を過ぎようがなんだろうが、トム・クルーズの更なる続編に期待は膨らんだ。 とにかく映画の中のあらゆることが超格好良くて面白い。それだけの映画だ。 [映画館(字幕)] 9点(2011-12-25 23:59:09)(良:2票) |
20. ミスター・ノーバディ
土曜日の深夜にこの映画を観た。 映画を観終わり、エンドロールが終わっても、しばし呆然とした。 そして、それほど眠気は無かったが、すぐに眠ることにした。 いつもならば、映画鑑賞をした後はすぐにレビューの文章を綴るのだけれど、この映画の感想を綴るには、とてもじゃないが一日使い古した深夜の思考回路ではおぼつかないと思えた。 それに、一旦眠りに就き、一晩夢見の中でこの映画の余韻に浸りたいと思った。 「死」がなくなった新世界、世界で最後の「死」を迎える老人が118歳の誕生日に自身の人生を顧みる。 あの日、あの時、ああすれば良かった……。という思いは、人生という限られた「時間」を生きゆくすべての人間が思い巡らせることだろう。 自分の人生はただ一つだが、実は同時に「選択」の数だけ無限のパラレルワールドが存在し、それと同じ数だけの人生が存在するということが、あまりに美しいビジュアルの中で表現される。 「選択をしなければ、すべての可能性が残る」 と、人生において最初の「選択」を迫られた少年時代の主人公が語る。 映画は展開し、無限のような広がりを見せた果てに、その少年時代の台詞に帰結する。 死を目前にした老人が“過去の記憶”を辿っていく物語に見えていた映画世界が、その瞬間から、9歳の少年が自らの「選択」による“未来”とそれに伴う“可能性”を辿った物語に転ずる。 それまでに脳内に注ぎ込まれていた膨大で不可思議なイメージが、一瞬で整合した感覚を覚えた。 この映画のすべてを自分自身が正確に把握し理解しているとは思わないが、圧倒的に凄い映画であることは間違いないと思った。 「人間」の営みそのものを宇宙的視野の中で捉え、見事としか言いようがないビジュアルで表現した世界観は、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」を彷彿とさせる深遠さと崇高さを備えていた。 そして、この映画が表現する「概念」そのものは、手塚治虫の傑作短編集「空気の底」の映像化を見ているようだった。 決して万人に受け入れられる映画ではないだろうし、個々人の精神状態次第で酷く退屈な映画になり得る作品だと思う。 ただ僕は、自分自身が己の人生を通して考え続けているあらゆる要素が溢れているこの映画から目線を外すことが出来なかった。 敢えてもう一度言う。凄い映画だ。人生を通して何度も観たい。 [DVD(字幕)] 10点(2011-11-27 01:37:41)(良:1票) |